燈火

Open App
7/12/2023, 7:15:06 AM


【1件のLINE】


繋がらなければいいと思いながら〈音声通話〉を押した。
かけてみたものの、言いたいことは特にない。
ただ、確かめたかったのかもしれない。
私にとって、彼にとって。互いが大切な人であると。

はたして電話は切れたのに、耳の奥にまだ音が響く。
それは耳慣れない曲。変わってしまった呼出音。
しばらくの間、スマホを離すことができなかった。

トークルームに〈応答なし〉が残っている。
無かったことにしたいけど、送信取消はできないらしい。
もう一度かける気にはなれなかった。
だって、連続した着信履歴は重いでしょう。

ふと彼が通知をオンにしていたことを思い出した。
〈不在着信〉を見て、彼は何を思うだろう。
心配してくれるかな。それとも、鬱陶しく感じるかな。
考えるほどに思考は悪いほうへ傾く。

用もなく電話をかけるのは初めてではない。
およそ一週間ぶりの電話。繋がらない予感はあった。
かけなければよかったと後悔して〈応答なし〉を消す。
私の記憶からも消えればいいのに。

テレビをつけると、タイミング悪くあの曲が流れた。
いま流行りの。若者に人気。知らない人はいない。
有名なものには興味を持てないって言っていたくせに。
変えるほどの何かがあったと想像するだけで胸が痛む。

しつこいほど確認しないと安心できない、私の悪い癖。
〈明日の夜には帰るね〉そんな嘘を送った。
次は彼氏も連れてきなさいよ、と母が笑う。
予定が合えばね、と適当にあしらって帰路を急いだ。

私にとって大切な、彼にとって私は?

7/10/2023, 6:23:12 PM

【目が覚めると】


朝のルーティーンに欠かせないものがある。
苦くて嫌いだけど、君の淹れるコーヒーは好き。
ミルクも砂糖も入れないで、ブラックを流し込む。
これを飲みたくて、早起きできるようになった。

「おはよう」と言うと「おはよう」と笑ってくれる。
そんな甘さをコーヒーが中和して、僕は仕事に出る。
君と生きるため、今日も頑張ろうと意気込んで。

たった一杯を飲む時間。僕と君は食卓を囲んで話をする。
昨日はあんな事があって、今日はこんな事をするの。
楽しそうに弾む声と笑顔から、僕は元気をもらっていた。
それでも、目元に浮かぶ隈に気づいてしまったから。

「おはよう」と言うと「うん」と曖昧に笑う。
「コーヒー飲む?」「……もらおうかな」
それはあまりに苦くて、ちっとも美味しくなかった。

コーヒーなんて本当はどうでもいい。
元より飲む習慣など無かったのだから。
ドリップでも、インスタントでも。
君が淹れたものなら、なんでも嬉しい。だけど。

「コーヒー飲む?」「や、今日はいいや」
「そっか」寂しそうに、沈んだ声で君はつぶやいた。
君の負担になるのなら、朝のコーヒーなんていらない。

翌朝から、君は「コーヒー飲む?」と聞かなくなった。
ドリップもインスタントも無くなって、買うこともない。
僕の「おはよう」に言葉を返すこともしなくなった。
あのコーヒーを恋しいと思うのは自分勝手だろうか。

僕より遅くに眠る君は、今日も先に起きている。
「おはよう。コーヒーもらっていい?」
君は嬉しそうに微笑む。「おはよう、いま淹れるね」

7/10/2023, 9:19:08 AM


【私の当たり前】


どこへ行くにも貴方が隣にいた。買い物に行ってきますって家を出ると、俺も行くって追いかけてくる。それだけで胸が温かくなるから、単純だなんて笑った。

一週間、一ヶ月、一年。月日を重ねるごとに煩わしく思えて、声をかけずに出かけることが増えた。貴方がいてもいなくても、私の心は揺れなくなってしまった。

ただいま、と口にするのはいつぶりだろうか。電気の消えた部屋に貴方がいるはずもないのに。隣からタイピングの音が聞こえる。心地よかったそれは、苛立ちを増幅させる。

疑問と怒りは溜まる。勝手に解消されることはないから、いつか溢れてしまうと気づいていた。「最近、遅いよね」投げかければ、貴方は笑った。「そうだっけ」

割れたガラスは戻らない。小さなヒビに気づいていれば、何か違っていたのだろうか。貴方はもうどこにも行かない。私がどこかへ出かけても、貴方がついてくることはない。

「ねえ、終わりにしようか」私と貴方が一緒に生きることに意味はないみたいだから。貴方の瞳が揺れる。こんなにきれいな黒だったんだ。きっと、二度と忘れない。

三日目の夜、ようやく実感した。貴方は戻らない。それなら、私も期待するのはやめる。扉は開かない。ただいまは聞こえない。息遣いも感じられない。静かで、穏やかだ。

「さよなら」ぐらい、言えばよかった。
「ありがとう」って、言い忘れていた。
視界が滲んで、世界がぼやけていく。
まるで日常が溶けていくみたいだった。