読了ありがとうございました!

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11/16/2024, 9:17:22 AM

子猫。
小説。










 俺に唯一懐いてくれた猫がかわいくって、スーパーでちくわを買ってきては、食べさせるということをしていた。

 となりの家のわるばばは「ちくわなんて辛いもんやるな!」とか「放し飼いにするな!」とかガミガミ怒るけど、俺はいつも聞き流している。

 俺から逃げなかった猫なんて、はじめてだ。
 俺はあばれる猫の腹に顔を押し付ける。どくどくどくどく、人間よりずっと早い心臓の音がした。
 うすいお腹。
 あっという間に死んじゃうんじゃないだろうか。
 わるばばに相談すると、「……動物病院で定期検診を受けさせるんだよ」といわれる。金ない……とメソメソしていうと、また怒られた。

 俺が地元に帰ったときは、わるばばがちくわの面倒をみていてくれたらしかった。
 人類はびっくりするほど猫にやさしい。
 俺と顔を合わせるたび「へっ!」とガンをつけてくるわるばばが、ちくわにはめろめろで、猫なで声を出している。

「ちーちゃん、そこにいるのよ。お兄ちゃん帰ってくるからね」

 と、わるばばの声がしてから、扉が開いた。
 俺の顔を見て、わるばばが「へんっ!」と唇を歪めた。

「これ、おみやげ」

 ちくわを世話してくれたお礼を兼ねて渡すと、わるばばはじっと警戒の目で俺を見てから、俺から紙袋を受け取った。目の前にあっても、おみやげを買ってきてもらえたとは信じきれていないようだった。
 実家に帰れ、っていったのはわるばばなのに。
 中を覗き込んでから、「こんな量ひとりで食べきれるわけなきゃろーが……」といった。

 たまに顔も見せんなんて、親不孝モンや! と、わるばばにいわれたことがある。
 ほかにも、ごみを分別しないだの、夜遅くにうるさいスポーツカーで帰ってくるだので、俺はわるばばに嫌われている。

「|子乃《ねの》さん、明日は買い物は? 車を出してあげる」
「いらね、んなもん」

 わるばばめ。
 子乃さんはそっぽを向く。
 俺はボロボロで古びた子乃さんの家に、この夏、エアコンを設置してあげた実績がある。

「こたつは出した? 俺がまたやってあげるよ」
「あんたがこたつに入りたいだけで、しょっ」

 といって、子乃さんはおみやげも受け取らず、扉も閉めず、部屋の奥へもどってしまう。

「子乃さん、ぽっくり逝っちゃいそうなんだもんー。ねー。交通事故とか、餅つまらせるとか、凍死とか」
「うるさいわねっ」

 子乃さんは黙ってやかんを沸かしはじめた。
 俺はまごまごと靴を脱ぎ、家に上がる。子乃さんのお茶の準備を手伝った。
 ちらっと見えた部屋の奥は、こたつが出ていた。
 きっと、あの中に猫がいるんたろう。





11/14/2024, 5:17:55 PM

また会いましょう。
小説。
昨日(2024/11/13)のテーマです。
今日のテーマ秋風は、下にあります。











 わたしは図書館でダンセイニを探していた。一度、利用者用資料検索機で調べ、分類番号と著者記号を覚えておいた。
 なのに書架の前に行くと、ふしぎと見つからない。
 貸出中なのかと思って、もう一度検索機で調べに行ってみる。貸出可になっている。
 なんでなんだろう。もう一度書架の前にもどってみると、今度はあんなに見つけられなかったのが嘘のように目の前にある。

 喜んで本を引き抜いた。すると隙間から書架の向こう側が見えた。向こう側にも人がいたようだった。わたしより背が高くて、はじめにその人の顔の下半分が見えた。目線をあげると目があった。
 これがオリベ先輩だった。

 これまでどこでなにをしていたか知らない。かわいがってくれた教授の誘いを蹴って、北極のレンジャー教育施設へ短期留学生してしまった……とは、友だちから聞いた話だ。わたしは知らなかった。そもそも、教えてもらえるような関係でもなかった。
 こんなところでばったりと出会うなんて。思ってもみない幸運にわたしの頭は茹だりそうだった。

 オリベ先輩は踵を返し、歩いていってしまう。
 図書館では大声を出すことも、走ることもしてはいけない。
 わたしはできる限りの早足でオリベ先輩を追いかけた。書架をひとつ挟んだ向こうをオリベ先輩が歩いている。
 並行になって追いかけていると、先輩が角を曲がった。先輩は専門書の並ぶ奥のほうへ消えていった。
 わたしはぐるぐるとそこを回ったけど、書架にはどんなマジックがかかっているのか、先輩の行方はわからなかった。

 外に出てはいないはず……。
 今日は大雨だった。朝はそんなにひどくなかったんだけど、図書館に入ったところで大荒れになった。ものすごい量の雨が窓を伝っている。
 図書館には雨やどりに来て、出るに出られなくなった人たちで息を殺している。
 外で大きな雷が鳴った。

 料理本から、建築、教育、自然科学、と棚を覗いていくと、向こうの通路からおなじようにこちらを覗き込んでいる人が見えた。
 書架をひとつ挟んで向こうの通路から、男の人が棚を覗き込んでいる。あの人もだれかを探しているんだろうか。
 ぴったりわたしとおなじ歩幅なので、覗くたびにわたしと顔を合わせる羽目になった。

