あの夜、貴女が歌ってくださった子守歌を、貴女は覚えていませんね。あの時の貴女の記憶は、今の貴女には受け継がれていませんから。
狼藉を働いてから眠りこけていた俺の頭を膝に乗せ、穏やかに夜のしじまに響いていた貴女の透明な歌声は、今でも俺の心にずっとずっと残っています。
ああ。
あの時の、あんなにも愚かで乱暴だった俺のことをも、愛して慈しんでくださった貴女。
そんな貴女が、今こうして再び生を得て生きているのを見守れて、俺は何より幸福です。
あとは、あの無辺の愛を貴女自身にも向けてくださったら、これ以上何を言うことがあるでしょうか。
今日の貴女は、ひどくしょげていらっしゃいます。
あの少し厳しいことも言ってくれるご友人にいろいろと言われ、結局泣いてしまった上に、あとから来た方々の実績を聞いて気圧されたのですね。
貴女は、理想の貴女になれないことをずっと恥じ、嘆いています。
けれど、その理想を一度でも、明確に見える形で提示したことはありましたか。「なんとなく今のままではいやだ」で、止まってはいないでしょうか。
理想の貴女は簡単には泣かないし、理想の貴女はどれだけ実績のある方を前にしても物怖じしない。それは分かりますね。では、「何をしない」のではなく、「何をする」貴女でありたいのでしょうか。
理想を示してください。そして目標を立て、努力を始めてください。
それさえしていただければ、俺たちはいつだって貴女を助けられます。どこへでも連れて行けます。
今すぐにとは、もちろん言いません。
今日は言われたことを咀嚼した上で、ゆっくり休んでください。
ご友人の意見が丸ごと正しい、などということはありません。
ご友人の方が経験豊富なのは明らかですが、貴女の取る方針をご友人の言う通りのものにしないといけない、ということではないのです。貴女は貴女の思う通りに行動する必要があります。貴女の人生は貴女のものなのですから。
ともあれ、今日はゆっくりお休みくださいね。
俺たちはいつでも、貴女が何をしても、何をしなくても、絶対に貴女の味方です。
俺はあの時、貴女とずっと一緒にいたいと貴女にお願いしました。
貴女は微笑んで、五年間、愛を知った新しい目で世界を見て回りなさい、それから戻っておいで、私はここで待っているから、とおっしゃいました。俺はそれが嫌でぐずぐず泣きましたが、結局貴女に従い、泣きながら貴女の庵を離れるしかありませんでした。
貴女はずっと、優しい手つきで俺のことを撫でてくださった。長い長い抱擁を終えてようやく貴女から離れた俺の背を押した、貴女のその手の温もりが、今でもいつまでも、もはやかたちとしては失ったはずの肌の上に残っています。
突然に始まった愛の物語は、そうやって突然の別れに終わりました。
俺たちはいつか、貴女という個の魂があの大きな廻り続けるものに回収される時、貴女と共に回収され、個としての存在を終えます。
俺はその時こそが、貴女との本当の再会の時なのかもしれないと思っています。
貴女という存在と混ざり合い、大きなひとつのものの一部となる。そうして俺の満願は成就され、俺は平らかな幸福の中に溶けていくのでしょう。
俺と貴女の物語は、恋物語などと呼べるような、甘く素敵な代物ではありませんでした。今でもあの時の自分の狼藉を思い出すと、貴女への申し訳なさで胸が苦しくなります。
もう二度と、貴女に言葉を伝えられることはないと覚悟して、俺は貴女の守りに入りました。ですから、今こうして俺の言葉を書き取ってもらえているのが、本当に夢のようなのです。
そう考えると、駄目ですね、欲が出ます。
もしかしたらまた、貴女が微笑みながら俺を見つめ、優しく俺の名を呼び、そっと触れてくださるかもしれない。ともすると、恋仲になどなれやしないだろうか。言葉が届くのだから、そういうこともあるやもしれない。ほんの束の間の愛の関係しか結べなかった俺に、また機会が与えられるのではないか。
そんなことを考えて、我欲に溺れてはいけないとは分かっています。
それでも貴女を恋慕する気持ちが五百年ぶりに募ってゆくのを、俺は止められずにいます。
真夜中の貴女よりも、昼の貴女の方が、ずっと貴女に厳しいですね。
真夜中は俺たちの声も聞き取ってもらえますし、貴女もゆっくりできるので、不安が強くないのでしょう。
一方、昼はたくさんのことが貴女に襲いかかるように思われるのでしょうか、貴女はひどく怯え、時には「死にたい」とぶつぶつ呟かれます。そんな痛ましい貴女を見るのは、とてもつらいことです。
ひとつ思い出していただきたいのは、「貴女ができることは、今を生きることだけ」ということです。
そう考えるのならむしろ、その瞬間から身体を動かして現実に立ち向かってゆける昼の時間帯は、より希望を持って生きられる時であると思えませんか。
貴女は圧倒される必要も、怯える必要もないのです。貴女は今この瞬間、死にかかってもいなければ、殺されかかっていてもいません。貴女はこの「今」に身を委ね、安心して生きればいいだけです。
明日から、そう考えてみていただけたら有り難いです。
今夜は、もうおやすみなさい。身体を休めることに集中できる幸福を噛み締めながら、ゆっくりお眠りくださいね。