【今一番欲しいもの】
顔を合わせるたび、君は労いと心配の言葉をくれる。
また痩せたか、顔色が悪いぞって呆れ顔。
働きすぎじゃないかと君は言うけど、私は大丈夫。
自分のためだから苦しくないし、限界はわかっている。
多少の無理をしてでも仕事に精を出す目的は明白だ。
それは、お金。私を裏切らず、いくらあっても困らない。
宝くじで一獲千金とか、不労所得に憧れはある。
でも、時間がお金になる達成感を得られるのは仕事だけ。
私の返す言葉にいつも不満げだが、言わせてほしい。
学生の頃は、君のほうがよほど不健康な生活をしていた。
連日のように徹夜していたのは、どこの誰だったか。
睡眠時間を削っていないだけ褒められるべきだと思う。
たまに実家に顔を出せば、母が孫の顔を見たいと騒ぐ。
どうぞ兄さんに期待してください、と雑にあしらった。
私の初恋は気づかれることなく枯れてしまったのだから。
結婚願望まで二十代に捨ててきて、もう残っていない。
幼なじみで歳の近い君は、本当の弟のように甘えてくる。
学生時代は、勉強を教えてと私の部屋に押しかけてきた。
そして今は、既婚者のくせに私の家に泊まらせてと言う。
質素倹約は賛成だけど、なぜ奥さんも認めているの。
明日になれば、君は奥さんへの土産を持って帰るだろう。
わざわざ旅行や出張ついでに来なくてもいいのに。
すっかり頼れる大人になった君は、まだ危機感が薄い。
私が相手でも安心しないで。無防備な姿を見せないで。
お金を稼ぐために働き、それを生きがいにしている。
何度でも自分に言い聞かせないと忘れてしまいそう。
恋とか愛とか、そんなものを求めても意味がない。
だって、君のはもう売り切れなんでしょ。
【私の名前】
病院で目覚めた彼女は、僕を見てわずかに目を見開いた。
倒れたとの連絡で駆けつければ、お久しぶりですと笑う。
そんなはずないだろう。同じ家で生活しているのに。
まるで彼女だけ出会った頃に戻ったみたいだ。
医者の話では、ここ数年の記憶が抜け落ちているらしい。
今日は何日かと聞けば、四年前の日にちを答える。
それなのに、去年の出来事を口にする。
どの程度覚えているのか、明確に知ることはできない。
ただ、僕との日々のほとんどを忘れていることは確か。
僕を名字で呼び、敬語で話し、困ったように笑う。
慣れない人が近くにいると心が休まらないかもしれない。
寂しくなるけど、僕は病室へ行く回数を減らした。
医者は、普段のように接してあげてくださいと言う。
記憶からは消えてしまっても、心は覚えていると。
でも、僕と今の彼女とでは互いの考える関係性が違う。
知り合ったばかりの僕が親しくしたら、彼女は混乱する。
彼女のそばにいたいけど、不安の原因にはなりたくない。
僕は事実を隠して、出会いからやり直すことにした。
思い出せないのなら、僕があの頃に戻ればいい。
もう一度選んでもらえるように、僕が頑張ればいい。
お義父さんとお義母さんは、僕のことも心配してくれる。
娘は私たちに任せてもいいんですよ、と言っていた。
余計なお世話だと切り捨てるのは、あまりに冷たいか。
簡単に離れられるなら結婚なんてしない。
義両親と親密な僕を、彼女は不思議そうに見ていた。
お義父さんと相談して、署名した離婚届を彼女に預ける。
「僕の存在が嫌になったら、名前を書いて渡してほしい」
破棄されることを願って手渡す、僕の手は震えていた。
【視線の先には】
近所にショッピングモールがあってよかった。
食料品に日用雑貨、服や装飾品をまとめて買える。
飲食店でご飯を食べられるし、喫茶店で休憩もできる。
退屈しないので、彼とのお出かけではよく訪れている。
今日も、ピアスを見たいと言う彼と雑貨屋に入った。
服を見る女性のように、彼もこだわってじっくり選ぶ。
その間、私はそばを離れて気ままに店内を見て回る。
強い興味はないけれど、初めて見るものには心が踊る。
この雑貨屋は二週間ほど前に訪れたばかり。
それでも、新商品がいくつも出ているから楽しめる。
特に目を引くのは、黒猫のマグカップ。
持ち手が尻尾になっているデザインが可愛らしい。
「おまたせ」釘づけになっていると優しく肩を叩かれた。
