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11/19/2023, 4:47:04 PM

ゆらゆらと揺らめく小さな灯火が、命のようだと誰かが言った。
お前の手に持つその儚い炎を、決して途切れさせてはいけないと。
どんな激しい吹雪にあおうとも、冷たい雨に打たれようとも、風に煽られようとも。絶対に、この灯火だけは離すなと。
誰かが言った。
離したらどうなってしまうの。
なんて、分かりきったことを言う人々もいなかった。

「綺麗だね。」

高々と掲げられた無数のキャンドルを見て、彼は感嘆の声をもらした。
クリスマスが近くなると開かれるパーティには、協会の儀式としてキャンドルレーンというゲームが存在する。ルールは至って簡単であり、四つの人の列を作り、どのチームが全員のキャンドルに火を灯すのが一番早いかを競うというものだ。
その協会のボランティアとして参加した俺たちは、パーティの参加者が笑顔で掲げるキャンドルを見ながら雑談をしていた。
手伝いは一通り終わっており、やることといえば参加者が帰ったあとの後片付けくらいである。

「キャンドルって随分と原始的なものだって感じるけど、見るのは飽きないよな。」

揺らめく小さな無数の火と、薄暗い協会。
目に映る幻想的な景色に、不思議な感情が湧いてくる。

「君たちもキャンドルに火をつけるかい?」

突然横からかけらた声に、思わず体を跳ねさせて振り向くと。人当たり良さそうな優しい顔の老人が腰を曲げて俺たちを見上げていた。老人の手には二つの小さなキャンドルと身体を支える杖が握られている。

「僕達ただのボランティアなんですけど、いいんですか?」

首を傾げる友人に、老人はゆっくりと頷くと少し微笑んで言う。

「このキャンドルを掲げる儀式はずぅっと昔からこの協会でやっていてね。今はゲームと子供たちに親しみやすいよう言っておるが、皆が楽しみにしている行事のひとつなんじゃ。」

それは、全員がキャンドルを持って初めて成立するのじゃよ。老人は友人と俺にひとつずつキャンドルを手渡し、火を貰ってきなさいと優しい声音で言うと直ぐに背を向けて去っていく。
貰っておいて何もしないことも失礼なので、近くにいた若い男性達からキャンドルの火を灯させて貰った。

「うわぁ。この火、小さすぎて直ぐに消えそうだよ。」

友人が話しただけで大袈裟に揺らぐ火は、儚すぎて持っていられたものじゃない。
すぐにこのゲームという名の儀式的なものが終わらないかと俺は小さくため息をついた。

「あ。」

小さく声を上げた友人が、俺の手元を凝視している。
なんだと思い目を向ければ、ため息のせいか火は消えていた。

「お前何やってんだよ。」
「…別にいいだろ。」

火をつけたばかりで消してしまうというのはどうにも格好つかないし、居心地が悪い。
なんとなく視線を外してキャンドルを掲げる人々の方に目を向ければ、横から盛大なため息が聞こえた。

「貰ったばっかなのに。」
「うるせぇ。」

そんなのわかってる。隣からグチグチと言われる言葉を無視し、揺らめく炎たちを呆然と見つめた。
あんなもの、水をかけたり風を吹かしたりすれば、直ぐに消えてしまうのに。
なにがいいんだ。

「ったく。しょうがないな。ほら。」
「は?」

手元が少し暖かくなったことに疑問を持ち目線を戻すと、再び火がともされたキャンドルがそこにはあった。
いいって言っただろ。と言えば友人は素知らぬ顔でそんなこと聞いてない。とそっぽを向く。
もう一度ため息をついて消してやろうか。
と考え始めた時。
友人は俺の思考を読んだかのように嘲笑した。

「君がどんだけキャンドルの火を消そうと、無理矢理つけてやるよ。」

何故かその言葉に、俺は凍りついたように動けなくなった。何度も火をつけてやる。
それはキャンドルに対する言葉だ。決して俺に向けられたものでは無い。けれど、なんでか、何故か俺の心を揺さぶった。

「おい。大丈夫?」

固まった俺の目の前に手をヒラヒラと振りながら呆れたように顔をのぞき込む友人に、俺は何も反応を返せない。ただ見つめることしか出来ない。
人間酷く心が揺さぶられると動けなくなるものなのだろうか。

