目の前にうずくまる少年が、一人肩を揺らして泣いている。そんな彼を見て僕は、ああまたこの夢かと思うのだった。
僕は昔から夢を見る。夢の内容は単純で、真っ白な空間に一人の少年が現れるというものだ。その少年は僕に何かを訴えるでもなく、ただただ静かに泣いている。僕はそれが気味悪くて、苛立って、不快感を感じるから嫌いだ。
夢は少年がこちらを向いた瞬間に終わる。
その少年は、昔の僕にそっくり…いや、きっと僕本人だろう。
今回もいつも通り彼は泣いている。その様子に無表情ながらも僕は苛立つのだ。何故泣いている。と。
僕がこの夢を見るようになったのは兄さんに出会ってからで、一度目の喧嘩の後だった。その時は自分そっくりの子が泣いていたものだから焦って慰めようとしたものだ。
けれど彼は泣き止まない。僕が何をしようと、泣こうと怒鳴ろうと、慰めようと彼は泣き止むことがない。そんな彼に、何時からか僕は何もしなくなった。ただ単に傍観者になることにしたのだ。
そうなってから何年経ったのだろう。今日も座って少年を観察する日々。もうそろそろ飽きてきた。
いつまで泣いてるんだ。なんで泣くんだ。気持ち悪い。泣いたってどうにもならないのに。嫌いだ。
少年が顔を覆っていた手をゆっくりと下ろし始める。
あぁ、そろそろ夢から覚めるのか。と何となく目を瞑りその瞬間を待った。
「僕は君だから、全部わかるよ。」
「は?」
思わず出た声。だって、なんで、今までこんなこと無かった。瞑っていた目を見開いて少年の顔をしっかりと見てしまう。思っていた通り、あれは自分の幼い頃の姿だった。ただ一つ違うのは純粋無垢な頃の自分が無表情に僕を見つめていること。
「僕はわかるよ。愛されたいんだよね。だって僕は愛されてないんだもん。」
自分の心の嫌な部分に触れられて、先程からずっと感じていた不快感が倍増した。気持ち悪い。何が愛されたいだ。僕はそんなこと思ったことない。
「兄さん達との家族ごっこが癪に障るんだよね。いつか壊れるのに、意味無いって思ってるんでしょ。」
心臓がざわつき、自分の目の前が赤く染っていくのが分かる。そんなこと思ってない!思ったことない!と言いたいのに、僕の喉は凍ったように冷えて固まっていた。無表情の幼い頃の自分が首を傾げる。その様子は普通の子供のように無垢で、自然と苛立ちを募らせた。
「兄さんが本当の息子なんだ。兄さんの家族の両親が僕を愛すわけないもんね。」
そんなことない。彼らは僕のことをちゃんと愛してくれてる。久しぶり会えば彼らは笑って元気そうねって声をかけてくれる。愛してるわって頭を撫でてくれる。僕が愛されてないわけが無い。
「いつか壊れちゃうのに?」
純粋な笑顔で僕の方に一歩近づいた目の前の自分に、ゾッとした。背筋に冷たい手を這わされたようなそんな感覚が襲ってくる。目の前の子が本当に幼い自分なのか分からなくなった。
「愛しているなら、ずっと隣にいて欲しかった。」
遠距離でも手紙があれば安心できた。両親と兄さんから三通、毎週届く異国の切手が貼られた手紙が好きだった。
「僕が呼ばれる時は決まって社交の場だよ。都合がいいと思わない?」
思わない。少しでも僕に価値を見いだしてくれたんだ。僕をどう使おうとあの人たちの勝手だし、彼らは一言出なくてもいいのよって声をかけてくれてた。
「毎日不安と不満でいっぱいだった。耐えれば楽になると思ってた。でもそんなことは無かった!」
違う。ちゃんと兄さんが迎えに来た。僕を必要だと言ってくれてた。ちゃんと愛してくれてるって言ってた。
「でも、まだ足りない。愛して欲しい。ねぇ、愛してよ。愛して?僕を愛して。」
やめろ。愛されてる。僕はもう満足してるんだ。
「どうして?愛してよ。僕を愛して、愛して愛して。まだ満足してないんだ。」
