「また会えると信じたいから」
「さよならを言うのは、引き留められたいからだろ」
彼はそう言っていた。
「さよならを告げるのは、区切りをつけるためでしょ」
彼女はそう言っていた。
私は、何も言いたくない。言わない。
ひっそりと姿を消して、しばらく経ってから手紙で『今までありがとう』と伝えたい。
そう思っていた。
相手が自分から離れるのは、いつだって耐えられないのに、それが私自身の選択したことなら耐えられるなんて、おかしな話だと思う。
別れは、どんなものも耐えられる気がしなくて、それなのに時間に流されて、耐えてしまったことに気づくのだ。
※
お気に入りのカフェを見つけるのは意外と難しい。
あまりにも居心地が良くて、うっかりしていた。
踏み込まないでいたラインを超えてしまったことに後悔はしていないけど、これから悔やむかもしれない。
「いつもありがとうございます」
お会計の時に「いつも」が付くようになって、まだそれほど経っていない。
だから、きっと店主は私のことなどすぐに忘れてしまうだろう。
「実は、転勤になりまして……」
しばらくこの店には来られなくなるのだと伝える。
何も告げずこの町を出ていくこともできたはずだ。
だが、この店主にだけは……
「そうですか……寂しいです」
「この町に来た時はこの店にも寄りますので」
「ありがとうございます。新天地でもお体に気をつけてくださいね」
「店長もお体に気をつけて。ケーキどれも美味しかったです。ありがとうございました。ではまた」
また会えることを前提にした挨拶を交わす。
心のどこかでは、もう二度と会えないかもしれないと思っているのに。
それはきっと、さよならを言ってしまったら、本当に今生の別れになってしまうからなのかもしれない。
────さよならを言う前に
「切り過ぎた前髪」
うっかり夏に生まれた恋。
もこもこの雲は見るたびに気持ちを昂らせてきたけど、ぽこぽこした鱗雲を見かけるようになって、このままでいいのかなって、思うようになった。
旅行や遠足の前の晩みたいに、ソワソワしている。
普段と変わらない明日の朝。
ひとつ違うのは、私の髪型。
真っ青な空に、もこもこの入道雲。
ぽこぽことした鱗雲。
行ったり来たりの季節は、空も同じ。
そして、私の気持ちも同じ。
すっぱりと割り切れないままだけど、形から入ろうと思った。
あいつは、どんな反応をするのだろう。
それ次第では、私の今後の身の振り方もだいぶ変わってくるけど。
あいつ好みの髪型も、服装も、もうやめる。
私を私として見てほしいから。
────空模様
「それは自己暗示であり呪いでもある」
「鏡にうつる自分に向かって『お前は誰だ』って言い続けると、発狂するらしいぞ」
「あー、なんか聞いたことある。何回もやってるうちに自分が誰かわからなくなって、鏡の中の自分に恐怖心を抱き始めるとかなんとか」
教室の隅でこの話を聞いてから暫くは、鏡のなかの自分と目を合わせるのが怖かった。
小さい頃、鏡が怖かったから尚更。
鏡にうつる母は、普通に見ているのとどこか違って──左右逆だということが、何故かとても怖かったのだ。
今、その鏡に真っ直ぐに向き合っている。
家のためだけに嫁ぐ私が、しなくてはならないことは、いつまでも私のなかに巣食うあの人への想いを断ち切ることなのだろう。
今からすることは、自己暗示であり、呪いでもある。
正気でなんていられるはずがない。
どんな代償でも払う。
全て忘れても構わない。
良かったことでさえも。
自分の想いを捻じ曲げるくらいならば、心ごと全て自分で葬ってしまおう。
鏡にうつる自分に手を伸ばす。
────鏡
「幼馴染で親友で」
どんなに仲が良くても、これ以上は入り込めない。
どんなにお互い知り尽くしていても、これだけは知られてはいけない。
男女の友情は成立すると信じている貴方。
私は何年も前から、貴方を異性として見ている。
貴方が私のことを、そういう目で見ていないことは、わかっているのに。
フラれることよりも、幼馴染として、親友として側にいることを選んだのは、どんなことをしても貴方の隣を譲りたくないから。
どんなに知りたくても、聞かないことがある。
どんなに知ってほしくても、言わないことがある。
実は、私たちの友情は成立していない。
貴方がそれに気付いていないのをいいことに、私は嘘をつき続けている。
どうか貴方はそのままでいて。
いつか、貴方が私以外の誰かの手を取るまで。
いつか、私が今の関係に耐えられなくなるまで。
────いつまでも捨てられないもの
「私は彼らに何を返せるだろうか。それをずっと考えている」
一番楽しい年齢と言われている頃、彼らのライブに行き始めた。
一番、悲しいことがあった夜にも彼らの曲があったから耐えられたのだと思っている。
眠れない夜も、明けないでほしいと願った夜も。
笑って、泣いて、もう一度笑って。
励まされた、なんて一言では言い表せない。
彼らの音楽と出会わなかったら、今私は生きていないかもしれない。
そう思うくらいには、私には必要なもの。
例えるならそれは、栄養素のようなもの。
問題は追いかけるのには、お金がちょっとかかること。
「ライブと仕事どっちが大切なの」
もしもそう訊かれたら、間違いなくこう答える。
「ライブ行くために働いてますが何か」
ライブに行くために働いて、お金を貯める。
有給は勿論、ライブのために使う。
別に彼らとどうこうなりたいわけではないのに、なぜかライブ前には美容院に行くし、新しい服も買ってしまう。
遠征先でご当地グルメを堪能することも楽しみのひとつだ。
ライブは楽しいだけではなく、すべてリセットされるのだ。
だから何度も何度も行く。
今の私には必要なもの。
私が、ただ私であるために。
たくさんのものをくれる彼らに何を返せるだろうか。
それをずっと考えている。
彼らのファンとして恥ずかしくないように生きたい。
胸を張って、ライブに行く。そのために。
────誇らしさ