「…なんでもない。」

やっと出せた声は掠れていて、どう考えても何かある。だけど俺は知っていた。俺が話したがらなければ、友人は追求することはしない。

「あっそ。」

案の定、友人は気にすることなく自分の手にもつキャンドルに目を向ける。

「それではみなさーん!願いを込めてキャンドルの火を吹き消してください!」

協会のステージに立つ女の人がマイク片手に陽気な声で言った。騒がしかった会場は静まり、皆が願い事を考え始める。うーんと唸る友人を酷く羨ましく思えた。

「皆さん決まりましたか?カウントダウンで一斉に行きますよー!さんー!にー!いち!」

ふっと灯火が消えた暗い空間の中、一つだけジュと嫌な音が聞こえた。


【キャンドル】

10/24/2023, 8:04:02 AM

どこまでも続く青い空を見ていると、結局どこにいても自分は一人ではないのだと感じる。
そんなことを、エッフェル塔の上で感じている僕は少し傷心気味なのかもしれない。

「体調は良くなったか。」
「お陰様で。」

地上115メートルの高さから呆然とパリの街を見つめていると、一通り景色を見終わった友人が戻ってきた。
階段を665段も上ったというのに息一つ乱すことない彼を、今日はとてつもなく恨めしい。
重たくなる足を必死に動かし、ぐるぐるとした階段を上る作業で吐き気が込み上げて来ていた僕とは大違いだ。
塔に上ると言い出した時は有り余るほど元気だった気力が、今ではゼロである。

「見て歩くか?」
「登っておいて何も見ないで下がるとか嫌すぎるって。」

吐き気を収めるために座っていたベンチから立ち上がり、まだ水が残っているペットボトルを鞄の中に押し込んだ。
こっちだと顎で友人が指し示す方に歩を進める。
外に続く扉を開けた瞬間、生温い風が僕の頬を撫でていった。

「うわ…きれ〜。」

言葉では形容しがたい、異世界のような世界がそこには拡がっていた。
パリと言えばやはり、伝統的な石造りの家だろう。豪華な装飾を匠の手によって丁寧に作られ、一つ一つが芸術品のように美しく感じられる街。
そんな街を高台から一望するというのは、かなり贅沢な経験だ。建物の高さも、角度なども均等に決まっているのか、全ての建物が綺麗に揃えられていた。

「反対から見ると、遠くに高いビルがあんだよ。めっちゃFFみたいだった。」
「FFなに?」
「あれは7だろ。」
「ちょ、みてくる。」

走る気力は無いのでゆっくりと歩きながら塔の反対側へと歩き出す。
途中、とても大きい広場のようなものがあり、その先に王様が出てきそうな建物があった。その建物がなんという建物なのか、政治的なものなのか知らないが。美しく綺麗であった。

「うわマジじゃんFFじゃん!!」

反対側に着くと、小さな。と言っても近づいたら大きいのだろうが。遠くの方に高いビルが何本も立っていた。それは端から徐々に高くなっていく感じで、それがこじんまりとしているのがFFの建物のよう。
石造りで均等な高さの建物たちから徐々に大きくなる様はかなり僕のテンションを上げさせた。

「上から見るか?」

ふと、友人が指さしたのはほんの数段。家にあるような階段である。

「絶っっったい無理。もう階段見ただけで吐きそう。」

いつもなら登るほんの数段もここまでたどり着くのに階段がトラウマになった僕には地獄のようで、思い切り首を横に振った。
そんな僕を見て、意地の悪い悪魔のような顔をした友人は笑って言う。

「上ろうな。」


その後一悶着あり、とりあえずで快晴とともに景色を見終わった僕らは階段…ではなく、エレベーターで地上まで下りることにした。
僕が階段は嫌だ!!!!と発狂しかけたことで、流石の友人も折れてくれたのだ。

改めて見上げたエッフェル塔はやはり世界遺産と言われるだけに美しく。東京タワーとは違った雰囲気があった。
空になったペットボトルをゴミ箱に投げ、塔に背を向けて歩き出す。友人は楽しそうに笑うと口を開いた。

「次は水三本くらい持って上るか。」
「二度と上らない。」


【どこまでも続く青い空】

8/24/2023, 3:46:52 AM

友人は、大水槽を見るのが好きらしい。
大水槽の前に座って、じっと海の生き物が自由に泳ぐのを見るのが好き。何時間でも何日でも一ヶ月だろうと、飽きること無く見ていられる。とよく言っていた。

「海の中の生き物になれるとしたら、何になる?」
「唐突だな。」

友人と二人、大水槽の前に座りながら静かに会話をしていた。平日の朝早くから水族館に来たこともあり、周りには誰もいなく、小さく流れるbgmと話し声だけが聞こえてくる。
そんな中突然問いかけられたもしもの話、俺は水槽の中をぐるっと見回してから考えた。