黙ってろよ。お前なんか誰が愛すか。愛されるわけないだろお前なんて。
「うん。そうだよね。」
泣きそうな声で僕に問いかけていた少年は、突然凛とした声で言葉を紡いだ。知らず知らずに俯いていた顔を上げると、前に見た時よりも間近にいる少年の笑顔が目に入る。なんだ、なんで笑ってる。ニコニコと笑みを浮かべる少年は、僕の心の声が読めるのか。口元を歪に釣り上げて綺麗に笑って見せた。
「だって!僕は愛されてないってちゃんと君が自覚できたんだもん!」
ドンッと軽く少年に肩を押された。本当に軽く押されたはずなのに、少年の言葉がグルグルと巡り続ける頭は反射神経など無視して僕は見事なまでに床に倒れる。その様子に満足気に笑った少年が口を開いた時、これを聞いてはならない。と咄嗟に耳を塞いだ。
「本当はわかってるんでしょ?こんな僕を、君を愛してくれる人なんて一生探したっていないんだ!考えてみなよ。どうして僕だけ日本に残されたの?どうして彼らは一緒にいるのに、僕だけ離れ離れなの?どうして僕は養子なの?どうして兄さんは僕にお前みたいなやつが家に住むなんて目障りだって蔑んだの?どうしてあの後優しくなったの?どうして僕に笑いかけるようになったの?どうして珍しい瞳をした僕を彼らは引き取ったの!?」
口から出た吐息が震えて、ガタガタと奥歯が震え出すのを感じる。手のひら一枚では声を防ぐことなんてできないと、わかっていたはずの脳は機能しなかった。何から何までを叫び終わった少年、自分は笑っていた顔を醜く歪めて僕の上に跨った。
少年がこちらに手を伸ばすのが見えて、息が苦しくなっていく。足と指の感覚が遠のき、力が入らなくなったそれらは無様にも床に僕の体を打ち付けた。
段々と霞み始める目の前で、少年は何かを言っているようだが全く聞こえない。鳴り響く耳鳴りと酷い頭痛で意識が朧気になってきた時、頬に生暖かい水のようなものが落ちた。そして、意識が落ちる寸前。
「どうか愛して。」
と、小さな子供の泣き叫ぶ声が聞こえた。
【愛を叫ぶ】
レジャーシートを地面に敷いて、コンビニで買ったおにぎりを横に置き思いっきり伸びをしてから寝転ぶ。
周りの草木の匂いが肺をいっぱいにして、マイナスイオンがしこたま取れるな。とぼんやり考えた。
今日はそこまで風が強くないため、ゆっくりと流れる雲を眺めながら手探りで胸ポケットに入れていた写真を取り出す。取り出した写真を空に掲げて見ると、自然と頬が緩んだ。
「うん。よく撮れてる。」
ふわっと舞った草と一緒に流れる風が自分の髪や頬を撫でていくのを甘受しながら、僕は目を瞑った。
思い出す情景は先程掲げた写真を撮った日のこと。
あの日は確か、久しぶりに夕方外に出た。
僕は基本休日に外に出ることはなく、その日は本当に珍しいことをしたと思う。行く宛てもなくぶらぶらとさまよっていると、自然と海の方に向かっていた。
夕陽が綺麗に見える日だった。水平線に沈もうとする太陽がオレンジ色の光を放ち、上に紫や桃色のグラデーションを作り上げる。
明日は晴れなのかなーと寒い海風を全身に浴びながら呑気に考えていたものだ。
そんな綺麗な空を見ながら堤防にそって歩いていた時、二つの人影があることに気づく。柵を乗り越えて座る二人組は笑っているのか、片方が肩を揺らしていた。柵を乗り越えるなんて危ないな。僕は特に気にすることなく歩き続け、ふと足を止めた。
肩を揺らして笑っていた方が、自分の知人にそっくりだったから。
確か、同じクラスの無口な男。いつも無愛想で部活にストイックだと噂されていた奴だったか。
そんなクラスメイトが笑っているという事実に、かなりの衝撃を受けたのを覚えている。動かない表情筋が働きすぎていて心配になるほどだ。
