【病室】
消毒液の匂いから逃げるように窓を開けた。
木々の陰から風が吹き込んで部屋を巡る。
髪が煽られ、なんだかとても生きているって感じ。
憂鬱だった気分がほんの少しだけすっきりした。
ここにいると、できることが限られる。
食べて、眠って。テレビを見たり、読書をしたり。
楽だと思っていたけど、終わりない暇はなかなかつらい。
扉を見つめた。早く来て。あなたがいないと退屈だよ。
日の沈む前に、あなたは毎日欠かさず来てくれる。
仕事終わりにはくたびれた背広姿のまま。
休日には差し入れの本を持ったラフな格好で。
あなたがいると白い部屋も華やいで見える。
今日はどんな話をしよう、と考えるだけで楽しい。
「遅くなってごめんな」背広を手に、眉尻を下げて笑う。
あなたはベッドサイドに置かれた椅子に腰を下ろした。
顔を見るだけで、私の頬は自然と緩くなる。
「今日はどうだった?」それは、いつも聞かれる質問。
ほとんど一日中ベッドの上にいては新しい発見もない。
だから話す内容は本のことか、何度目かの繰り返し。
だけど、どんな話でもあなたは楽しそうに相づちを打つ。
私ばかり話してしまうけど退屈していないかな。
たまに不安になる。「疲れてるのにごめんね」
口に出せば、あなたは呆気にとられた様子だった。
「何言ってるの。聞きたいんだから変に遠慮しないでよ」
面会時間が終われば、当然、あなたは帰ってしまう。
部屋は静けさに包まれて、鳥の鳴き声が聞こえる。
また明日も来てくれることを期待して、布団に潜りこむ。
かすかに残るあなたの匂いで、安心して眠れる気がした。
【明日、もし晴れたら】
この街は『雨の降る街』と呼ばれている。
名の通り、僕の知る限り二十年以上は降り続いている。
日照りの強い場所なので、初めは恵みの雨だと喜ばれた。
しかし今ではもう、誰もが降りやむ日を待っている。
街を出る人が多いなか、僕は五年ほど前に越してきた。
仕事の都合もあったけど、なにより雨が好きだから。
出歩く人が少なくて静かで、毎日が読書日和になる。
上から見ると、傘が花のように感じられるところもいい。
この街で生きる人にとって傘は必需品だ。
小雨でも大雨でも、無いと濡れることに違いはない。
それを君は持っていなかった。わざと持たずに外にいた。
座りこむ君に傘を差し出せば、寂しそうな笑顔を見せる。
『雨の降る街』は君の生まれた日に始まったらしい。
神様も祝福している、と両親はとても喜んだとか。
けれど連日続く雨に、君への目は厳しくなっていった。
僕は偶然の一致だと思うが、実際、今日も雨が強い。
本当に自分が原因なのか、確かめようとしたことがある。
君は言う。「街の外に出れば証明できると思いました」
だが、災いを振りまく気か、と周りに叱られたという。
そのせいで、君は雨しか知らない。
僕は君を自宅へ招き、街の外を見せることにした。
いろんな天気の、いろんな場所の写真を机に並べる。
それらを眺める君の目は、終始、輝いていた。
ありふれた日常も、君にとっては素敵なものなのだ。
「なんでこの街に来たんですか?」首を傾げて問われた。
「雨が好きだから」君はくすっと笑った。「変なの」
わずかでも陽が差したなら、君に虹を見せてあげたい。
きっと、世界で一番きれいな景色になる。
【だから、一人でいたい。】
幼い頃、祖母にもらった宝物のコップは割れた。
優しくて大好きな父は、母に嫌気が差して出て行った。
大切なものは、いつか、この手から零れ落ちてしまう。
それなら始めから無いほうがいい。失うのは悲しいから。
物に執着しないように。人に依存しないように。
常に一線を引いて、ほどほどの距離を保って生きてきた。
不都合などないので、きっと私に合っているのだろう。
なのに、遠慮も躊躇いもなく君は線を越えようとする。
「何読んでんの?」椅子の背を前にして座る君が問う。
「そこ、君の席じゃないでしょ」そっけなく返した。
君のせいで、雰囲気が柔らかくなったとか言われる。
誰かの影響なんか受けて、私が変わるはずないのに。
君は毎日、日課のように必ず話しかけてくる。
内容はいろいろ。君のことを語ったり、私に質問したり。
