母の最後の言葉は、「雲が綺麗」だった。
病室の窓から眺める空は、いつもと変わらず灰色で、雲などどこにも見えなかった。けれど、母の瞳は、私には見えない、もっと遠くの何かを追っているようだった。
葬式の日、空は抜けるような青だった。参列者たちは皆、下を向いて歩いている。私だけが空を見上げていた。青い空に、雲がゆっくりと流れていく。形を変えながら、私の知らない、どこか遠い場所へ行く。
あれから三年。私は母の好きだった丘に立っている。
「いつか行ってみたい」と病室でいつも呟いていた、遠い異国の、緑あふれる丘。
風が髪を優しく揺らし、雲を運んできた。
そのまま私を飛び越え、どこか遠くに向かって歩いている。
「またね」
小さく呟く。
雲は、ゆっくりと動いた。まるで私に微笑みかける母の様に、ゆっくり、やわらかく形を変えた。
「またね」
滲んできた目をこすり、もう一度呟く。
あぁ、本当に、雲は綺麗だ。
8/16/2025, 8:50:20 PM