 三回合わせてから、おかしなことをしてしまった、とわたしは立ち止まった。向こうも立ち止まり、わたしのほうを向いて会釈した。
 わたしは通路から通路に向かって声をかけた。

「背の高い眼鏡の男の人を見ませんでしたか」

 向こうの男の人は眉を上げた。

「だれかお探しですか」
「ええ。あなたもですか」
「はい。はじめは本を探していたんですけど……」
「わたしもです」

 わたしたちは歩み寄って話した。

「外は雷雨ですから」
「ええ。中にいると思います」
「はい。健闘を祈ります」
「それは悪魔に」

 男性はふらっと立ち去ってしまった。
 わたしも気まずくなって、彼とは反対方向に踵を返した。
 すると、いた。先輩が、閲覧席にすわっていた。
 わたしは近くの棚からチョコレートの歴史という本を取り出し、先輩のとなりに座った。

「オリベ先輩ですよね」

 と、いうと、先輩は「私語禁止ですよね」とつめたく言った。なによちょっとくらい。先輩は目線ひとつくれなかった。
 なにを読んでいるのか気になったけど、詮索するのはマナー違反かとおもって黙った。
 先輩は本から栞を抜き出すと、ポケットからはボールペンを取り出した。文春文庫の栞になにかを書きつけると、わたしに渡した。
 それから席を立つと、つかつかとカウンターに歩いていってしまう。

「外は雨ですよっ!」

 と声をかけると、人差し指を唇に当てて振り向いた。

「瞬間移動で帰れます」
「そんなことできるわけない」
「冬には魔法が起きるんです」
「この栞、どういうことですか」
「願いを口にすると悪魔に邪魔されるから、魔法を使うときも魔法使いは一言もしゃべっちゃいけないんです」

 適当なことをいって、先輩は出ていく。

















秋風。


 家に帰りたくなくてベンチでうずくまっていると、小学校低学年くらいの子どもたちが、落ち葉シャワーで歓声をあげていた。
 両手いっぱいにかかえて「せーの!」と舞いあげて遊んでいる。

 呆然として眺めていると、中学年くらいの女の子たちがそばにやってきた。
「おねいさんどうしたの?」
 落ち込んでるみたいだったから……といって、名前のわからない花をくれた。

 感動して涙ぐんでいるわたしの脇に、三人はしゃがみこむ。わたしを慰めてくれる――というわけではなく、わたしの足元にいるコロを「よしよし」と撫でている。
 わたしみたいなのに話しかけてくれたのは、コロがいたからだろう。

「ありがとう。ありがとうねえ」
 鼻を鳴らしていうと女の子たちはぽかんとして、怯えた様子になって、べつに、といった。
 仲間どうしで顔を見合わせると、逃げていった。
 コロ、ありがとね、と、飼い犬の背中を撫でているわたしを、三人のうちのひとりが振り向いた。
 けど、わたしのうしろを見て目を見開いた。それからはもう振り返らず、たーっと急いでクヌギの木の裏に隠れてしまった。

 うしろには、わたしの弟が立っていた。
 いつの間に来たのだろう。
 わたしが目をこすつているのに気づいたみたいだった。「なんで泣いてんのん」といわれた。わたしは「泣いてなんかない」と答えた。
 リクは一度、キッと林のほうをにらみつけたけど、次にはわたしの前に回って泣き顔を確認しに来た。

「泣いてるやん!」

 わたしが花をもっているのに気がついて、それを奪い取った。

「あっ」
「こんなもの」
「ちがう。もらったんだよ。さっきの子たちに」
「ふん。フジモリの妹たちじゃん。あの団地の」

 リクはくんとピンクの花のにおいを嗅いだ。それからわたしに差し向けた。
 返してくれるのかとおもったら、ぴっ! とわたしの目の前で花弁を引き抜いてしまう。

「ああっ!」

 わたしは堪らず悲鳴を上げた。
 リクは静かな声でいった。

「大丈夫」
「大丈夫って、なにが……っ」

 リクはひらりと花を落とした。

「明日はいいことが起きる……」「お母さんに怒られない。大丈夫……」「テストでいい点取れる……」「ピアノの先生に褒められる……」「晴れる……」「おいしいもの食べれる……」「ユカワの馬鹿が転校する……」

 ぴっ、ぴっと引き抜いて、花びらは全部取れてしまった。
 ガクや、葉っぱまで引き抜いて、リクは茎だけになるまでそれをつづけた。ひとしきり済むと、リクはお終いとばかりにうしろに放り投げた。

「帰るぞコロ!」

 大きな声を出して、わたしからコロのリードを奪うと、身を翻して、公園の外に駆け出してしまう。
「ええーっ!」林のほうから女の子たちの悲鳴が聞こえた。花びらをちぎり捨てるリクの行動に、「ええーっ!」とか、「はぁーっ!?」とか、声をあげている。
 それも耳に入らないかのように、リクは坂を駆け上がっていく。
 リクは足が速かった。六年生のなかで一番らしい。
 びゅんびゅんと走って、コロにもさらに走らされて、坂の上の住宅街に消えていった。