水槽で生きる生き物達は、各々が自由に過ごしている。群れで回り続ける小さな魚や優雅に鰭を動かすエイ。ゆったりと泳ぐサメに、子供のようにそのサメについて回るコバンザメ、水の底で眠るウミガメや小さくも大きくもない自由に動く魚達。
この水槽の中には、平和という文字が似合うと思った。

「あのサメになりたい。」

水槽を見つめながら呟いた言葉に、友人はあれ?と指を指す。肯定の意味で首を縦に振ると、彼は何を思ったのか椅子から立ち上がって水槽に近づいた。

「ふーん。このサメね。この水槽の中のサメで間違いない?」

水槽の表面に触れて水槽の奥を泳ぐサメを見つめて友人は言う。その質問に微かな引っ掛かりを覚えながらも俺はそうだと返事をした。

「へー。」

後ろから彼の表情は伺う事ができず、俺はただ水槽に触れたままの友人の背を見ることしか出来ない。

「……解釈違いだな。」
「は?」

数分、数十分だろうか。時間が経ってから唐突に友人は振り返る。その表情は不満気で、つまらないと顔に書いてあった。

「こんな水槽の中で一生を過ごす訳?君が?無理だろう。このサメになるだなんて牙を抜かれたただの魚になるようなものだ。」
「サメに失礼だ。」

失礼で結構。ホントのことを言っただけ。と拗ねた表情で友人は再び水槽に目を向ける。何が不満なのか分からないが、友人は明らかに不機嫌になっていた。

「サメが不満か?それとも、この水槽で生きるサメが不満か。」
「この水槽で生きるサメだね。知ってた?水槽の中のサメはいつも満腹で余裕があるから周りの魚を襲わないんだ。それは平和でいいかもしれないけど、毎日がつまらないよ。毎日同じ景色を見て、同じものを食べて、人の見世物として泳ぎ続ける。そんな生活に君が耐えられる?そんなスリルのない毎日に、生きがいを見いだせる?そもそも、こんな小さな場所で君は満足できるわけ?」

ゆっくりと、友人の背後をサメが通り過ぎた。
じろりとこちらを睨むような目を向けるサメは今にも食い殺して来そうな圧があるが、友人は気づいていないのか不機嫌顔で俺を見つめたまま。
それにしても、友人は大水槽を見るのが好きという割に、この水槽を大きいとは思っていないのか。

「なら、お前は何になる。」
「シャチ。」

食いつくように即答した友人は、水槽の中のサメを威圧せんばかりの鋭い眼光で俺を見つめた。

「シャチは海の王者だよ。頭が良くて強くて、大きな海を自由に泳ぐことが出来る。サメだって喰らうほどだ。……君が水槽の中にいるなら、その水槽ぶっ壊してでも君を喰らってやるよ。」
「……似合わねぇ…それこそ解釈違いだろ。」

今度は俺が不快感から顔を歪める番だ。
こいつがシャチ?能天気で偉そうで図太い性格のコイツが?ありえないだろ。

「お前はアレだろ。あのでかいヤツ。……思い出した、ジンベイザメだ。」
「はぁ!?」
「ピッタリだろ?弱肉強食の世界で生きてるくせに危機感もなく悠々と海をおよぎ続ける魚だ。サメの仲間の癖に何にも攻撃しない温厚な阿呆。」
「阿呆ってなんだ!立派なサメだろ!デカくてカッコイイだろ!なら君はホオジロザメだね?水槽の中に入ったら自分の泳ぐ速度間違えてすぐに鼻頭を壁にぶつけるようなポンコツだ。シャチに喰われろ。」
「お前さっきから喰われろ喰われろうるせえよ殺す気満々じゃねえか!」

ギャーギャーと水族館で騒ぐなんて多大な迷惑。誰かがいたのなら注意されただろう。
けれど幸い今日は平日で、客が少ない真昼間。俺たちの言い争いを止めるような人はいなかった。

「あー埒が明かない!とりあえずあれだ。お前はこんな水槽よりでかい海で図太く生きろよ。」
「どんな締め方だよ。」

ゼーハーと呼吸を整えながら、お互い冷静になっていく。良く考えればなんでこんなことで騒いでいるのか分からなくなって、顔を見合せて吹き出した。
ほんと、こんなもしもの話なんかで馬鹿みたいに騒ぐなんて、文字通り馬鹿のすることだろう。

