【誰か】
絵を描くことが好き。話を想像することが好き。
だから将来は漫画家になりたいと思っていた。
SNSに投稿したり、新人賞に応募したり。
そのうち話題になって雑誌への掲載が決まった。
あまりに順調で、正直、調子に乗っていた。
学生のうちにデビューできるなんて天才では?
爆発的に人気になってアニメ化されるかも。
期待に胸を膨らませていたが、現実はそう甘くない。
拙い処女作に寄せられたのは批判ばかりだった。
子どもの落書き。つまらない展開。時間の無駄。
匿名の冷たい刃が僕の心を抉る。
大好きな描くことが怖くてたまらなくなった。
ペンを持つと手が震えて直線すら引けない。
あまりに情けなくて、思わず乾いた笑いがこぼれた。
苦しみながら描くほどの価値が僕の漫画にあるのか。
そんな失意の中、編集部から転送された一通の手紙。
拙い処女作に寄せられたのは批判だけではなかった。
感情がわかる、面白かった、続きが待ち遠しい。
匿名の温かい声が僕の心を満たす。
大好きな描くことを恐れる理由はなくなった。
その後、緩やかに人気が出て有名な作品も生まれた。
数え切れないほど多くのファンレターを貰った。
だけど、初めて貰った相手はやはり特別だ。
送り主の名前がなくても筆跡でその人だとわかる。
いや、筆跡だけで個人を特定するのは変態っぽいな。
読み返しながら、ちょっと複雑な気持ちになった。
来月のサイン会に思いを馳せる。楽しみだ。
顔も名前も知らない恩人は来てくれるだろうか。
【遠い足音】
ふいに眠りが浅くなり、導かれるように覚醒する。
今年も無事、私の季節がやってきた。
暦を確かめると、もう十月に入ったところ。
年々、目覚めが遅くなっている。
今年は何日起きていられるだろうか。
不安を抱えながら外に出て、朝日を浴びる。
家を囲む木々の葉の色はまだ変わっていない。
時おり涼し気に風が吹くものの、残暑は続いている。
リビングに戻り、机に置かれた日記を開く。
〈おはよう。今年も起きられてよかった。〉
それは同じ家に住む四人で共有して書いている。
誰も言えないおやすみの代わりに、朝の挨拶をする。
私は他の三人より起きていられる時間が短い。
暑さが弱まる頃に起き、寒さが本格化する前に眠る。
それまで特別することはなく、ただ起きているだけ。
暇つぶしに日記を読んで、恋しさを知ってしまった。
寒さが増すほどに、あなたの気配が近づく。
寒さが増すほどに、私の意識が薄らいでいく。
寒さが増すほどに、残り時間が少ないのだと知る。
あなたが目覚める日は、私が眠りにつく日でもある。
私は知らない。あなたの目の色を、声を、性格を。
今までもこれからも、きっと知ることはないだろう。
几帳面さを感じさせる、綺麗に並んだ文字を撫でる。
あなたを知るヒントは日記の中にしか存在しない。
〈起床。枯れ木ばかりで景色が淋しい。〉
〈天気は曇り。昨夜の雪が残っている。〉
〈椿が咲いていた。鮮やかで美しい赤色の花だ。〉
淡々と綴られる日々に、今日もその姿を探している。
【秋の訪れ】
うだるような暑さに負けた友人がいる。
ようやく涼しくなってきて元気を取り戻した矢先。
「花見をしよう」なんて季節外れのお誘いを受けた。
今の時期なら紅葉狩りでは、と口には出さないけど。
それより、花より団子のイメージだったから意外だ。
こいつにも情趣を解する心があったのか。
友人を生暖かい目で見ながら、ひとり頷く。
「どうしたの。気持ち悪いよ」と引かれた。失礼な。
「で。場所は?」「私の家だよ」当然のように言う。
「正気か?」警戒心、どこに捨ててきた?
