逃げるようにして乗り込んだ鈍行列車は、ここで終点を迎えた。
降りた試しのない駅だ。駅舎を出、外の世界を一目見て、胸の奥でひゅうと冷たい風がなるのを感じた。
駅前の広場は、曇り空の灰を、垂らして塗りつけたような色をしている。人が歩くことのみを想定して作られた石畳の上を、およそ、私の故郷の全人口にあたりかねない、黒や灰のスーツを着た人が、無感情に行き交っている。ここには、湿り気のある土の匂いも、吹き付ける爽やかな風に木霊する枝葉のざわめきもない。歩くたび、不意に落ちている小石ひとつに執着し、目的地まで蹴りながら進むなど、出来ようもない。人のぬくもりなど以ての外。石だ。石と石が、冷え冷えと擦れ合っている。
呼吸を整え、鞄の取っ手を握り直した。
ここでは、私は全くの異邦人である。
井の中の蛙、などと、つい半月前、学校で笑って覚えた諺がある。当時、あれは他人を揶揄し嘲笑うための洒落だと思っていた。
だが、今目の前に聳える、あらゆる窓が同じ形の、雲を割くほどのビル群を見上げたとき、これは笑い事ではない、と不意に思った。私はこれまでの年月を、同郷の出遅れ者を笑い、自分は違うなどと宣っていたが、このビル群が歯牙にもかけないくらい小さな井戸の、光も届かぬ底のほうで、どうやらげこげこ鳴いていただけに過ぎなかった。
母の最後の言葉は、「雲が綺麗」だった。
病室の窓から眺める空は、いつもと変わらず灰色で、雲などどこにも見えなかった。けれど、母の瞳は、私には見えない、もっと遠くの何かを追っているようだった。
葬式の日、空は抜けるような青だった。参列者たちは皆、下を向いて歩いている。私だけが空を見上げていた。青い空に、雲がゆっくりと流れていく。形を変えながら、私の知らない、どこか遠い場所へ行く。
あれから三年。私は母の好きだった丘に立っている。
「いつか行ってみたい」と病室でいつも呟いていた、遠い異国の、緑あふれる丘。
風が髪を優しく揺らし、雲を運んできた。
そのまま私を飛び越え、どこか遠くに向かって歩いている。
「またね」
小さく呟く。
雲は、ゆっくりと動いた。まるで私に微笑みかける母の様に、ゆっくり、やわらかく形を変えた。
「またね」
滲んできた目をこすり、もう一度呟く。
あぁ、本当に、雲は綺麗だ。
朝の光が、いつもと違って見える。
窓の向こうに、青い花が咲いている。君が好きだと言っていたことを思い出した。以前は気にも留めなかったのに、今ならその青さがわかる。
君にとっての、君だけの青。
「色が違います」
医者はそう言った。
「慣れるまでは、もうしばらく」
いや、適応の問題ではない。
君が見ていた世界なのだ。深い海の底から空を見上げた時の、淡い光のような青。
「あぁ、いいな。君に恋して良かった」
救急車のサイレンが遠ざかっていく。あの赤い光も、前とは違って見える。優しくもあり、哀しくもある。
君は私のことを、どう見ていたのだろうか。
ふと気になって立ち上がったが、やめた。
台所にあった、手入れの行き届いた小さな鏡に自分がどう映るのか。それを知るには、まだ恥と、覚悟が必要だった。
外がにわかに騒がしくなる。
パトカーのサイレンの音だ。
それも、とても近い。
厚化粧をした雲を、私は「白い」と言った。
磨き抜かれた空を、私は「青い」と言った。
けれど、山の名前は呼べなかった。
空よりも、雲よりも低く、いつも私たちの傍で献身的に季節を支えている、あの穏やかな色の名前を、どう呼べば良いのだろう。
青い山。これはダメだ。空や海の安い真似事でしかない。
相応しい言葉を探すため、私は山を見つめ続けた。
見つめすぎて、照れてしまったのだろうか。
山は次第に、その身を赤らめてしまった。
幸せは、よく滑る。
足下で月のように広がる、バニラアイスの名残を見下ろす。
甘いにおいにつられ、やがて無数の蟻がやってきた。私が「些細なこと」と切り捨てたそれに、列を作って礼儀正しく喰らいついている。
卑しいとは思えない。
ただ、指先もない小さな命に、敬意にも似た嫉妬を覚えた。