もう一人の座っている男と何かを話しながら時に意地悪げに、時に心から溢れる笑いのように、コロコロと変わる表情がとても面白くて。見ているこっちまで笑いそうになる。
とても、幸せなんだと分かるような笑い方だった。
数分その様子に魅入って、我に返った僕はそろそろ帰ろうと踵を返す。クラスメイトの意外な一面が見れたことで上機嫌になった僕は、ポケットからスマホを出そうとして一枚の紙切れを落とした。
前に何かを買った時のレシートがふわりと落ちて、さすがにポイ捨てはいけないと思いながら拾い上げる。
それから一瞬前を見て、思わず固まってしまった。
口元を綻ばせ、じっと隣の人物を見つめて膝に顔を預けているクラスメイトが目に入ったのだ。
儚く、それでいて力強い目を持つ彼が幸せだと感じているのを緩んだ口元が伝えてくる。
思わず、本当に咄嗟にスマホを構えてパシャリと一枚の絵画のようなものを撮ってしまった。
後からこれは盗撮という所謂犯罪なのではと我に返ったが、その時にはもう消す気になどなれず。そのままファイルに保存した。
紆余曲折あり、結局あのクラスメイトとは友人と呼べる仲になる。まぁ、その頃には彼は全く笑わなくなってしまったけれど。
今日わざわざレジャーシートを敷いて寝転んでいるのも後から来る友人を待っているからだ。
目を開いて、突然入ってきた光に再び目を閉じる。何度か瞬きすればだんだん慣れてきて、青い空が僕の視界を独占する。しばらく見ていると、がさりと草を踏みしめる音が近づいてきて、僕は目を閉じた。
そうしていればほら。
「いつまで寝てんだ寝坊助。」
と意地悪げに笑った友人が顔を出す。
【大地に寝転び雲が流れる…目を閉じて浮かび上がってきたのはどんな話?】
「じゃあ優しくすんな!!」
そうぶっきらぼうには言い放たれたのは何時だったか。覚えていないくらい幼い頃なのだと思う。
弟は幼さ特有のまろい頬に大粒の涙を流しながら、裾の長いシャツを翻して部屋から出て行った。
あの時何故喧嘩をしたのか、理由は思い出せない。
ただ、弟が「じゃあ」という言葉を使ったということは何か弟について言及するような言葉を僕が言ったのだろう。その言葉に弟は傷つき、家族を大切にしている弟が優しくしないでほしいと思うくらい僕は拒絶されていた。
今考えると心臓を握りつぶされたような衝撃を受けるが、当時の僕は弟をそこまで大切に思っていない、それはもう素晴らしい大馬鹿だったのだ。
故に泣いている弟がいたという事実に興味すらなくなって仲直りに長い時間をかけたものだ。
「兄さん大丈夫?」
随分長い間上の空だったらしい。出かけていた弟が帰ってくるまで本でも読んで待っていようと考えていたが、本を読むという行動に移るまでに彼は帰ってきていた。ただいまと声をかけて、何時までも玄関まで来ない僕に疑問に思ったとはにかみながら言う弟。
天使だろうか。確かに仕事が忙しかったり他に用事があったりする時以外は弟が帰ってきた瞬間におかえりを言うためだけに普段使わない脚力を使ったりしていた。それを見た僕の友は顔を顰めて「うわキモイ。」と声を漏らしていたが、そんなこと知らん。
「あ、今日兄さんの友達に会ったよ。彼女さんとデートしてた。」
買い物先は街だと言っていたが、アイツもそこにいたのか。毎日陽気な友の顔を思い出して、やめた。なんかめっちゃくちゃウザイ顔してるな。思い出すだけで胸糞悪い。
それはそうと、弟の両手に持たれている買い物袋に目を移す。重たそうなそれは珍しく食材が入っていた。
「何か物足りなかったか?何かあれば執事に頼め。」
「これは僕が独自にやりたいことだし大丈夫だよ。それに執事さんも兄さんの案件で忙しいだろ?」
「そうだったか?」
「この間パーティすっぽかしただろ。それの埋め合わせで執事さん今駆け回ってるんだから反省しなよ。」
