【空を見上げて心に浮かんだこと】
空が泣いている。傘を叩いて助けを求めている。
ビニル傘を通して見ると、僕を貫くようにも思えた。
何もしてあげられない僕を責めているみたい。
あの日の君も期待して、失望して、僕を睨んだ。
お隣の君の家ではよく怒号が飛んでいた。
あなたのせいで、お前のせいだって言い争う男女の声。
喧騒から逃げて部屋にこもる君と窓越しに目が合う。
いつも申し訳なさそうに眉を下げて、手を合わせていた。
約束はないが、家を出る時間が被れば一緒に登校する。
勉強のこと、部活のこと、友達のこと。
どんな内容でも君は楽しそうに話す。
だから僕はただ耳を傾け、たまに相づちを打つ。
珍しく平和な夜を過ごした。
君が窓を開けて待っていて、少し話さないって僕を誘う。
穏やかな声で将来の夢を語る君は、やはり楽しそう。
こんな日々が続けばいいと僕は願った。
知らないふりが正解だったのだろうか。
僕は聞いてしまった。君の話さない、家族のこと。
心配で、なんて言い訳にもならない。
表情の消えた君は黙って、僕を避けるようになった。
君の家からヒステリックな叫びが聞こえる。
あんたなんか産まなければよかったって嘆く女の声。
目が合ったと思えば逸らされて、カーテンが閉まる。
ひどい物音がやみ、すすり泣く声に耳を塞いだ。
聞いた話によると、君はどこかへ引っ越したらしい。
大学進学を機に僕も地元を離れて、一人暮らしを始めた。
君の現状も君の家に響く声も、僕の耳には届かない。
今さら君の身を案じるのは、あまりに勝手すぎるか。
【終わりにしよう】
私、忘れようとしていた。
次の誰かと幸せになることを、あなたが望んだから。
数え切れないほど多くのものをもらった。
すべて箱に閉じ込めて、クローゼットの奥に置いておく。
容易に取り出せないように。失くしてしまわないように。
いつか要らなくなるとしても、まだ捨てられないから。
心の整理ができるまで、もう少しだけ。
流れ星みたいな人だった。
ふいに現れて、希望を残して消えていく。
でも流れ星ではないから、モノと思い出も残していった。
あなたのおかげで他人と生きる温かさを知った。
そして、あなたのせいでこんなに苦しんでいる。
私、生きていかないと。
この世界のどこにも、あなたは存在しないのに。
わざわざ探さなくとも、気配を感じてしまう。
使わないマグカップ。嫌いだった色。広すぎる家。
どれもあなたがいるからこそ必要で、大切にできた。
割れたら、壊れたら、新しいものを買えばよかった。
これいいねって振り向いても寂しくなるだけだ。
誰と話していても、記憶の中のあなたと比べてしまう。
あなただったらと考えて、意味のないことだと思い出す。
次の誰かって、誰のこと? どうしてあなたではないの?
触れられるモノは閉じ込めた。手の届かない場所に。
触れられないモノはどうしよう。手は届かないのに。
データは消した。記憶は消えない。感情が覚えている。
私、諦めていいかな。
あなたのいない世界で、それでも忘れないでいたい。
【手を取り合って】
同じ日に生まれた、うり二つの僕ら。
ほんの少しの時間の差で僕は弟になった。
活発で明るい兄にはいっぱい友達がいる。
置いていかれないように、僕は走って追いかけた。
顔は見紛うほどにそっくりだけど、他はまったく違う。
誰にでも話しかけに行く兄と、もらう言葉を返す僕。
お母さんに頼られる兄と、心配される僕。
どうして僕は兄みたいにできないのだろう。
小学生から中学生になっても、僕らは並んで登校した。
それはお母さんの言いつけで、僕を一人にしないため。
兄が僕に歩幅を合わせるから、なんだか申し訳なかった。
優秀な兄と、そのおまけ。噂は波紋のように広がる。
ほんの少し先に生まれただけの兄は大人びている。
好きな子ができたんだって。こっそり教えてくれた。
頬を染めて、父さんと母さんには内緒だぞって。