「何見てたの?」彼が手元を覗き込んで視線を辿る。
「んー、いろいろかな」言いながら手を引いて店を出た。
危なかった。これ以上見ていたら買いたくなる。
今日の私の目的は小説を買うこと。
前に買った一冊を読み終えたので、次の本を選びに来た。
彼は飲み物を買ってくる、と離れていったので今は一人。
目移りして時間がかかるから、ちょうど良いのかも。
会計を済ませて本屋を出ると、彼が戻ってきていた。
「あれ、飲み物は?」彼はリュックの外側に入れるはず。
「飲みたいのがなくてさ」そのくせ中身は膨らんでいる。
増えた荷物の謎は、帰宅後に明らかになった。
「欲しいかなって」それは耳の垂れた犬のマグカップ。
笑ってしまった。思い返せば黒猫の横にいた気がする。
「間違えた?」と不安そう。確かに違うものだけど。
「ううん、ありがとう」彼の買った、これがいい。
【私だけ】
一人になりたいと思うのは、集団が嫌いだからではない。
気のおけない友人といても疲れを感じることがある。
笑うことも、話すことすら面倒で逃げたくなる。
そんなとき、僕は決まって屋上を訪れる。
入学式後に立入禁止と説明されたが、壊れた鍵はお約束。
初めて扉に触れる緊張感が今や懐かしい。
持ち込み厳禁のゲーム機にエロ本、タバコの吸い殻まで。
屋上には知らない誰かの秘密が溢れている。
先生も見て見ぬふりなのか、見回りに来たことはない。
ピッキングの跡がある扉も入学当初からそのままだ。
どうせ今日も誰も来ない。僕は呑気に日陰で寝転んだ。
ふいに扉の開く音がして、心臓が嫌な音を立てる。
塔屋の影から様子を窺うと、有名な先輩が立っていた。
容姿端麗、文武両道と噂の、漫画の主人公みたいな人。
そのうち異世界転生して人々を救うのだろう、たぶん。
先輩は怪しい足取りでフェンスに近づいた。
声をかけるべきか、否か。僕はひどく悩んだ。
暗い顔をした人にかけるべき言葉を持ち合わせていない。
ため息ひとつ。校舎に戻ろうとする先輩と目が合った。
気まずさを隠して会釈すると、先輩は力無く笑った。
自殺を考える人間が異世界転生できるのだろうか。
初対面の先輩は、僕と親しくないからこそ弱音を吐いた。
きっと誰にも言わないと、なぜか信用されたらしい。
妙な縁で相談相手になって、僕らは次に会う約束をした。
いつからか先輩と話すために屋上を訪れるようになった。
しかし、フェンス前に並ぶ靴が唐突に終わりを告げた。
先生も生徒も、誰もが信じられないと騒ぐ。
その影で、僕はかけるべき言葉を探していた。
【遠い日の記憶】
鼻の奥に染みつく、いつかの煙草の煙。
懐かしいなんて思う間もなく、あの人の顔が浮かぶ。
きっとこの世で最も人生を謳歌していた。
好きなことだけしていたから、私を残していったのね。
あの人に常識は通じなかった。
まともに食べて、寝て、勉強するのが学生の本分。
昼食にお菓子を食べながらゲームをするなんておかしい。
目の下に濃い隈が居座っているのはなぜなの。
問い詰めても「深いわけがあってな」と茶化される。
あの人はいつも私を「委員長」と呼んだ。
三年間、学級委員長をしていてお似合いだって。
そう呼ぶ人は他にいないから、声だけで誰なのかわかる。
私を呼んでおきながら「やっぱなんでもない」と言う。
あなたの笑顔に弱いこと、気づかれていたのかしら。
成人式の日、あの人はまだ十九歳でふてくされていた。
酒も煙草もできないのに何が成人だよって愚痴をこぼす。
前を歩くあの人は振り向いて、歯を見せて笑った。
「お前も十九だよな。俺が二十歳なるまで待っててよ」
初めてのお酒は一緒に飲んだ。煙草は吸わなかった。
社会人になっても、あの人はまだ「委員長」と呼んだ。
同窓会の案内も〈委員長様〉宛に送られてきた。
いっそ悪戯なのではないかと思う。
母が訝しんで捨てようとするのを止めて、封を切った。
あとで知ったが、手書きの招待状は一枚だけだった。
あの人が消える日まで、想いを告げることはなかった。
学生時代から最期まで、ずっと気の合う友達だった。
それでも、あの煙草が匂うたびに思う。
告白しておけばよかったな、って。