長い猛暑に頭もやられたみたいだな。
沈黙を承諾と受け取ったのか、友人は歩き始める。
なんやかんや部屋の前まで来てしまった。
友人が扉を開くと、極寒の風が身を包む。
「おい、エアコン何度だよ」リモコンを取り上げた。
冷房、二十五度、強風。そりゃ寒いわ。
「真夏じゃねえんだぞ」問答無用で電源を切る。
不満の声をガン無視してリモコンを遠くに置いた。
「鬼、悪魔、人でなし!」友人はギャーギャー喚く。
「やかましい」強めにデコピンをして黙らせた。
マンションの五階に友人の部屋はある。
都会とはいえ、窓の外には緑が広がっていた。
ただ。「どこが花見?」桜も紅葉も見当たらない。
「まあまあ。細かいことはいいじゃん、いいじゃん」
「花見といえば? やっぱりお酒でしょ」
冷蔵庫から缶ビールを取り、友人がにやっと笑う。
だから紅葉狩りじゃなくて花見だったわけね。
やはり団子派の友人に呆れつつ、乾杯を交わした。
【旅は続く】
大切だと気づいたから、離れる覚悟を決めた。
過去を知られる前に。明かしたくなる前に。
彼の瞳に自分を見るたび胸が痛んだ。
そんな日々は、今日で終わりにする。
「……さよなら」自分の言葉で目頭が熱くなった。
不義理のお詫びに、謝罪の手紙を自室に残す。
彼の顔を見てから行こうかと悩み、やめた。
『最後』にできる自信がなかったから。
最低限の荷物とお金を持って屋敷を出る。
少し歩いた先で振り返り、深く頭を下げた。
彼への感謝はどんな言葉を尽くしても足りない。
私が今日も生きていられるのは、彼のおかげだ。
馬車を乗り継ぎ、昼も夜もなく移動し続けた。
丸くなって眠る癖が幼少期の記憶を呼び起こす。
親に捨てられた下賤の身で、その日暮らしの毎日。
盗みも殺しも、生きるためならなんでもやった。
あの毎日が本当に夢だったらいいのに。
過去は過去、だけど決して消えることはない。
属していた組織は祖国で指名手配されている。
今は関係なくとも、無事に過ごせる保証はない。
王族の殺害を企てていると知って、組織を抜けた。
騎士団の捕縛計画を噂で聞いて、祖国を出た。
隣国で彼に保護され、束の間の休息。
安全と教育をくれた彼を裏切り、屋敷を出た。
いつか指名手配が解かれたら。
私が陽の当たる場所で生きられるようになったら。
仄暗い過去がある限り、安寧など訪れない。
それでも、いつか。いつかまた会える日を願って。
【モノクロ】
「なんでカラー印刷指定なんですかね」
文芸部の部誌なんて文字だらけなのに。
夕方のコンビニでコピー機を眺めながらぼやく。
いつまでかかるのか。気の遠くなる作業だ。
隣では先輩がデータ印刷の設定をしている。
「文字に色つけたバカがいるんじゃないの」
部長とか、とさらっと加えて先輩は言う。
確かに部長の指示だからあり得るなと納得した。
面倒な印刷係の決め方は単純。じゃんけんだ。
部員数八人で、負け残った二人が印刷を担当。
残りの六人で冊子を綴じる作業を担当する。
どちらが楽かと言えば、どっちもどっちだが。
「印刷所に依頼したほうが楽だと思いません?」
コピー機を占領する高校生はそれなりに目を引く。
一部の客からは不躾な視線が向けられていた。
店員の温かい目も、なんとなく居心地が悪い。
先輩のコピー機の扱いは手慣れたものだ。
「まあ。ここも慣れてるし、いいんじゃない?」
六十部も必要なので紙が切れてしまった。
店員に頼んで追加してもらい、印刷を続ける。
ようやく刷り終わってひと息ついた。
紙の束をページ毎に別のファイルにまとめる。
ちょうど貰ったはずの印刷代がなぜか余っていた。
聞けば、部長より部費のほうが大事だと言う。
去年も印刷方法を変えたがバレなかったらしい。
「先輩、まさか去年もじゃんけんに負けて……?」
「うるさいなぁ」照れ笑いで恥ずかしそうな先輩。
かわいい人だと思ったのは、ここだけの話。