「お前はいないの? そういう相手」知らない人みたい。
告白は成功したらしい。
兄に、放課後の教室に呼び出され、顔合わせをした。
好きになるなよ、なんて。不安なら紹介しなくていい。
僕は存在感を消すことがうまくなっていった。
あの頃、何度でも追いかけたのは振り返ってくれるから。
必ずどこかで止まって、待っていてくれた。
彼女がいるとき、その隣を歩く兄は僕を気に留めない。
僕はもう、走ることに疲れてしまった。
別の高校に進学して、家の外では滅多に会わなくなった。
俯いて歩いていたら、校門前でよく知る声が耳に届く。
「一緒に帰ろうぜ。久しぶりに寄り道でもするか?」
止まって、振り返って、今度は戻ってきてくれた。
【優越感、劣等感】
彼は王様。私は彼の、1番目の彼女。
少なくとも3番目まで存在することを知っている。
私は1番目。彼は私を優先してくれる。
他の子との約束があっても、私とデートしてくれる。
2番目の彼女は妬んでいる。
彼の目を盗んで嫌がらせするなんて、心が醜い証拠。
3番目の彼女は平気なふりをしている。
私と親しくしても彼は変わらないのに、必死で可哀想。
彼の持つ『特別』の枠には、彼自身が入っている。
だから、もし都合が悪ければ私の誘いでも断る。
「今度の土曜日デートしようよ」「あー、無理。悪いな」
理由は教えてくれない。知りたいけど、私は聞かない。
土曜日は暇になって、寂しさを紛らわすように街に出た。
服屋を巡り、お昼に選んだ飲食店には彼がいた。
柱で隠れた対面に座る誰かと楽しそうに談笑している。
食事を終えて立った彼の隣に並ぶのは、知らない女の子。
1番目の彼女は私なのに、なんで。
その子は何番目? 私を差し置いて会うほど大事?
思わず追いかけた。二人の姿は街の雑踏に消えていく。
あんな穏やかな笑顔、私の前では見せたことない。
彼の持つ『特別』の枠には、いま誰が入っているの。
彼自身だと思っていたけど、本当はあの子かもしれない。
「ねえ、今度」「ごめん、もう会えない。ごめんな」
理由は聞くまでもなかった。知りたくもなかったよ。
彼は王様で、私は1番目の彼女だった。
1番目だから、物わかりがよくないといけない。
彼の最優先は『特別』。わかっているつもりだったの。
でも。1番目だったから『特別』になれなかったのかな。
【これまでずっと】
何度、見送ってきただろう。
頭痛がするほど歪む視界。涙はとうに枯れてしまった。
全身が心臓のように脈打ち、地面も揺れているみたいだ。
経験ばかり多くなって、いつまでも慣れる気がしない。
見送るたびに他人と生きることを諦めたくなる。
それでも僕は誰かを見初めて、一緒にいたいと願う。
「ありがとう」「ごめんね」「また会えるよ」
相手はいろんな言葉を遺してくれた。
思い出を整理していると写真が僕に笑いかける。
僕を呼ぶ声が聞こえる。おいで、と手招いている。
そっちに行こうとすると、誰かが僕の腕を引く。
「どこ行くの?」少女が首を傾げていた。
「あなたは寂しがりなのよ」と友人が教えてくれる。
失うことに怯えながら、一人では生きられない性質。
可哀想だと口にしても、その目に同情は滲まない。
短い付き合いだけど、彼女は誰よりも僕を理解している。
初めて話したとき、彼女は迷子の子供だった。
わざわざ僕の家の前でうずくまって泣きじゃくる。
すぐに迎えが来て、引き離すように彼女を連れていった。
なのに翌日、彼女は満面の笑みで僕の外出を待っていた。
「あなたは変わらないね」と友人が眉尻を下げる。
女子の愛嬌を残しながら、女性として凛と生きる彼女。
打ち明けなくても、聡明な彼女はきっと察している。
気味が悪いだろうに。彼女は変わっている。
そんな彼女とのティータイムは安らぎを与えてくれる。
彼女は持参の茶葉で紅茶をいれ、僕は洋菓子を用意する。
紅茶に口をつける、と、カップが手から落ちて割れた。
やっぱり彼女は誰よりも、僕よりも僕を理解している。