蒸し暑い夜、騒がしい人集りと香ばしい匂いを放つ屋台。夜なのに輝かしい装飾と道、浴衣や私服で食べ物片手に歩く人々。そんな祭りという名に相応しい夜の中で、友人は俺を振り返って言った。
「これが祭り!?」
その日は近くの公園で夏祭りが開催されるということで、普段よりも教室が浮かれた雰囲気になっていた。男子は女子を誘うのに必死だし、女子は髪や浴衣やらの話題でもちきり。
正直興味のない俺からすると理解できない浮かれ具合だった。そんな中、友人はキョロキョロと周りが気になる様子で俺の前の席まで来て、聞いてきたのだ。
「今日ってなんかあんの?」
そこからはもう怒涛の勢いで、夏祭りが近くであるらしいと言えば行く!!と言い出して聞かず。何故か俺まで巻き添えを食らう羽目に。夏祭りなんてこの時期じゃ珍しくないし別に行かなくてもいいだろ。とか男二人ほど虚しいものは無いぞ。などの言葉は友人の夏祭りだから!という言葉によって無慈悲にも叩きつけられた。コイツが何故そこまで夏祭りに行きたくなるのかは全く理解ができない。
そんなこんなで訪れた夏祭り会場。人は多いし夜なのに熱気で蒸し暑いし、何より横で騒ぎ続けている友人がうるさい。
「りんご飴とべっこう飴!これどっちも同じじゃないの!?りんご飴の方がでかいだけじゃないの!?」
「りんごって書いてたんだからりんごが入ってるに決まってんだろ。」
「丸ごと!?丸ごと入ってんの!?おじさん一個ちょうだい!!」
と、先程からハイテンションの友人は屋台のものを何でもかんでも買い回っている。金は大丈夫かと聞いたがどうやらバイト代がかなり溜まっているらしく、こういう場じゃないと消費できならしい。
焼きそばにたこ焼き、お好み焼き、わたあめ、イカ焼きなどなど。食べきれんのかそれ。と言いたいくらいには買い漁り、なおかつその買い物を俺に持たせている。腹減ったら食べていいからな!じゃねぇんだよ。
「兄ちゃんお面にあってんなぁ!」
「ほんとですか、じゃあ買います!」
どこで使うんだそんなお面。狐の昔からあるような面を友人は躊躇いもなく買った。
心底楽しそうに笑って次の店に行く友人はこの祭りを誰よりも楽しんでいるのではないだろうか。
「金魚っ!金魚すくいだって!」
「飼えねぇんだからやめとけ。」
「水風船釣りって何!?おじさん一回やらせて!」
「一個も取れてねぇな。」
「君、射的苦手?」
「お前が上手すぎんだよ。」
「うわ〜見て型抜き。めっちゃ壊れた。」
「下手くそ。」
射的のぬいぐるみやお菓子の景品、型抜きの破片、俺が取った水風船を両手に抱えて友人は上機嫌に鼻歌を歌っていた。
他の皆が花火を見るために広場のような場所に集まる中、友人は買ったものを食べるため少し離れた場所に座る。花火見ないのかよと問う前に、友人が口を開いた。
「僕、夏祭り初めて来たんだよね。」
初めて。初めて?確かに友人の今日のはしゃぎ具合は初めて夏祭りに来た子供のソレだったが、まさか本当に今日が初めてだとは。てか子供の頃に夏祭りに来たことがないことなんてあるのか?
改めて友人の家庭環境の複雑さを垣間見たとき。
ドンッ!!!