 あっという間に見えなくなった。サアと風が吹く。わたしの傍を吹き抜けて、落ち葉がわたしの足元にすべりこんだ。わたしはそれを踏みつける。乾いた音が立つ。当たりばっかりの夢みたいな花占いの残骸を踏みしめ、立ち上がると、わたしは坂の上を見あげて、一歩一歩と追いかけていった。








11/13/2024, 9:25:41 AM

スリル。
小説。









 出前館さんやウーバーさんは、動きやすくて清潔感のある格好をしている。商品受け取り口へまっすぐにやってくるので、ぱっと見で判別ができる。
 俺たちはお客さまには「いらっしゃいませ!」といい、出前館さんやウーバーさんには「お疲れさまです」という。
 ぱっと見で客か、ウーバーさんたちか見分けられるしかも百発百中の先輩がいる。

 その日は大雨でだった。近隣の学校がみんな休みになるくらいで、こんな日にウーバーなんてと俺は思うが、ウーバーさんのなかは「楽しいじゃないですか! こんな日こそ!」「平気ですよ! 好きなんです、台風が」と言っている人もいる。台風の日に商品を取りに来てくれるのはそういう配達員さんだ。

「スリルですよ」
「スリルですか」
「こんな日に働いているのはお互いさまですよ。じゃッ。お疲れさまです」
「お疲れさまです。おねがいしまーす」

 俺は、せめて事故に遭わないようにと祈りながらウーバーさんを見送った。
 入れ違いでつぎのお客さまがやってきた。
 蛍光オレンジ色のつなぎを着ている。ウーバーさんかな、出前館さんかな、見たことない配達員さんだ、と思いつつ、「おつかれさまでーす」と声をかける。
 若いお兄さんがはにかんだ。
「番号おねがいしまーす」と俺はきいた。
「すみません。ネットで注文していたN0010です」といわれた。ウーバーじゃなかった。

「ウーバーかと思ったわよねぇ」とフロントの田川ナミ子さんにも囁かれた。
「そうですね」
「服がね、あれだものね、世良くん」
「オレンジですからね。カリヤ先輩なら見分けついたんですかね」
「あの人百発百中だからねぇ」
「俺、間違えましたよ。お疲れさまですって言っちゃいました」
「あたしも。焦っちゃったわ」
「スリルですねぇ」
「はァ?」

 外でオレンジのつなぎのお兄さんが雨の中を走っているのが見えた。お兄さんの向かう先には、ゴミ収集車があった。
 ゴミ収集車のお兄ちゃんだったのか。
 ゴミ収集車には運転席にもひとり乗っていて、お兄ちゃんに向かって扉を内側から開けてあげている。
 いっしょに食べるのかなとおもっていると、ナミ子さんが、「おいしいもの食べてほしいわね……」といった。

「そうですね」
「お疲れさまよお」
「お疲れさまですね」

 雨足が弱まる気配はない。
 店長のウルシバタさんが、そのときうしろから飛び出してきた。

「ええーい帰りましょう! あと一時間で店仕舞いよ! 店は十五時まで。わたしと世良くんは残ってクローズ。ナミ子さんは、十四時で上がっていいから」
「やったー!」
「ヤマグチさんが裏に来ていて、ヤマグチさんが車で送ってくれるって、ナミ子さん」

 ナミ子さんがお疲れさまでーす! とその場でくるくる回る。
 それを見て、雨やどり中のお客さまが笑っていた。








11/11/2024, 10:32:21 AM

ススキ。
小説。
昨日(2024/11/10)のテーマです。











 ミナミの声がうるさすぎて、アップルウォッチから音の大きな環境!!! って警告がきた。
 なにごとかと思って目を向けると、ミナミが玄関口で震えている。哀れに腰を抜かし、へたりこんでいた。
 ミナミがコロの散歩に行こうと玄関に向かったところだった。

「あ、あ、あ」
「ミナミ〜どうした〜?」
「あ、あ、俺……俺……」

 ミナミは足元を見下ろして、ふるえている。
 コロは飼い主の友だちに寄り添ってくんくん鳴いている。
 またか。

 ミナミはここ最近おかしい。なんかよく震えている。幻聴が聞こえるんだとか。耳鳴りもするし、寒気もするという。寝不足なのと、就活のストレスでイカレているんだろうと、俺とかカスガは思っている。直近、彼女に振られたことも関係あるのかもしれない。一昨日は、「しらない女が寝ている俺の足首をつかむ」と言っていた。

 それで、俺たちがミナミといっしょに泊まることになったのだ。俺と、ここにはいない――今さっきコンビニに行ったカスガと、おなじサークルのアキチカで泊まることになった。カスガの家に。

 カスガの犬のコロが俺に駆け寄ってきて、ミナミのほうに促した。
 実際、昨夜、ミナミに怪異は起こった。
 俺たちもはっきり聞いた。
 俺としては、怪異と思えないし、思いたくないんだけど……。
 と、いうのも、昨夜俺たちが遭遇したのは、『しらない女が足首をつかんでくる』怪異じゃない。姿も見ていない。足首をつかまれもしなかった。ただ、足音が、コツコツコツと部屋の外でしていた。

 昨日は雨だった。だから、雨音だと俺は思っているのだ。
 雨の音だよといって主に俺がミナミを励ましていたのに、それを裏切るように連続的なコツコツコツという音は、俺たちのそばまで迫りきて、俺たちの部屋の前で止まった。
 緊張が高まりきる前に叫んだのは俺だった。みんな不意打ちで固まっていた。「幽霊はさ! エロい話してたら近寄ってこれねぇんだぜ!? 知ってたか!?!?」と叫び、真夜中の二時に下ネタを連呼した。それが俺的除霊法だった。アップルウォッチに音の大きな環境!!! といわれた。