「とりあえず、水族館の外にある海でも行く?」
「いいなそれ。気分転換に行くか。」
「よし!じゃあ海へレッツゴー!」


【海へ】

8/3/2023, 3:08:57 PM

「図書室で寝たら風邪ひくって言ったのは先輩なんだけどな。」

授業終わりの放課後。次回のテスト範囲で分からないとこを教えてもらおうと訪れた図書室で、目当ての人物はペンを持ったまま眠っていた。
一応、紙にインクが滲まぬように、先輩が持っていた愛用の万年筆を手から離して机に置いておく。ついでにかけたままのサングラスも横に取って置いた。
疲れてるのかな。
よく見ると目元に大きな隈があるし肌も荒れている。
先日も様子がおかしかったし、明らかに顔色が悪い先輩に大きなため息が出た。
ただ勉強に追われて寝てないだけなのか、プレッシャーから寝れていないのか。はたまた雨に濡れたせいなのか。どれにせよ体調が悪そうな先輩を放っておくことはできない。
目が覚めるまで待っていよう、とも思ったが図書室は夏のせいか肌寒くなっていた。その証拠に普段ワイシャツ姿の先輩が珍しくセーターを着ている。

「起こす…のは、嫌だな。」

かといって私だけで運ぶのは無理。片割れの兄でも呼ぼうか。
片腕を枕にして眉間に皺を寄せたまま眠る先輩の額をグリグリとひとさし指で押してみる。眠っている時くらい、顰めっ面はやめて欲しいな。
少しの間伸ばすように押し続けていると、先輩は小さく唸り、やっと眉間に皺を無くした。

「よく見るとお兄さんにソックリだな…。」

本人に言えばドスの効いた声で誰がなんだって?と聞かれるだろうから言わないが。目元や鼻の形、口元もじっくり見ればこの間偶然出会ったお兄さんに似ている。流石兄弟というべきか。
私と兄はあんまり似ていないからな〜。
ふわふわと手触りの良い猫のような髪質に、先輩は天パなのかなと考える。クルクルとした髪をひとつまみして伸ばし、放してみると元の状態に戻った。
何度かやっていると段々面白くなってきて、先輩の頬をつまんでみたり、髪の毛に指を通してみたりと遊び始める。

「先輩、早く起きないと風邪引きますよ〜。」

うぅんと唸る先輩を小さく笑ってから、私は図書室の本を開いて活字を追うことにした。
体調が悪そうな先輩を放っておくのか。と普通の人が見たら言うかもしれないが、きっとこの人はココが一番落ち着く場所なんだと思う。額の熱はなく、体温もいつもと同じくらい正常。
なら原因は寝不足しかない。先輩はテストが近くなるとよく目元に隈を作るから原因はソレだろう。
それに、運ぶために兄を呼びに行くのも面倒くさかった。呼びに行くとこまではいいが、後々質問攻めにあう可能性を考えると憂鬱だ。

「先輩はそこまで頑張って何になりたいんだか。」

先輩の努力は人並み以上で、この学校の誰よりもすごいとは思う。けれどこうやって自分を疎かにするのは理解ができなかった。
もっと自分を大切にして欲しいし、自分はすごい人だということを認めて欲しい。自尊心がないよりは、高い方が生きるのに幾分かマシだろう。

「先輩が壊れるとこは見たくないな。」

独り言を呟いてから、再び活字に目を通す。
先輩の目が覚めるまでにこの本は読み終えてしまおう。きっとちょうど良い時間帯になるはずだし、隣で様子を伺えるのは安心する。
そして先輩が目を覚ましたら、労いの一言でもかけてあげようか。
想像しながら笑みを零す。
先輩が先輩のままであってくれればいいな。