と体の芯を揺らすほど大きな音と共に何かが散る音が辺りに響いた。友人が大きく目を見開いたのが分かり、ああ花火かと察する。
「気持ち悪い。」
「は?」
身体が揺れる感覚が、友人からしたら気持ち悪いらしい。お腹あたりに置いていた手をぎゅっと握りしめている。確かに子供の頃初めて見た花火は身体を揺らす不快感と大きな音への恐怖の印象が強かった。
だがコイツはあくまで夏祭りが初めてと言うだけで子供じゃない。
「気持ち悪いよ。なのに…めっちゃ綺麗。」
「…ああ。」
パチパチと弾ける火花が辺りを照らす。食べ物はとうに冷えきって美味しいとは言えないほどだった。
俺に被せてきた狐の面は視界を妨げて邪魔だし、水風船は使い道がない。射的の景品はただのお荷物。
それでも、いつも興味のなかった夏祭りがその日は楽しかった。
【お祭り】
優越感というのは、生きていれば誰でも経験するもので。劣等感というのもまた然り。
私も、その感情を味わったことが何度もある。
が、どうにも目の前の男はそんな様々な感情を持たないようだった。
「優越感…ですか。」
黒いコートを身にまとった男が無表情に私の言葉を復唱する。窓の外からの日光が夕焼けのオレンジ色に染まり始める時間帯。学校の長い廊下に二人の足音だけが響いていた。
「…そういうものは、私よりも弟の方がよく理解していると思いますが。」
「それは、劣等感もという意味ですか。」
「えぇ。」
淡々と、感情を感じられない抑揚のない声が耳に届く。心の底から思い、悪意の込められていない言葉は私の心に不快感を残した。なんとも言えない複雑な心境になるのだ。言葉に表すことは出来ないが、この冷めた態度が鼻につくような不快さを醸し出す。
泥のような光の入らない瞳が廊下の向こう側からこちらに向き、息を飲む。
真冬の氷のように冷たい視線。何を考えているのか分からない無表情がとてつもない威圧感を放っている。
何か、気に障ることをしただろうか。
まさか心の声が聞こえるわけでもあるまい。
ドクドクと緊張で早くなりつつある鼓動を抑え込むように胸の前に手を置くと、意を決して聞いてみることにした。このまま見つめられていたら怖さで震えてしまいそうだったから。そんな情けない姿をこの人の前で見せるのは気が引ける。
「何か。気に障りましたか。」
「いえ、弟と交流があるのですね。」
形の良い口がゆっくりと開き、紡いだ言葉を聞いて私は拍子抜けしてしまう。まさか、弟に興味があったとは。オレンジ色の光は、角度のせいで男にまで届かない。その少し不気味に感じる光の具合に、失言をしてはいけないと言われているような気分になる。
「グラサン先輩とはよく図書室でお世話になります。」
「グラサン…サングラスのことでしょうか。……そうですか。あの子にもちゃんとした後輩が…。」
少しだけ、ほんの少しだけ私に向いていた瞳が柔らかく熱を持った。
それは私を通して弟に向けられているものだろうとは理解しているが、端正な顔立ちにこれは目に毒だ。
そっと目を顔から彼のネクタイへと移して、先輩がこの場にいればよかったのにと思った。
先輩は私が一年の頃から面倒を見てくれているが、時折思い詰めたように言うのだ。
『俺は兄貴より劣ってるからな。あの人は俺に興味も示さないだろうよ。』
そして誤魔化すように、なんてな!と笑うと無理やり頭を撫でてくる。きっと顔を見られたくないからだろうけどいつもバレバレだ。彼は必ず悲しそうに顔を歪ませている。それがずっと私の目に焼き付いているのだ。
目の前に佇む先輩の兄は、僅かに柔らかくなった瞳のまま私に手を伸ばす。なんだろうと静かに手の動きを見ていると、頭の上で止まってから遠慮がちに手のひらが乗せられた。
「弟をよろしくお願いします。」
先輩と同じように、しかし少しだけ低い体温の手のひらが私の頭を撫でて直ぐに離れた。どうやら先輩の兄は学校の理事長室に用があったようでその部屋の前に到着したからだ。
「では。」
彼は今までのことが嘘のように瞬き一つで冷たい瞳に戻ったあと、私に背を向けて歩き出す。静かに遠ざかる後ろ姿に、私はただ
「先輩とお兄さんって、同じことするんだね。」