 アップルウォッチからけたたましい着信音が届いたのは、そのときだった。俺の渾身の下ネタがかき消される。
 着信は非通知だった。深夜二時にうるせえよ馬鹿。電源を落としても関係なしに鳴り響いてくる。「とにかく寝ろ」とカスガになだめられながら、俺たちはなんとか一夜を耐え抜いた。

 もうこりごりだった。寝不足どころじゃない。ストレスでイカレそうだ。
 ミナミへの同情心も尽きてきて、俺は、こいつといっしょにいたら俺まで呪われる、と見放したい気分になる。
 足音は明け方までつづいた。
 あれ、上の階の人の足音っしょ、昨日ダンスパーティーだったんだよ、と俺はミナミとアキチカを励ました。ふたりとも相槌すら打たなかった。そんなわけないって俺だってわかってるけどさ、俺だってキツいのに、そういう顔やめてくれねぇかな。

 ふたりがのろのろ着替えているのを横目に、俺はカスガに当たり散らしてた。
 音というのは案外、跳ね返ったり、物に吸収されたりして、自分が思っているより変な方向から聞こえてくることがある。昨夜の音もそれだったんだ! 天気が悪くて、ミナミがおびえていたから、過剰に反応してしまったたけで、怪異なんてなかったと、我ながらこじつけに近い説得を繰り返した。
 カスガは黙って俺の話を聞いてくれた。俺と自分用にコーヒーを淹れてくれた。
 俺の話が終わってから、

「でも、こういうところから怪談がはじまるんだろうな……」

 と、いった。

「え?」
「うん?」
「……いや、どういう意味だよ」
「どういう意味って……そうだな」

 カスガはコーヒーに口をつけて、離してからいった。

「根拠なんてないだろ? おまえの話。たしかに、音の出処ってのはわかんないよな。やまびことかあるし。音は跳ね返る。空耳もある。でも結局、あの音がそうだったかなんて根拠はないんだ。一見それっぽく説明がついてるけど、根拠がなけりゃ、舞をやったら雨が降ったとかと、おなじレベルだよ。新しい怪談を作ってるだけだ。自分が納得できる真実を捏造してるだけ」

 そういって、コーヒーをすすった。カップから口を離して、俺にコーヒーを勧めた。
 俺は機嫌が悪くなって、いらない! といった。

「本当にガキだな、ケイは」
「いらないって! おまえが飲めよ」
「ああ。そっか。ブラックじゃ飲めない?」

 ちげぇって! と大声を出す前に、被せ気味にアキチカが「俺、出かける」と宣言した。
 なにごとかと振り向くと、すでに財布を持ってそこにいる。

「なんかどうでもよくなってきたわ!」

 アキチカは、俺がぎゃんぎゃん言っているのを聞いて吹っ切れたらしかった。

「俺もケイみたいに生きるわー」
「なに? 馬鹿にしてる?」
「してない、してない。もういいんだー真実でも真実じゃなくても。俺はケイのいうこと支持するよ。信じたいもん信じる。うん! あれはお化けなんかじゃなかったね! お化けなんて嘘、嘘!」

 と、うれしいことをいう。
 ミナミは顔色が悪いままだったが、アキチカはカフェオレ飲みて〜といって、元気になってきたようだった。ミナミを奥に残して、コンビニに行くと言い出す。それで家の外にいってしまった。
 カスガがため息をついて、スマホと財布を引っつかむ。

「カスガ行くのか?」
「ああ。チカが心配だから。行くよ。ケイ、留守番頼んだぞ」
「了解。俺、爽健美茶」
「急に自己紹介やめてくれる? 俺のコーヒー飲んどけよ、キサキ・爽健美茶・ケイくん。あとさ、ケイ、俺んち最上階だから、俺んちより上の部屋はないよ」

 カスガはそう言い残した。
 俺はごくんと唾を呑み込んで、カスガを見送った。
 雨はすっかり上がって、十一月の遅い日の出にアスファルトが照らされている。

 ベランダからカスガたちを見ていた俺に、ミナミがうしろから声をかけてきた。
 ――ミナミに突き落とされるかと思った。ベランダからどーんって。ミナミが、あんまりに低い声をしていたから。

「コロの散歩行ってくる」
「えっ?」
「コロの散歩」

 いや、聞き取れなかったわけじゃないんだけど。
 ミナミを外に行かせていいのか迷った。
 見ると、ミナミの足元でコロがしっぽを振っている。
 そういえば、昨日コロはどうしていたんだろう。自分に夢中で気づかなかったけど、コロも暗闇のどこかでおびえていたかもしれない。
 そう思うとかわいそうになって、止めるのを戸惑った。
 でも迷ってから、意を決してミナミを止めた。

「やめたほうがいいよ」
「なんで」
「コンビニってすぐだろ。カスガたちはすぐ帰ってくるよ。カスガに行かせればいい、コロはあいつの犬なんだから」
「外に出たい気分なんだ……」
「……やめろって!」

 ミナミの肩をつかんだが、ミナミは抜け殻のようにぼーっとしていた。
 俺は硬直してしまった。
 俺の横をすり抜けて、ミナミは外に出る支度をしはじめた。
 ミナミは犬が好きだし、コロも俺たちの中じゃ、カスガの次にミナミが好きだった。行かせてやるのがいいかもしれない。コロも行きたそうだ……昨日は雨で行けなかったから……。
 でも、俺ひとりで残るのか?
 俺もミナミに着いていく? こんなはた迷惑な奴に着いていかなきゃいけないのか?

