やさしさなんて
駅の階段に男がいた。
大きな荷物を持っている老婆から荷物を預かり、一緒に階段を上っている。
私がその姿を見たのは、駅構内ではなかった。
「感動!親切な男」
という見出しで、動画は既に百万回再生されていた。コメント欄は称賛で埋まっている。
私の夫だった。
昨夜、熱を出した娘の薬を買いに行ってくれと頼んだとき、「疲れてるんだ」と背を向けた、同じ男だった。
画面の中で、老婆は何度も頭を下げている。
隣の部屋で、娘が咳き込む声が聞こえる。私は動画を消した。
「風を感じて」
母の手紙を読み返していると、ベランダから初夏の風が頬を撫でにやってきた。
「あなたが生まれた日も、こんな風が吹いていたのよ」
病室の窓から見えた青空のことを、母はいつも懐かしそうに語っていた。あの日から三十年、今、私は同じ風を感じている。
手紙の文字はにじみ、震えている。
最後の一行に目を向ける。
「風が吹くたび、あなたを思い出します」
風は優しく吹き続けている。母を運んだ風が、今度は私の涙を乾かしてくれる。
そしていつか、私すら運んで、愛する人のもとへ届けてくれるのだろう。
「貴方は一体、どこに行こうとしているの?」
「先へ」
「またね」という言葉が、昔から大嫌いだった。
この言葉には「間もなく会いましょう」という意味が込められ、望んでもいない約束をさせられているかのような薄ら寒さを私に与える。
今朝、十年ぶりに故郷の駅に降り立った時、当時お喋りな人だと思っていた近所の女に遭遇した。女は私を見ると、あの頃と同じように笑顔を振りまき、あの頃よりしわがれた声でひとしきり喋った。そして、「またね」と言った。私の名前など、すっかり忘れていたのにである。
十年前、この町から出ていく時も、女は同じことを言った。あの時は、二度と戻ってやるかと思っていた。母の葬式を終え、家も処分し、切れる縁は全て切った。その最後の縁が、あの女の言葉だった。
そして、私は今、この駅に立っている。仕事の都合という体裁の良い理由をつけて、ここに立っている。
もう来ません、とキッパリ言えない私は、たった三文字の言葉にすっかり呪われてしまったらしい。
潮騒の、耳奥で弾けるような音を聞きながら、随分前に水の引き、ややぬかるんだ泥の上にしゃがみ込む。
「黄昏れる」という言葉は、きっと、真剣に自分や世界と向き合っている人にこそ相応しいのだろう。無だ。私は今、無を味わい、かつ持て余している。何かやることがあったはずだ。何かやることから、逃げ出してきたはずだ。潮騒と、カモメの声が心地いいと感じるのは、きっとそのせいだ。
どれくらい無になっていたか定かではない。足下にひやりとしたものを感じ、見てみると、乳白色の光の宝石が私の両足を撫でていた。
不意に、このまま泡になってやろうかと思った。将来に思いを馳せることなく、ただ揺らぎ、浮かび、弾けて消える。きっと彼らは、己の生まれた意味や成すべきことなどに囚われはしないのだ。
そこまで考えて、立ち上がる。
とてもくだらない事を考えている自分が居ることに気がついた。
そうだ。くだらないのだ。刹那を生きるこいつらは、弾けては消え、また新たに生まれ、永遠にそれを繰り返すのだ。一瞬の存在を主張するためだけに、また静かな揺らぎの時を生きるのだ。
故に、夢見る必要はなかった。
乳白色の潮騒が、今度は心の奥底で弾ける音がした。