と誰もいない廊下で、手のひらが触れていた頭を自身で撫でながら呟いた。あの兄弟が容姿以外も似ている所があるというのは、私しか知らない情報ではないだろうか。そう思うと手に汗を握るようだった最初の時間も、誰とも張り合うことの無い優越感からチャラにできてしまうのだった。
【優越感、劣等感】
昨日の夜、やっと届いた予約した本に没頭したせいで私は寝不足だった。授業中に船を漕ぐくらいには睡眠欲求が高くなってしまい、先生に訝しげな視線を向けられる。
そんな日だったから、レポートを進めておこうと訪れた図書室で寝てしまうのも仕方ないと思う。
「おい、起きろ。ここで寝るな。」
揺さぶられた振動で目を覚ます。図書室に置いてある本を下敷きにしていたとこを見るに、読んでいる間に寝落ちしてしまったようだ。まだ完全に起きていない脳で誰だと考えるが、声では誰かわからない。そこまで聞き慣れていない声であることは確かだった。
「はぁい、おはよ。」
ぼやける視界でどうにか捉えた人物は、机に頬杖をついたままサングラス越しにじっとこちらを見つめている。その丸いサングラスには見覚えがあった。
たしか、
「グラサン先輩。」
「ふざけた名前呼んでねぇでさっさと起きろ。」
嫌そうに顔を歪めてトントンと机を指で弾く。サングラスをかけた不思議な先輩は、図書室に通い始めて半年経った頃からよく顔を合わせるようになった先輩だ。随分とチャラそうな格好と口調である彼だが、根はとても真面目な優等生である。一見するとただの不良なのでよく絡まれているようだが。
深いため息をついてから先輩は頭をガシガシとかくと手を差し伸べてきた。どうやら早く寮に帰したいらしい。
「起きたのでもう少し読みます。」
「クマすげぇんだから帰って寝とけ。ガキは寝ることが仕事だ。」
「その理論だと先輩も帰ることになりますよ。二歳しか変わらないでしょう。」
「うっせぇ。」
相変わらず口の悪い。先輩の後ろの窓に目を向けると、外は既に暗くなっていた。まさか夕食食べそびれたか?と若干不安に感じつつも、まぁ部屋にあるカップ麺でいいかと諦める。今日のデザートなんだったんだろ。
窓から先輩に目線を戻すと、少し眉間に皺を寄せた表情が見えた。琥珀色の瞳が黒のサングラスに隠されているのが残念だが、今はそんなことを言っている場合では無さそうだ。
考えにふけっていた私に、とうとう痺れを切らした先輩は私の腕を緩く掴むと少しだけ上に引き上げる。どくやら本当に帰らせたいようだ。ここまで来たら仕方ない。短気な先輩が怒る前に帰ろう。それが可愛い後輩の勤めだ。
立ち上がった私になんか失礼なこと考えてねぇ?と聞いてくる先輩になんてことない顔をしていいえ?と答える。納得のしていなさそうな表情をしてから彼は私の持っていた本を取り上げた。
「これ持ち出し禁止の本だろ。戻しとくから。」
「そういえばお兄さん元気ですか?」
「突然なんでその話になったか知らねぇが。次その質問したらぶっ飛ばすからな。」
女性に使うには随分と乱暴な言葉遣いではなかろうか。先輩にそういうものは求めていないし彼らしくていいとは思うが少し心配になる。私と違って良いとこの子の先輩は家がマナーについて厳しいと思うから。
というか、前から思ってはいたが先輩は兄に対して過剰な反応をする節がある。彼とって兄がどういう存在なのかは知らないが、今の反応を見るにコンプレックスのようなものなのだろうか。
鋭く睨みつけてくる瞳に、キョトンとした自分の姿が映り込む。特に怖くは無いなと感じていれば先輩は直ぐに今までの鋭さを引っ込めて本日二度目のため息をついた。
「とりあえず寝ろ。勉強なら今度見てやっから。」
「ほんとですか。なら生物学のレポート見てください。今度の土曜日までに先生に提出しなきゃなんです。」
「わかったわかった。」
手のかかる後輩だな。と呆れた顔をする先輩だが、その顔は満更でも無さそうだ。この人意外と面倒見いいんだよな。薄く笑う先輩に、じゃあおやすみなさい。と言って頭を下げる。すると、おもむろに伸びてきた手のひらが私の頭に乗って、目の前の先輩が笑った気配がした。
「おう、また明日な。」