 ミナミはベランダの景色を見て、この部屋が最上階にあることを思い出したのかもしれない。
 お化けなんて本当にいるのか? 本当に?
 朝日につつまれていると、すべてが嘘のようなきがしてきた。
 ミナミが玄関で叫び声を上げたとき、もう俺はうんざりした気分だった。
 コロに鳴かれてそばまで行くと、ミナミは首を出して玄関の外を見ていた。

 黒っぽく雨で濡れたコンクリートに、足跡あった。大人の男のサイズで、きちんと両足そろえて、この部屋につま先を向けている。足跡のまわりだけが白く乾いている。まるで濡れた靴でこの場所に立ち尽くし、男の体で傘になった部分だけが濡れずにあるみたいだった。

「やっぱり、やっぱり、俺は呪われてるんだ……! なんで、なんでだよ! あいつか、あいつのせいか。俺が悪かったのか悪かったのか?! あんなの、みんなだれだってしてるだろみんなっ!」
「落ち着け、ミナミ」

 ミナミは全身から振り絞るような声をあげ、泣き崩れ落ちてしまった。肩がびくびくと跳ね上がり、背骨がまっすぐ立てられないというように曲がっている。

「ミナミ、聞け」
「ごめん……ごめんケイ……許してくれ」
「ミナミ!」

 すがりついてくるミナミの腕をキツクつかんだ。

「ミナミ聞けって! おまえは大丈夫だから。呪われてなんかない。大丈夫だから。大丈夫。だから俺を見ろ! ミナミ!」

 ミナミの顔からぽろっと涙がこぼれ落ちるのを見た。

「嘘ばっかり……」
「俺は嘘をつかない」
「嘘だった……上の階なんて。俺を慰めるために言ってんだろ。どうせ。どうせおまえは優しいから……」
「違う」

 俺はミナミの耳に手を添えて、上を向かせた。

「よくよく考えてみろよ。上の階がないから、足音は雨の音かなんかだ。あんなに大雨だったのに、はっきり足音が聞こえるなんておかしいんだよ。雨漏りかなんかしてんだよこの家は。アップルウォッチは信用するな、ああいう人柄なんだアップルウォッチは。信用するな。それに、その足跡も、お化けなんかじゃない」

 俺が指をさすと、ミナミもそれを振り返った。

「ミナミ、おまえがこれまで見たお化けってやつはどんなだった?」
「……どんな?」
「寝てる間に足首をつかまれたんだろ」

 思い出してぶるっとふるえるミナミの肩を撫でさすった。

「こわい顔をしてたよ……すごい目で俺を見ていて、顔が青白いんだ。ひと目で生きていない、ってわかる顔……。でも俺にはこころ当たりがないんだ。本当に。見たことない、あんな女……」
「それだよ!」
「え?」
「見てみろよ」

 玄関先にあるのは男の足跡だ。
 ミナミは動転して気づかなかったかもしれないが、今回俺たちに起こった怪異のようなものは、脈略ってものがなさすぎる。全部環境に都合がいいんだ。連続的な音がするから足音だとか、雨が降ったから足跡だとか。これまではミナミの部屋に出ていた怪異が、カスガの家に移動した途端中に入って来れなくなるのがピンと来ない。つか、足音なのに足跡が残ってるってなんだ。ここで幽霊は足踏みでもしてたのか? ミナミより先に出たアキチカたちは足跡に気づかなかったのか? ……アキチカは気づかなかった可能性はあるな。でもカスガは気づくだろう。気づいたのになにもいわなかったのか? カスガはこれが怪異の仕業じゃないとわかっていたんじゃないだろうか。
 俺はカスガの家の靴箱を開けた。
 これは俺が以前カスガの家に来たときに気づいたものだ。ミナミはしらないだろう。

「それ……」
「うん」
「なに」
「防水スプレー」

 男の足跡の正体は、これだ。

「それはカスガの靴の跡だよ。ほらぴったり」

 防水スプレーといっしょに拝借したカスガの靴を当ててみると、ぴったり当てはまった。……いや、ちょっと足跡のほうが小さいか? 雨が止んだのは数時間前のことだ。今は太陽が照っている。少し乾いたのかもしれなかった。

「ぴったりだろ? ともかく、これが真相だよ。カスカは臭いが嫌だったんだろうね、防水スプレーの。カスカはこの場所に靴を置いてスプレーを使った。それで、まわりの地面が靴の形に防水された。スプレーの当たらなかった靴の真下と、靴から離れたところが雨に濡れて湿って、この足跡が浮きあがった、ってのが真相さ」