「善処はする。」
「いつからそんな日本人風な言い回しするようになったんだよ。」
あのパーティの日は確か弟がディナーに誘ってきた日だったか。パーティのことを言ってなかったとは思いながらもふざけた建前上のパーティと弟なら確実に弟を僕は取る。まぁあの後執事から電話が来た弟が鬼の形相で僕を叱りつけてきたのは怖かったが。
ビニール袋に入っていたものをキッチンに置きに行くと言うので、とりあえず僕は冷めきった紅茶を持ってリビングに移動した。大型のテレビの前に座ると、先程読もうと思っていた本を開く。
これは日本の書物だ。弟が離別していた時に住んでいた国なのだが、難しい言語でまだ理解はできない。少しでも弟のことが知りたいと読み始めて長く経つが、日本語とは複雑な言語らしい。
そういえば、昔の話に戻るがどうして弟は僕に優しくすんなと叫んだのだろう。正直当時の僕は弟に優しく接した覚えがない。それどころかいつも付き纏ってくる弟に嫌気がさしていたような気もする。
どうして僕がこんな奴の面倒を見ないといけないんだと文句を言った覚えもある。本当に最低のクズ野郎だったとは自覚しているが、そんな僕に何故彼は…。
そこまで考えたところで、弟が自分用のマグカップを持ってリビングに来た。iPadと教科書を持っているところを見るに今から勉強をするらしい。
「…昔のことは覚えてるか?」
勉強をする時にこんな質問をするべきではないとわかっているが、疑問は解消しなければ気持ちが悪い。首を傾げる弟に、昔のちょっとした喧嘩を話してみた。
「あぁ、覚えてるよ。」
苦笑してマグカップに入っているものを一口のみこんでから弟は昔を思い出すように目を瞑った。
「あの時はまだ、この家に来たばっかりだったから。知らないことばかりで戸惑ってて、でも歳の近い兄さんになら話しかけられるかもって思ってた。」
語り出した弟の話に静かに聞き入る。じっと見つめていると穴が開くよと笑われた。
「さっき兄さんは優しくしてないって言ってたけど、僕からしたらついてまわってる間に転んだりして、その時に毎回呆れながらも手を差し伸べてくれたりするのがとてつもなく暖かかったんだ。」
「そうか。」
「兄さんこそ覚えていないかもしれないけど、何度転んでも文句を言いながら手を引いてくれてたんだよ?」
幼い頃の弟とは違う、凛とした顔立ちにふわりとした笑顔。手を引くとか、転んだら起こすとか、そんな当たり前のことで幸せを感じていた当時の弟の話は僕の心臓を鷲掴みするには十分だった。
「あの時は初めての喧嘩に気が動転してさ。優しくすんなって言ったのは、優しくされたら自分が愛されてるって勘違いしそうだったから。初めての家族で、嫌われたくなかったって言うのもある。」
「…嫌わないだろ。絶対。君を嫌ってるやつは頭がおかしいんじゃないか?というか愛されてるって勘違いじゃないぞ。君はこの家全体から愛されてるんだ。」
「はは、それはもう兄さんが僕に再度会いに来た時にわかってるよ。」
小さく笑い声をあげる弟に安堵する。離別中はずっと手紙のみのやり取りで本当に弟が元気なのかよく疑ったものだ。あの時から着いている執事にはよく「坊ちゃん達がまた一緒に住まわれて嬉しゅうございます。」と泣かれる。冷めきった紅茶を一口のみ、じわっと広がった苦味に何故か無性に泣きたくなった。
あぁ、今幸せだな。と改めて実感した日。
【優しくしないで】
僕の朝は、扉の前に置かれた千円札から始まる。
朝食が千円札へと変貌したのが何時からかなんてもう覚えていないけど、少なくとも弟が産まれるまではちゃんと食べ物だったはずだ。
千円札を拾えば、僕はもうこの家に用はない。
制服を着て、顔を洗って、歯を磨いて、髪を整えて鞄を持てばすぐに家を出る。それが日常だ。
