「砂糖と一緒に溶かせたらいいのに」
あぁ、この人は私とは生きてきた世界が違うのだ。
そう確信したのは、ふたりで喫茶店に入ったとき。
手渡されたメニューには、初めて目にした紅茶の名前ばかり。
よくわからないものを注文してマズかったら嫌なので、数少ない知っている名前のルイボスティーを注文した。
それに対して彼は、私が聞いたこともない名の紅茶を注文。
「僕は、このお茶の香りが好きなんだ」
目の前に置かれたカップを取り、瞼を閉じる彼。
まるで絵画のよう。
美しくて、眩しくて、息が詰まる。
何度かその店でお茶をしたし、紅茶についてインターネットで調べてみたけど、どうしても名前も味も香りも覚えられない。
「そんなこと、気にしなくていいよ。お茶するたびに僕が教えるから」
彼はそう言うけれど、気遣ってくれているその言葉が辛い。
雨の匂いも雪の匂いもわかるのに、どうして紅茶の種類を嗅ぎ分けることはできないのだろう。
「雪の匂いがわかる方がすごいよ」
そう言って笑う彼に、私はどこまでついていけるだろうか。
砂糖をひとつ、カップに落とす。
この痛みも、不安も、すべてこの砂糖と一緒に溶かせたらいのに。
────紅茶の香り
「月とうさぎ」
子供の頃、うちの畑の隅に小さな物置小屋があり、俺たち二人はそこで遊んでいた。
人が二人ギリギリ入れるくらいの隙間は、秘密基地。
俺たち二人だけの秘密の場所。
それは、どきどきするような、きらきらとしたようなものだった。
小学校高学年の頃。
その幼馴染と一緒に遊ばなくなってしまった。
多感な年頃に、幼馴染とはいえ異性と仲良くしているだけで揶揄われてしまっては仕方ないことだろう。
いつしか物置小屋も取り壊され、俺たちはそれぞれ別の道へ進んだ。
実家を出て都会でひとり暮らしを始めた頃、ひょんなことから幼馴染の彼女と再会。
紆余曲折あったものの、恋人になった俺たちは、今、一緒に暮らしている。
本日はリモート勤務。
朝から夕方まで自宅にいた俺は、そろそろ夕飯の支度に取り掛かろうとキッチンに向かった。
夕食の支度は、その日家にいるか先に家に着いた方がすることになっている。
まずは米を炊こうと米櫃を開けたちょうどその時、インターフォンが鳴った。
壁に設置している機器の通話ボタンを押す。
「はい」
『ただいま』
彼女のご帰宅である。
インターフォンを鳴らしたということは、鍵を忘れて出て行ったということだ。
またか。
彼女はよく鍵を忘れて出掛けてしまう。
この時間、俺が買い物に出ていたらどうするつもりだったんだろう。
「えーと、どちら様でしょうかねぇ……月」
『うさぎ』
即答されてしまっては、玄関に走るしかないだろう。
鍵を忘れた罰ゲームをしてやろうと思ったのに、まさか彼女も覚えているとは思わなかった。
「覚えてるに決まってるでしょ」
ずっと忘れたくなかったのは、俺だけではなかったんだな。
『月』と言ったら『うさぎ』
子供の頃、秘密基地に出入りする際に使っていた合言葉だ。
────愛言葉
「友達なんかじゃない」
「あいつは、友達なんかじゃない」
声を荒げたちょうどそのとき、彼女と目が合った。
開け放たれた教室の後方の入口で固まる彼女。
教室内の空気が凍りつく。
「あ、えっと……忘れ物、しちゃって……」
彼女は蚊の鳴くような声を出した。
男子生徒五人が残っている教室に、人見知りの激しい女子がひとり入るのは勇気がいることだろう。
彼女は、自分の机の中からノートを取り出し、逃げるように立ち去っていった。
ついさっきまで、俺と彼女の関係を揶揄い、言いたい放題していたくせに、気まずそうに目を逸らす悪友たち。
無性に腹立たしくなった。
こいつらにではない。
自分に対してだ。
俺は教室を飛び出した。
ほんの数十秒前に教室を出て行ったはずなのに、彼女の姿は廊下になく、焦りと不安と確信が俺を襲う。
絶対、聞かれた。
揶揄われて、恥ずかしくて、思わず言ってしまった一言を。
絶対、言ってはいけない言葉だったはずなのに。
あの場所に向かって走る。
彼女と過ごした、秘密の場所。
友達なんかじゃない──それは、文字通りの意味ではなく、それ以上の感情を彼女に抱いているから、友達だと思いたくない、ということなんだ。
どう聞いても誤解しかされない言葉を否定するには、まだ言うつもりは無かったことも伝えなくてはならない。
俺のことを友達だと信じている彼女。
俺が邪な気持ちで見ているなんて知ったら、彼女は俺に失望するかもしれない。
それでも、さっきの発言は撤回しなくてはならない。
どうか、どうか、あの場所に彼女が居ますように。
いや、居るはずだ。
居てくれ、頼む!