 俺は早口にしゃべり終えるとミナミを見た。
 ミナミはすっかり俺に感激して、ぽっかり開いた口で「すごい……」と声をもらした。

「だから、大丈夫だから」
「……うん」

 頭をくしゃくしゃに撫でるとミナミがうつむいて目を擦った。

「ケイは馬鹿だな」
「はっ?」

 けしからん発言が聞こえて振り返ると、カスガがうしろに立っていた。
 今までの話を聞いていたらしい。
 エレベーターの音、聞こえなかったんだけどと思っていると、階段のほうからアキチカの息遣いが聞こえてきた。階段で上がってきたのかこいつら? こいつらのほうが馬鹿じゃね?
 アキチカ、筋トレしてムキムキになりたいっていってたもんなーと思って待っていると、アキチカもようやく俺たちのもとにたどり着いた。

「キエエーーーー! 足跡!」

 それから初見のミナミとおなじように叫んだ。

「おかわり。間違えた、おかえり」

 アップルウォッチが音の大きな環境です!!! といった。



 俺の鮮やかな推理を披露すると、アキチカもすぐに納得した。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花、だな」

 そう晴れやかな笑顔でいって、俺を満足させた。ふふ。名推理だろ。

「あっ。おい聞いてよ。おまえらの朝飯買ってきたぞ」
「助かるわ。サンキュ〜アキチカ」
「褒めてつかわすぞ、アキチカ」
「ケイにはやらんねぇわ」
「なんで!?」
「俺が作ってもよかったんだけど」
「三人分も作るの大変っしょカスガ! こいつらには菓子パンでも食わせておけばいいよ」

 菓子パンでもとはなんだ! とミナミがアキチカに食ってかかる。
 ばたばたと部屋に入っていくふたりを見ながら、俺は防水スプレーとカスガの靴を靴箱に直していた。

「ん?」

 靴箱を覗き込んだとき、さっきは気づかなかったものに気がついた。
 奥の張り紙がある。いや、張り紙じゃない。靴箱の奥の壁には、御札が貼り付けられていた。

 俺たちは、なんで俺のでもアキチカのでもなく、カスガの部屋に泊まることになったか――そのことを、俺は今思い出した。カスガが俺んちは安全だからといって、力説していたからだ。
 なんで、今までミナミの近くに出現していた怪異が、今回はカスガの家には現れなかったのか――そのことについても、俺は……。
 俺のうしろで靴を脱いでいたカスガがいった。

「最上階だろうが、玄関前の廊下に屋根ぐらいついてるだろ。昨日は玄関前に吹き込むくらいの横降りだったか? コンクリをびっちゃり濡らすくらい? 階段でのぼってくるときに、ほかの階を見たよ。ほかの階はこんなに濡れていなかった。……」

 カスガは俺を押しのけて、靴箱を開いた。
 カスガの家の靴箱は引き戸だ。俺は右側の戸を開いていた。
 カスガは左側を開けた。左側は――玄関に近いほうだ。そこを開けると、そこにも御札があった。御札は、血濡れたように赤くなっていた。
 カスガがカリカリと爪を立てて剥がす。

「そもそも俺は、外で防水スプレーなんてしてないしな」

 馬鹿だなというように、俺の頭を撫でる。











読了ありがとうございました!

11/9/2024, 3:17:08 PM







 夏に家雪さんが「エアコンが寒い」といっていて、それを聞いた俺は、廊下側の自分の席と家雪さんのを交換してあげた。

 冬には家雪さんが「窓側が寒い」といったから、俺はまた廊下側の自分の席と家雪さんのを交換してあげた。
 いや、冬といっても十一月だ。
 モスバーガーならまだ月見フォカッチャが売られている。ギリギリ秋だ。

 家雪さんは十一月でこれなら真冬はどうしてるんだという格好で学校に来ている。相当に着込んでいる。言語文化のおじいちゃん先生に、授業中はコートを脱ぎなさいと言われている。

 東京の最高気温は十七度だ。
 俺たちの代から制服があたらしくなって、衣替えは各自自由なタイミングでいいと言われている。
 先生たちは、正しい合服の状態がどの状態かわからないと言っている。
 俺たちは現役生の勘で適当にベストを着て込み、袖を長くして、ジャケットを羽織っている。
 俺は長袖のシャツと一応冬のスラックスだ。
 寒くないの? と言われたら寒い。
 夏服じゃないの? とおじいちゃん先生にいわれたけど、夏服ではない。夏は半袖で、生地のうすいほうのスラックスを履いていた。
 でもあんまり夏と変わらないよね? といわれたら、たしかに見た目的にはそう。

「十一月でこれなら八月どうしてたの?」

 といわれたけど、普通に法律が俺に服を着せていただけだった。
 松倉先生〜数ヶ月前の記憶もないんすか、服着てましたよ俺、やばいっすよ! と大きな声を出したら、うしろの席の家雪さんに、頭をはたかれた。

 家雪さんは、言語文化のときは俺のうしろの席になっている。
 言語文化は普通科のある棟で授業を受けるから。教室とは席がちがう。
 首を傾げつつ振り向いたら、そう、そのまま、と家雪さんいわれる。
 家雪さんは黒板の字をノートに写していた。
 俺は身長が一九〇ある。
 俺が動くとホワイトボードが見えないらしい。悪いねという気持ちで俺はその場に縮こまる。縮こまって、家雪さんのノートを覗き込んだ。
 きれいな字を書くね、とおもって家雪さんのノートを見ていた。
 また家雪さんの手がひらめいて、俺の頭を叩いた。見ないでとか言われた。あっそう。ふーん。
 俺は前に向きなおると自分の分の板書をはじめた。