【目が覚めると】
このまま歩き続けた道に、何があるのか。とたまに不安になる。友人をなくしてからも歩くこの道に、希望などあるのか。と、考え込む夜がある。
この先、私が生きててよかったと思える瞬間などある気がしないのだ。
親友の話は、誰にもしたことが無い。両親にも、片割れの兄にも、友人達、勿論幼馴染にも。
彼らは私が雨に打たれるのを嫌いな理由を度々聞いてくる。きっとそれが私の過去に繋がることをなんとなく直感しているのだろう。けれど、話す気はなかった。話せば蓋をした気持ちが溢れてしまうからだ。
「……何してるんですか。」
「おわ!ごめん!双子の妹ちゃん!」
学校が突如休校になり、寮に戻る気もなかった私は中庭の木陰でのんびり本を読んで過ごしていた。時折吹き抜ける風が心地よく、うたた寝しそうになっていたところ。突然白髪の男が木から落ちてきたのだ。
いや、詳しくは落ちてきたと言うより引っかかって落ちる寸前で済んでいた。けれどこちらからすれば突然人が降ってきたのだから驚いてしまう。眠気なんて吹っ飛んだ。
「いやーアイツから逃げてたら間違って落ちちまって……。」
2階から大声で白髪の先輩の名前を叫ぶ声がして、ああ有名な先輩の幼馴染かと思い出す。軽音部部長のこの先輩はどうやらポンコツらしく、よく幼馴染に世話を焼かれているのを見掛けるのだ。いつもはニコイチで過ごしているが、何か嫌なことでもあったのだろうか。
「黒髪先輩嫌になったんですか?」
「黒髪先輩ってアイツのことか?別に嫌になったわけじゃないぜ。ただ、最近俺の世話がアイツのストレスになってたことに気付かされてさ。ちょっと離れてた方がいいかなって思って逃げただけ。」
よっと腹筋で体制を整えて私の隣に降りてくる。俺別にアイツを困らせたいわけじゃないんだけどなぁ。と困ったような顔をする先輩に、そういうとこじゃないですかね。という言葉は飲み込んだ。ちゃんと訳を話してから離れればいいのに。
「双子の妹ちゃんはこんなとこで何してんだ?今日三年は休校なんだろ?」
「本でも読もうかなって思ってたら先輩が落ちてきました。」
そりゃあ悪いことしたな。と先輩は笑い出す。笑い事ではないんだけどなと思いながら見つめていると、いいこと思いついた!と顔を輝かせて先輩は私の手を掴んだ。
「学食奢るぜ!飯まだだろ!?」
「え、いやいいです。大丈夫です。」
「遠慮すんなって!絶対うまいやつ奢る!シェフ限定のヤツ買いに行こうぜ!」
遠慮します!と叫んでいる私をお構い無しに先輩は走り出す。今までそこまでの関わりもなかったのに何故。と先輩のコミュ力の高さに怯えながら、未だワクワクしたような表情のままの彼に疑問を抱いた。
「なんでそんなに笑ってるんですか?」
突然の私の疑問に先輩は少し考える素振りをして、それから唸った。なんでと聞かれると分からないらしい。タッタッタッと廊下を走る二人分の足音だけが辺りに響いていた。
随分と走らされてやっと着いた食堂で、乱れ切った息を整えていると、先輩はくるりとこちらに身体を向けて私のことを見つめ始める。この先輩さっきから変なことしかしないな。と若干諦めていると、
「お前と話せて楽しいからだな!」
と笑い声を上げた。はぁ?と声が漏れたのは失礼だと思うが、許して欲しい。
「色んな人と会って、話して、一緒に色んなこと経験すると視野が広がるだろ?そしたら、未来に向けた道が広がる!って父ちゃんが昔から俺に言うんだ。だから俺はあんま話したことない人と話すのは楽しく感じるし、面白い!」
拍子抜けする言葉だ。今までの私があってきた人達とは全く違う考え方。純粋に人と関わるタイプの人間。
眩しいな。と目を細めた。
「私が変なことしたらどうするんですか。」
「ん?しないだろ?」
なんとなく意地悪な質問をした自分を嫌な奴と思いながら様子を伺うと、また予想外の言葉が出てくる。そんなのわかんないじゃないかと意味を込めた目線を向けると、先輩はニカッと太陽のように笑って
「その時はその時だからな!事情があれば聞くし、俺は何も知らずに決めつけたくない。聞かないとわかんないこともあるだろ?それに、お前と話しても、お前の片割れと話しても、どちらも悪い気はしないぞ!俺は見る目だけは確かなんだ!」