俺は強くそう願いながら、旧校舎の非常階段を昇っていった。
────友達
「彼女と私の道」
子供の頃からの夢を叶えるため、明日、彼女はこの街から出ていく。
「仕方ないよね。うちの県に私の志望する学部が無いんだから」
彼女はすべてを吹っ切ったような、さっぱりとした口調でそう言ったあと、一瞬寂しそうな表情をした。
すべての子供に平等な教育を──などと言うが、希望する職に就くための教育機関が地元に無い場合、それは本当に平等といえるのだろうか。
「でも、やっぱり、どうしても諦めたくなくて」
彼女は悩んだ末、昔から描いていた自分の夢を追うことに決めた。
親に金銭的負担をかけるかもしれないと悩んでいたが、その職業に就くことが出来たら、日本国内どこに行っても仕事に困ることはない。当然、地元に帰ってきても引く手あまた。色々と条件は出されたものの、ご両親は最終的に賛成してくれたのだという。
「絶対、絶対帰ってくるから」
約束──と、互いの小指を絡める。
「私のこと、忘れないでね」
まだ自分のやりたいことが何なのかわからないままの私は、このまま地元の大学でなんとなく大学生活をエンジョイして、そのまま地元の企業か役所に勤めて、そのまま地元の人と結婚するのだろう。
幼馴染の彼女と私の道は、ここで分かれる。
それでも今生の別れではないはずだ。
どうしてこんなに胸が苦しいのだろう。
次に会う時には、彼女が別人になってしまうような気がするからだろうか。
「絶対、ずっと友達だから」
彼女を抱きしめて、それだけ伝える。
身勝手な本音は、私の心の奥深くに沈めて。
────行かないで
「傷の舐め合いだと、人は言う」
まるで夏のような太陽の光の気配。
カーテンから漏れる光は、私を現実の世界に引き戻してしまう。
仕方なく開けるカーテン。
手を伸ばせば届きそうなくらい低い雲は、雪のように白い。
濃い空の色が、目の奥を焼いているようだ。
眩しくて、眩しくて、私はこんな時間に何をしているのだろうと、自分を責めそうになる。
パソコンのスリープを解除。
入り浸っている文字チャットルームにログイン。
この時間だと、私と同じような状況の子たちがインしていることが多いのだ。
『雨のせいか、頭痛がー』
『事故に遭ったときの傷が痛いと思ったら、気圧か!』
天気予報アプリをチェックする。
全国的には雨の所が多く、晴れているのは一部の地域だけ。
そういえば、子供の頃『同じ国なのに、晴れていたり、雨だったりするのはどうして。空は続いているのに、天気が違うのは、どうしてなの?』って、思っていたなぁ
晴れていると気分が落ち込むのはどうしてなのか。
わかっているけど、認めたくない。認めるのが怖い。
『こっちは晴れてるよ。気が滅入る』
頭に浮かんだ言葉をそのまま打ち込み、リターン。
『あー、わかる。曇りとか雨の方が落ち着く』
すぐに返ってくる返信。
この子たちとこうして会話していると、ひとりではないと思えてくる。
これを傷の舐め合いだと言う人もいるが、それのどこがいけないのだろう。
このままではいけないと、自分でもわかっている。
でも、それをわかっているだけでも充分だと、自分に言い聞かせる。
明日は曇りだといいなぁ……
────どこまでも続く青い空