コンビニエンスストアでサンドイッチと珈琲を購入してから、僕はいつもの場所へと移動する。
春の肌寒い空気を肺の中に吸い込みながら歩くのはかなり好きだ。少し歩けば海風が僕の髪を撫でていく。そこまで行けば、もう目的地は目の前だ。
朝日が照らす海は輝いて、鳥たちは喜ぶかのように鳴いている。堤防近くまで歩き、柵に身体を預けると向こうから誰かの走る音が聞こえてきた。
「今日もここで朝食か。」
「毎日ランニングしてるなんて、相変わらずストイックだな。」
走る足を止めて、嫌そうな顔で僕を見る友人に自然と口角が上がる。嫌なら気にせず走りさればいいのに。ちゃっかり耳に入っていたイヤホンを抜いて話しかけてくるあたり、君僕のこと大好きだな。
「今日の朝食はサンドイッチと珈琲。」
「聞いてねぇよ。」
「まぁまぁ、ちょっと付き合えよ。」
「……はぁ。仕方ねぇな。」
本当は付き合えよと言わなくたってここにいるくせに。こういうとこは面倒くさい。ため息をつきながらも僕の隣に腰を下ろした友人は、嫌そうな顔をしていなかった。
「そういえば、僕の小さい頃の夢は鳥になりたいだったな。」
「鳥??」
牛乳の他に買ってきたスポーツドリンクを友人に渡しながら、変わり続ける話題の一つに僕は昔を思い出した。
「そう、鳥。あの大きな翼を持っていれば、どこまでも飛んで行けると思ってた。」
「現実主義のお前にそんな夢が……。」
「昔の僕は純粋だったんだぞ。」
視線は海に注いだまま、小学校の思い出を語り始める。友人はじっと僕の方を見たまま大人しく聞いていた。ただの子供の戯言に、そこまで興味があったのだろうか?
「風に乗って行ったら、きっと気持ちいいんだって信じてたんだよな。」
青い空に手のひらをかざして、僕はいつかこの広い空を飛べるようになりたいとよく言っていた。そんな僕に、当時きっとなれるよと言ってきた周りの人達は、僕を哀れんでいたのだろう。
「鳥になんて、なれるわけねぇだろ。」
そんな僕の思考を踏みにじるように、友人は真顔で幼い夢を否定した。子供の頃の夢なのに、そこまで真剣に返さなくてもいいじゃないか。
「お前に鳥みたいな大きな翼は無い。羽毛はない。お前は空を飛べない。」
僕の目をしっかり見て否定してくる友人に、流石に引いた。だって子供の夢だよ?なんでそこまで真剣に取り合うんだよ。おかしいだろ。
「だから、お前はここにいろ。」
声のトーンが一段下がり、友人の瞳に海の反射した光が入り込む。彼の綺麗な翠の瞳に、少しの怯えが含まれていることにその瞬間やっと気づいた。
なるほど。何故そこまで僕の考えを否定しまくるのかと思えば、そういう事か。
「馬鹿だな君。僕が風に乗れるわけないだろ。」
君の夢を見届けるまでは、そんなことにはならないよ。
私の先輩はドジで間抜けでとてもダサい。
運動をすれば転けて怪我をするし、歩いていれば何も無いところで転ぶ。階段を登れば足をぶつけるし、勉強だってそこまでできる訳じゃない。
皆は彼のそんな姿を見て、嘲笑って通り過ぎていく。
私も最初は傍観者の一人だった。
単純にそんな人に関わるほどの余裕がなかったというのもあるし、この学校の人達に苛立っていたというのもある。接点もないし、関わる必要性もない。
日に日に酷くなりつつある嘲笑う行為を、私は見て見ぬふりをした。
「あの人、いつまであんな感じなんだろ。」
いつも通り授業を受けて、いつも通り寮に戻る。
そんな日常の中、あの先輩は今日も私の視界にに入ってきた。足をかけて転がされた彼は一生懸命落とした本や紙をかき集めようと地面に膝を付けている。ボサボサの髪と目が見えないほどの瓶底メガネ、ダサいと言われるのも納得のいく風貌だ。
「あんな鈍臭いやつが気になるのか?」