と豪快な笑い声を上げた。その時は、その時。何も知らずに決めつけたくない。その言葉は、私が密かに欲しかった言葉だ。決めつけたくない。友人が、私を恨んでいるかもしれないなんて。あの事を言ってなかったらこうはならなかったのかもしれないなんて。
買ってくるな!とキッチンの方へ走り出していく背中に、ほんの少しだけ笑みがこぼれた。
私の道の先にも、まだ希望あるように思えて。
【この道の先に】
家に逆らうものには罰を。
裏切りにはその者の血を。
最悪心を壊してしまいなさい。
酷く冷えた手のひらを頬に添えて、僕の瞳をじっと見つめる父は綺麗に微笑んでいた。その綺麗な笑みに魅入られたように僕は無意識に口を開く。
「はい。父上。」
その笑みの裏にある瞳に、僕なんて写っていないんだろうなと知りながら。僕はその答えしか持ち合わせてはいなかった。父上の言ったことはいつも正しいから。父が間違ったことを言うことなんてないんだ。自分に毎日言い聞かせて、周りの声に聞こえないふりをした。
「兄様。人の心は繊細なんですよ。
花と同じくらい丁寧に扱わなければ、直ぐに壊れてしまうのです。だから、無闇に人を傷付けてはいけません。兄様は優しいから、相手と同じくらい傷ついてしまうでしょう?」
周りの声に耳を塞いでも、唯一塞ぎきれない声があった。それは小さな妹の声で、まだ両手の指で数えられる程しか生きていないというのに。僕よりも一歩進んだ考えをするような。誰よりも純粋で身体の弱い妹だった。
暖かい手のひらで僕の両頬を包み込み、ニコリと心からの笑みを零す小さな妹。まだ成長段階の彼女の手のひらは肉付きがよく、モチモチで触り心地がいい。
腕から伸びる一本の管さえなければ、普通の健康な女の子だ。
「兄様、今日はメイドに頼んで少しだけ散歩させてもらいました。今日は5分間も歩けたんですよ!」
僕の血に染っていた掌を躊躇いなく掴み、そうだ!と語りかけてくる妹に、情けないけれどものすごく泣きたくなった。暖かい。とても暖かいんだ。
病人だからと離れに連れてこられたというのに、父と母は元気ですか。なんて心配してくる健気な妹が。僕には眩しすぎて辛くなる。もちもちした柔らかい手のひらは僕の冷えた身体に熱を取り戻してくれる。キラキラと輝く青い瞳は空のようで、僕に元気を与えてくれた。
「…そうか。すごいな。」
もっと気の利いた事を言える性格なら良かった。もっとこの子にとって良い兄でいられたら良かった。ぐるぐると巡る思考を取り払うように、僕はその場から立ち上がる。もう行くのですか?と少し残念そうな妹の丸い頭を撫でてから、また来るからなと微笑んだ。
「兄様。私の言ったことを忘れないでくださいね。
兄様の心を、壊さないでくださいね。」
いつもなら待ってます。と笑いかけてくる妹が、今日は複雑な表情で小さく呟く。花のように丁寧に扱う。先程の彼女の言葉を反芻して、わかったと頷いた。
「僕はお前さえいれば心を壊すことは無いよ。」
じゃあ大人しく待ってるんだぞ。妹に背を向け、病室の扉を後ろ手に閉めた。帰り際の妹の顔はどうも苦手で、いつも見ることない。けれど何故か今日は無性に見た方が良かったかもしれないという考えがあった。
「いや、行こう。」
後ろ髪を引かれる思いで僕は再び歩き出す。離れから出て、本館へと続く長い道を歩いている途中、白い小さな花が目に入った。なんとなく手を伸ばし、根元から折って手に取ってみる。綺麗な花だな。と考えながら本館まで辿り着くと、僕はその繊細な花を握りつぶした。
嗚呼、妹よ。気を悪くしないで欲しい。僕は確かにお前にわかったと伝えた。それはお前の目に見える範囲内だということは僕しか知らないだろうが、これでも妥協した方なのだ。この家で生きるには、残酷でなくてはならない。
残酷なのは僕だけでいい。妹はあの綺麗な瞳のまま生きていればいい。何にも汚れていない手で、その暖かな体温で、笑っていればいいのだ。
お前だ。お前こそが僕にとっての繊細な花。
だから僕は、お前を何よりも丁寧に扱うと約束しよう。
【繊細な花】