 一学期は、羅生門とかやってたときは比較的真面目にやってたけど、最近は板書なんてしていない。俺は国語が好きじゃない。家雪さんは好きそう。そんな感じがする。
 うしろで、家雪さんが首を伸ばしたり、体を傾けたりする気配がした。
 俺も家雪さんをまねて、首を伸ばしたり、体を傾けたりした。家雪さんが右から覗き込もうとしたら、右に体を倒し、家雪さんが左に行こうとしたら、左に揺れた。

 家雪さんは、ちょっと冷たいと思うね。
 彼女は俺に冷たいと思いませんか? 俺は、二度も彼女に席交換しませんかって話しかけたのに。
 いっつも俺が話しかけている。家雪さんはクールだ。
 仲良くなれてるって思ってるの俺だけとか普通にある。うん。ある。あー本当にそうかも。だって、俺は言語文化のときくらいじゃないと、家雪さんのこと近くで見れない。家雪さんは窓際にいるし、そのとき俺は廊下側に、あるいは、彼女が廊下側で俺は窓際にいる。離れているんだもの。

 あー。なんでそんなことしちゃったかなー。
 頭をかきむしる俺を、うしろから家雪さんが、ねえ、ちょっと、ねえ、なんていっているが、全部聞き流す。
 右に、左に、ふたりで花のように揺れていたら、先生に仲がいいのかなって微笑まれた。
 ちげぇし!
 俺がイライラして怒鳴ったら、家雪さんがそれ以上の声で仲良くないわよと言った。
 俺は傷ついて真面目に板書するのをやめた。





 授業がおわってすぐ、俺は家雪さんを振り向いて、席交換しよっかといった。
 椅子にまたがって彼女の机に頬杖をつくと、立ち上がりかけていた家雪さんも立つのをやめて椅子に座った。
 きれいな指がくすみピンクのフォルダを撫でていた。

「いいよ。替えよっか。ちょうどよかった。大体、世良くん、背高すぎるんだよ。十センチくらいわたしにちょうだいよ」
「無理だろー」

 俺は目を合わせないように慎重に、家雪さんのうしろの壁に張られている美化強化月間の張り紙を見つめた。あれうちのクラスは張られてないんだけど、イケセン、はしょった?

「で、席替えるなら、松倉先生にいわないとね」

 と、家雪さんがいった。
 家雪さんは楽しそうに、またおまえら替えるのか、って言われそうじゃない? とくふくふ笑っている。替えすぎたって言われるかもねーといった。

「多分OKしてくれるよ。きっと。多田が前から、席交換したいっていってたし」

 俺は、家雪さんの笑い声をさえぎるつもりはなかったけど、声がつんのめって、家雪さんにかぶせるような形になった。
 家雪さんはきょとんとしていた。
 リズムが崩れたように体を止めて、俺が黙っているのを見てから、「なんで多田くんの話?」といった。

 多田というのは、説明しよう、極度の近眼で、メガネを小学生のころ三回つくり直している俺のクラスメイトだ。最近また黒板が見えにくくなったといって、松倉先生に相談していた。

「席交換するんじゃないの? 世良くん」
「交換するよ」
「なんで、多田くんの話?」
「だから、多田と、俺の席を交換してもらおうと思って」

 なんで? と家雪さんはすぐ聞き返さなかった。
 一度言葉を呑み込んで、でもすぐ俺を突き刺すみたいに「なんで?」といった。あーあ。冷たい。冷たい人ですよ家雪さんは。声が冷たい。そんなになんでなんで聞かなくてもいいじゃん。

「なんでって……家雪さんは、Sだわー。あはは」
「なに? どういう話?」
「サディストでしょ?」
「ちがうよわたし」

 ちがくないね。絶対そうだね。
 なんでって、だって……本人を前に言えるわけなくねー?
 俺は一度だけうつむいて笑った。

「今日、黒板写すの邪魔してごめんねー」

 なるべく軽く聞こえるように謝って、俺は席を立った。
 あーあ。もういいんだ。いいんです。俺と家雪さんは、教室の端と端くらいでいるのがぴったり! あーそうですか。そうです、そうです。
 身長一六二センチの多田のもとに俺は向かおうとして、くん、とワイシャツをひっぱられた。

「家家さんは、乱暴だー」

 きれいなのに。見かけによらず強い力でひっぱられて、夏服みたいな格好の俺はシャツをべろんとスラックスから出していた。

「べつにいいよ」
「家雪さん、手つめたいね。シャツ越しにわかる」
「世良くんがわたしと席替わってくれればいい話でしょ。いいよ、多田くんに替わってもらわなくて」
「多田は俺の席に来たいって言ってるんだよ! まだ言ってないけど。言ってるのは教室の席だけど。これから言語文化の席にも言わせる予定だよ」

 大体ねーと家雪さんが大きめの声で言う。

「多田くんと世良くんが替わったところで、わたし、多分、前見えないんですけどー……」

 家雪さんがぶつぶつ声を落としていった。

「えっうそ」
「……」
「えっうそ。ちっ……っさ!」
「殴るよ?!」

 立ち上がって、俺の傍にきた家雪さんは小さかった。
 俺はびっくりした。いや、今までも、小さいと思っていたけど。あんな体じゃ寒そうと思っていたけど……!
 俺はすぐ振りほどこうとしていた彼女の手を外せなくなって、シャツをだしっぱなしにした。