ふとよぎった昔の友人の綺麗な笑みに自分の中の弱い部分が音を鳴らした気がした。


【目が覚めるまでに】

8/2/2023, 5:13:29 AM

今日は雨が降っていて、いつもより肌寒い日だった。
授業が終わり、皆が好き勝手に放課後を過ごす時間帯。俺はただ何もせず学校の中を無心で歩いていた。

毎日通う図書室でさえ行く気になれず、後輩が来ていたら後で文句を言われるんだろうなと考える。
グラサングラサンとふざけた名前で俺を呼ぶ後輩はクソ生意気だが、頭のいい後輩だ。
俺よりも、ずっと。
もし、後輩と同級生だったのなら俺達は交流がなかっただろうとたまに思う。
アイツはきっと凡人には興味を示さない。
たまたま俺が図書室で声をかけて、たまたまアイツの知らないことを知っていて、たまたま年上だったから。そして、たまたま図書室で勉強するような男だったから。あいつにとって都合のいい部分が揃っていたから、勉強を教えてもらうのに適任だと判断されただけ。偶然が偶然を呼んだだけ。
天才は嫌いだ。
俺たちのような凡人の努力を一瞬にして無にしてしまう。後輩や俺の学年のトップ、尊敬できる先生達。
それに…俺の兄貴。
あの人は俺の事をどう見ているのだろう。
いつも考える。あの人の前に立つと、俺はただの無力な人間に思えるのだ。価値のないただのガラクタになった気分になってしまう。
その感覚が許せなくて勉学も運動も、兄の苦手な人間関係も必死になって努力してきた。
なのに、いつまで経っても勝てない。俺は優秀な兄の弟で、ただの凡人。勉強の成績は兄より劣ったままだし、運動も兄の方が得意。人間関係だって兄はその優秀さから様々な人から声をかけられている。
今ではエリートで会社のトップまで昇っている人望が厚い人だ。
何をすれば勝てるのだろう。何をすれば、あの無表情な男の関心を引けるのだろう。どうすれば、兄に認めて貰えるのだろう。

「なっにしてんですか!?」

ぐるぐると回り続ける思考を、取っ払う勢いで聞こえてきた声に我に返った。
どうやら考え続ける思考によって視界が機能していなかったらしい。気づいた時には、後輩が廊下でこちらを向き目を見開いていた。何をそんな驚く要素があるんだ。と呆然と考えて、後輩が霞んでいることに気づく。霞んでいるというよりは何かモヤのような…。

「あぁ。雨か。」

ただ単に思ったことを呟くと、途端に雨の音が強く聞こえ始め、今まで脳に全神経を研ぎ澄ませていたかのように他の感覚が働き始めた。
雨の音、冷たい感覚、視界に映る雫、雨特有の匂い。
どれだけ雨に当たっていたのかは知らないが、服はだいぶ水を吸っていた。
ここどこだろう。庭園かどこかか。

「さむ…。」
「そこまで雨に打たれ続ければ寒くもなりますよ。」

ふわりと肌触りのいい布が頭に被せられ、視界に後輩の顔が映る。薄墨色の瞳が心配そうに歪められて、わしゃわしゃと不躾にも頭を掻き乱された。

「我慢してくださいね。こんな雨の日に外に出る先輩が悪いんですから。」

真っ白なタオルが俺の代わりに水分を吸っていく。
後輩は俺の手を掴むと無理やり庭園から廊下まで連れ戻した。黒い髪が雨に濡れて額に張り付いている。
タオルなんて持ってこないで、放っておけば良かったのに。こんな勉強でしか使い物にならない俺なんか。

「何言ってるんですか?先輩は先輩じゃないですか。」

キョトンと小首を傾げる後輩に、自分の動きがピタリと止まったことがわかった。俺、今口に出したっけ?

「っていうか、先輩自意識過剰ですよ。私別に先輩の手助けなくても課題くらい出来ますし、自分で調べればレポートだって書きますよ。」

呆れたようにため息をついてスラスラと述べられる後輩の言葉を何も言えずただ聞く。自意識過剰。確かにそうだ。この天才に凡人の手助けなどいらないだろう。

「でも、先輩教えてくれるじゃないですか。」
「…あぁ。」
「私、人に教えられた方が覚えるの早いんです。確かに初めは先輩が勉強できるからと図書室で話しかけましたが、今も一緒に勉強やレポートを書くのはただ先輩と話したいからってのもあるんですよ。」

後輩は俺の頭から手を離し、俺のサングラスを顔から取り外した。タオルでサングラスについた水滴を拭き取りながら、後輩は楽しそうに笑う。

「先輩って、自分が思ってるより愛されてるんですよ。口悪いし、ガラ悪いし、たまに怖いですけど、結構優しいとことかウチの寮では密かに評判ですよ?」

ね?だから帰りましょう。
手を差し伸べて笑う彼女は俺と話したいらしい。俺が愛されていることを俺よりも知っているらしい。
驚愕するほどの情報量が処理できず、脳は混乱を招く。そうして目を白黒させている俺を、後輩はクスクスと上品に笑った。

「先輩。明日、もし晴れたなら。その時は今日みたいに庭園を散歩してていいですからね。」


【明日、もし晴れたなら】

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