相手は誰でもよさそうなのに、なぜか私に笑いかける。
どれだけ冷たくあしらっても平気な顔で、効果がない。
君と話す日々を重ねるほど、私の一線が曖昧になる。
まだ向こう側にいるのか、線上に立っているのか。
気づきたくない事実を恐れ、距離を測りかねている。
だけど、この恐れこそが手遅れだと証明するみたい。
今さらだと思いながら、距離を取るように意識した。
君が離れていかないことを信じて、私は変わろうとした。
屈託のない笑顔が日常に溶け込むのが怖かった。
そのくせ、近くにいないと寂しいなんて。
あのコップは捨てられ、父は今も帰ってこない。
一度離れてしまえば、君も戻ることはないのだろう。
心がざわめく。こんな感情は知りたくなかった。
どうしよう。君のせいで、私が私でなくなってしまう。
【澄んだ瞳】
頭の固い副会長として有名な僕は生徒に嫌われている。
不名誉な噂が流れようと訂正する気にはならない。
馬鹿は信じればいい。友人は僕自身を知っている。
僕も面倒だから、規則を破らなければ何も言わないのに。
しかし今年に入って、厄介な女が現れた。
「よく知りもせずに貶めるなんて最低です」と喚く声。
またか、とため息をつきながら近づいた。
案の定、いらぬ世話を焼く女が上級生に噛みついていた。
「余計なことをするな、と何度言えばわかる」
でも、とまだ何か言いたげに女はふてくされている。
よく見ず知らずの他人のために怒れるものだ。
そこだけは感心する。馬鹿さ加減には呆れるが。
その女は一年の三学期に転校してきたばかりらしい。
成績は優秀で、今年から生徒会の活動に参加している。
会長はいい子だと言うが、僕の邪魔をするなら許さない。
初対面で忠告したのに、彼女は手間を増やしてばかり。
仕事を覚えるのは早くても、小さなミスが目立つ。
関わらぬようにしているのに、わざわざ話しかけてくる。
彼女は多くの女子に嫌われている。僕も嫌いだ。
自分が正しいと信じ、純真な乙女を演じる偽善者。
書類の山を抱えて生徒会室へ移動中、また声がした。
「黙ってろって言うんですか。そんなのおかしいです」
それほど大きくもないのに耳に入るのはなぜだろうか。
考えれば首をつっこむ必要もないのに、放っておけない。
間に入れば、相手方は逃げるように去っていく。
「なんで否定しないんですか。あんなの嘘ですよ」
まっすぐ向けられる彼女の瞳には一点の曇りもない。
心の奥まで見透かされそうで、とても居心地が悪かった。
【嵐が来ようとも】
来る者拒まず、去る者追わずと噂の先輩がいる。
でも交際中は相手に誠実らしく、悪い噂は聞かない。
フリーのときに告白すれば絶対に断られないんだって。
昨日、彼女と別れたという、私の想い人の話。
「チャンスじゃん」と友人に煽られ、思い切って告げた。
先輩の返事は想像通りで、わかっていたけど嬉しかった。
翌日から、今度は何日持つかと下世話な噂を耳にする。
それが早々に消えたのは、先輩の態度が理由だろう。
今までの彼女と違い、先輩は私を恋人らしく扱う。
廊下で会えば話をして、遠くても目が合えば手を振る。
昼休みは教室まで迎えに来てくれて、一緒に昼食をとる。
放課後は買い物をしたり、ゲームセンターで遊んだり。
特別扱いはされるけど、きっと私を好きなわけではない。
時々、私を通して誰かを見ているような、遠い目をする。
気になって聞いてみたら、気まずそうに教えてくれた。
忘れられない相手に似ているから、って。
親しかったけど、ついに想いを告げられなかった相手。
その人を忘れるためにいろんな人と付き合ってきた。
そうすれば、いつか別の人に好意を寄せられるはずだと。
すべて打ち明けて、「利用してごめんな」と謝られた。
代わりだと知っても、私は離れられなかった。
距離を感じるけど、先輩は私自身を見るようになった。
その人と比較しながら、違う人間だと確かめるように。
先輩が出した答えは、別れてもう一度付き合う、だった。
新たな交際一日目、校門の人だかりに嫌な予感がした。
その中心にいた他校生が、こちらに気づいて笑顔になる。
隣の先輩を見ると、立ち止まって目を見開いていた。
ねえ、待って。去っていかないよね、先輩。