 何センチ? と聞くと、不機嫌な顔をされて、俺は腹を殴られた。
 痛てーといいながら、俺はパンチを痛がる。ぜんぜん痛くないけど。

「じゃあ、まってまって、家雪さん」
「なに?」
「こういうのはどうよ? 多田を家雪さんの席に、家雪さんは俺の席に座ってもらって、俺は多田の席へ……トライアングル」
「なんでよ」
「なんでなんで、って、そういうのいけないよ家家さん! トライアングル!」
「なんで多田くんを挟みたがるの?」
「俺は、多田を救いたくて!」
「はあ」

 家雪さんは呆れた顔をして、傍をすり抜けていってしまった。出入口付近で待っていた友だちと出ていってしまう。振り向きもしなかった。見放すみたいなため息つかれた。
 俺も次のクラスに教室を追い出されながら、後を追うように特進棟にもどった。

 本当、何センチなんだろ……。
 前を歩く家雪さんの一つ結びを見つめる。
 足幅ちっさ! 歩くのおっそ!
 間隔を空けてうしろを歩くのが、めんどうくさくなる。俺は家雪さんとその友だちをさっと追い抜いた。追い抜くときに、家雪さんの顔を見た。嫌味ったらしく覗き込んでやった。どんな顔してんだろ! 顔もちっちゃいのかな。
 家雪さんはつるんとした顔をして、俺を無視した。

 あーあ! あーあ!
 友だちに話しかけて、俺から逃げていく。
 冷たい人や。
 あの小さな頭の中でなに考えてるんだろ。俺を突き放すことを考えているのかもしれない。それは今のところ、大成功だった。なにしても成功。いつだって優等生だ。家雪さんは、なにしても正義で、家雪さんが勝ってしまう。俺と相手をさせた場合にかぎり。
 俺は家雪さんに謝りたい気分にさせられる。俺の席いりませんか? とかいっちゃう。
 無視されただけで、俺なんかもうだめだ。

 俺は早足で四階へと駆け上がった。
 負けちまえ! って自意識が叫ぶ。
 脳裏で、女王さまみたいに顎を突き上げた家雪さんが、わたしに言いなりになっちゃいなさい、っていう妄想をした。現実の家雪さんは、こんなこといわないけど。






 教室に帰ると、多田が窓側最前列の俺の席に座っていた。

「世良、おまえ、おまえのこの席、いい席だなっ!」
「えー。家雪さんとかは、最悪っていってたよ」

 多田は楽しそうに椅子でのけぞっている。
 うぜー。
 席交換しよう! と言われたから、「そこのけ、そこのけただの多田」「そんな〜俺を救うと思って」「おまえなんて救われてたまるか!」と言い返して、椅子から押し出した。

「世良、家雪さんとかも最悪〜っていってたのに、世良は嫌じゃねぇの? 俺が替わってやるっていってんのに。チャンスだぜ? おまえ視力二、〇なのに。いらないだろ最前列。一九〇センチの最前列ジャマすぎだろ。握力八〇の最前列」
「うるせぇな」
「暑がりなの?」
「べつにそんなことない」

 と、いうと、論理表現の滝本先生に、きみのその格好は、説得力がない! と指さされる。
 急に会話に入ってくるじゃん。
 ALTのフレディーにまで、why? と肩をすくめられた。なんなんマジで。

「だってー。だってさー!」

 はあーあと盛大なため息をついて、俺は嘆いた。

「暑がりって設定がないとさ? 言い訳になんないじゃん? べつに暑がりとかじゃないけど、暑がりっていっちゃったから、俺は紺色ベストを真冬まで封印すると決めたんだ」
「どういうこと?」
「だからー!」

 自分の席で突っ伏して叫んでいると、バサリと頭上に紙が乗せられた。
 授業プリントだ。英語で毎回配られる。
 滝本先生、SDGsとかしらねぇから、ばんばん授業プリントを刷るんだ。
 家雪さんと話したかったからとか、言えねー!

 顔を上げると、授業プリントを抱えた本日の日直の家雪さんがいた。
 俺は硬直した。
 家雪さんはつん、と顎をあげて、ふーんといった。
 俺はなにもできなくなった。
 フレディーはhuhーと首をすくめた。
 棒立ちの多田や、プロジェクターの設置に四苦八苦している今年五十二歳の滝本先生の横を通りすぎ、さっさと家雪さんは授業プリントを配っていく。
 俺はポーッとしていた。
 じわじわと顔が赤くなった。
 うわああ!
 ああ。
 家雪さんから目を離すこともできず、彼女が黒いタイツの足さばきで廊下側の席に座るところまで見た。
 家雪さんが俺に気づいて、俺を見返した。
 俺はプリントの束で口元をかくして、目を細めた。
 あーーー……。
 家雪さん。家雪さん。
 授業開始二分前で、多田もみんなも自分の席に座っている。俺は窓際最前列から廊下側真ん中の家雪さんを見ている。ごくりと、唾が出てきて唾を呑み込んだ。うしろの席の木崎からプリントを回せと肩を叩かれた。家雪さんは俺から目をそらす。はーあ。
 家雪さんは俺をめちゃくちゃにする。家雪さんはすごいなと思った。












読了ありがとうございました!

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