隣を歩いていた彼とは真逆に、人気の高いイケメンが顔を覗き込んでくる。別に、気になるわけじゃないよ。と答えれば彼は先輩に目を向けて鼻で笑った。
「あんな奴が僕らと同じ学校にいるなんて、おかしいと思わないか?」
赤い瞳が生き生きとしたように見えて、気持ち悪いと目を逸らす。人間の悪意が生き生きしてる時ほど気持ち悪いものは無いんじゃないかな。
「そんなことより、こないだの実験結果まとめてよ。」
後ろから聞こえてくる声をガン無視して、再び寮に戻る道を歩き始めた。この学校で友達以外の人達は、あまり好きじゃない。
一生関わりたくない。そう考えていたのも束の間、私は朝の散歩中に偶然先輩と鉢合わせた。綺麗な湖の前で絵を描く先輩と。ほんの少しだけ何を描いているのか気になって、背後から覗き見る。
そこには、想像していたよりももっと素晴らしい綺麗な風景が広がっていた。大きなスケッチブックに描かれた朝日と湖、その真ん中にデカデカと描かれた鳥。名前は分からないがとても美しい鳥なんだということはわかった。
「き、れー。」
思わず呟いた言葉に、先輩が大袈裟に肩を震わせて振り返る。バレないようにと背後から見た意味が無くなったなと冷静に思うのとやばいと感じるのは一緒だった。
「あ、え、りょ、寮が、同じの」
挙動不審に手をわたわたと動かしながら先輩は単語になっていない言葉を紡ぐ。それでもしっかり、私の名前を呼んでいた。
名前、ちゃんと覚えてくれてたんだな。分けられた無数の寮の中でも、同じ寮だとちゃんと認識していたことにも驚いた。
「絵、上手いですね。」
焦りすぎてペンなどを落としていく先輩に自然と笑みがこぼれ、気軽に話しかけた。ピシッと石のように固まった彼はぎこちなくスケッチブックを私の前に出し、ほかのも見る?と遠慮がちに聞く。
こんな変な人だったんだなーと考え、素直にスケッチブックを受け取った私が、それから先輩とよく話すようになるのはすぐだった。
仲良くなってから何回も会って話すうちに、先輩は私の提案したことや言ったことを直ぐに実行するようになり、ダサかったボサボサ頭を毎日セットされ、メガネをコンタクトに変え、鈍臭い部分もそれなりに気をつけるようになった。
鵜呑みにしすぎて大丈夫なのかなと心配になるほどだったが、女子人気が増えたからか彼が嘲笑われることは少なくなり、今ではほとんど見かけない。
先輩はよく私に笑いかけ、
「君は天使みたいだね。」
と恥ずかしいことを口にするようになった。その言葉が笑われないのは顔がイケメンだからだろう。私はいつも、その言葉に
「そんなことないですよ。」
と困ったように返す。
でも、心の中ではいつも考えていた。数日前に赤い瞳を持つ男に言われた、
「アイツの瞳の色が瓜二つじゃなければ関わることは無かったんじゃないのか。」
という言葉を。ギロリと鋭く向けられた瞳に、言葉が詰まってしまったのもいけなかった。やっぱりな。と私に背を向けた彼は前に見た嘲笑を顔に浮かべていた。
私が天使なら、先輩に興味を示さずに傍観し続けることもなかっただろうし、寮で本を奪われていたところを見た時点で間に入って助けていたはず。私の友達なら、確実にそうする。でも私は動かなかった。
私には関係ない、1個上の先輩だし、性別も違う、共通点なんてない。私が関わる必要性はない。
傍観者の自分に言い聞かせてきた言葉が、今になって牙を剥く。天使とは、善人なのだろうか、それなら悪魔は悪人?どちらも同じようなものじゃないの?
私は私を正当化するために今日も笑って過ごす。
私には善悪の違いが分からないけど、でも、先輩は確実に善人側の人間なんだろうなと、馬鹿な私は考えていた。
結局、善悪なんて関係ないんだと、後に思い知ることも知らずに。