夜の堤防は奥から聞こえてくるゴーゴーという音で騒がしい。その向こうにある真っ黒な海が俺は苦手だ。
「流れ星こないね。」
強く吹く海風にかき消されないほどの音量で隣に座る友人は呟く。何故俺がわざわざ苦手だという夜の海の近くにいるのかというと、コイツが原因だ。
今日の早朝、友人は珍しく目を輝かせながら俺の席の前に座り、スマホのニュースアプリを見せつけてきた。そこに書いてあったのは流星群が見られるというもの。そういえば学校に来るまでに何度か聞いた単語だなと考えながら興味あるのかと尋ねると、彼は勢いよく頭を縦に振った。
「僕流れ星見たことないんだ!」
いつも冷静な友人がここまで騒ぐと逆に気味が悪くて少し引き気味に頷く。そんな俺に彼は今日の予定を聞いてきた。
「今日は部活。」
「じゃあ、部活の後見に行こ!」
ワクワクと友人の背景に大きく書かれているような気がしてふいっと目を逸らす。俺は別に興味無いし。
「自主練する。」
「じゃあ自主練の後。」
逸らした視界に入るように顔を突き出した友人が、どんなに執拗いかは何年も一緒にいれば自然とわかる。
なんとなく大人しく従うのも癪に障るので、自主練たっぷりするんだけど待ってられるのかと聞くと
「待つのは慣れてる。」
と真顔で返答された。今の言葉のどこに冷静になる要素があったんだ。
そんなこんなで俺はこんな寒い中夜の海に付き合わされている。数分堤防に打ち付ける微かに見える水飛沫を見ながら友人が満足するのを待っていたが、一向に流れない星に不満が湧いていた。
腹減った、眠い、寒い、帰りてぇ。
何時までも空を見つめる友人の横顔は寒さからか鼻頭がじんわり赤く染っている。
「おい、そろそろ「流れ星!!!」
帰ろう。と続くはずの言葉は友人の声によって消された。それよりも空を指さして見た!?通った!とはしゃぐ友人に驚いた。
「また来た!うわっすごい。流星群ってマジだったんだ!」
マジじゃなかったらとっくに帰ってる。心の中でつっこんでから、何故か俺は星ではなく友人を凝視していた。普段の彼とのギャップに困惑していたのかもしれない。
「流れ星が通ってる間に3回願うんだっけ?ほら!君も願っときなよ!」
突然こちらに向いたキラキラとした瞳に、何か恐ろしいものを見たような気がした。ゾッとするような、なんというか、綺麗だけど怖いというか。
って何考えてんだ俺。我に返り空を見上げ、無数に輝く星の合間を流れる光達に思わず感嘆の声をもらす。こんなに綺麗に流れることなんてあるんだな。
「来てよかっただろ?」
心の中に留めたと思っていた言葉は口に出ていたようで、友人はこれまた珍しく満面の笑みを浮かべていた。
「クソさみぃけどな。」
それより願い事。と言う友人は再び空を見上げてブツブツと何かを呟き始める。何を言っているのかは吹き続ける海風に遮られて聞き取れないが、夢の話か何かだろうか。
神頼みなどを信じない俺からすれば星に願うなんてもっと信じられないが、仕方ない。と空を見上げて試しに祈ってみることにしよう。
【どうか友人が笑っていられますように。】
僕の家には、独自のルールがある。
1つ、朝7時半に叔父さんを起こすこと。
2つ、おはよう、おやすみをしっかり伝えること
3つ、騒がしい音を立てないこと
4つ、冷蔵庫のものをレンジで温めて食べること
5つ、洗濯物は平日叔父さんが干すこと
6つ、休日のお昼は外食すること ect.
普通の家庭にもあるようなルールから特殊なものまで、数多くあるルールを決めたのは僕。叔父さんは勝手にしろと言ったので、とりあえずで貼り出したものだ。
「叔父さん、朝だよ。」
まだ日が登りきっておらず、オレンジの光が静かな町を照らす時間帯。僕はかならず叔父さんを起き上がらせる。何故なら僕が起こさないと叔父さんは丸一日ベットから出てこなくなるからだ。
生活リズムを作るようにしろと何度も言ってはいるのだが、聞く耳を持っていないのか、一向に定まることは無い。
「僕、8時から始業なんだよ?早く起きて。」
僕らが住んでる場所は日本ではなくドイツ。
僕が通っている学校は日本とは違い半日制で、8時に始業、最低でも2時には皆学校から帰宅することが決まっている。
まだドイツ語は完璧とまでは言えないが、リスニングはできるしほとんどのことは理解できるので最近は学校に行くのが楽しみになってきた。
話が逸れたが、本当にそろそろ起きてもらわないとまずい。僕が学校に遅刻してしまうじゃないか。
「叔父さん!起きてってば!」
ボスっとシーツに叩きつけた拳が全く意味をなさない。この男、どれだけ起き上がりたくないのだ。
「…叔父さん朝食無し。せっかくフレンチトーストにしたのに。」
ぴくりと叔父さんが頭まで被っていた毛布が揺れた。
もしや効果があるのでは?
「ちゃんと叔父さんの要望通りの物用意したんだけどな?ずっと食べたいって言ってたし。」
あーあ僕一人で食べちゃおーかなー?とわざとらしくその場を離れれば、案の定後ろから布擦れの音が微かに聞こえ
「…食べる。」
と叔父さんは言った。
ボサボサの黒髪とまだ眠たそうな目の下にある隈に昨日いつも以上に夜寝ていないことがわかるが、それは無視しておく。
毎日早く寝なさいと母親のように言っている僕の気持ちこの人わかってんのかな。
「僕もう行かないとだから、お昼は冷蔵庫に入ってるものちゃんと温めて食べてよ。叔父さん気を抜くと体に悪い物しか食べないだからさ。」
朝食の前に座る叔父さんの前をバタバタと通り過ぎながら言うと、わかったと掠れた声が聞こえる。それいつも言ってるけど時々冷蔵庫の料理減ってないんだよな。食欲無いんだろうか。
「行ってくる!」
リュックを背負って靴を履くために靴紐を結ぶ。ギリギリだけど間に合うか。と扉を開こうとした時、背後に気配を感じて振り返った。
「おはよう。」
少しも口角を上げることなく無表情な叔父さん。少しは微笑んだらどうなんだと思いながらも、珍しく忘れていたその言葉を彼から言われたことに少しの幸福感が僕を包んだ。
「おはよう。ルール破っちゃうとこだった。」
怒り、悲しみ、喜び、楽しみ。
俗に言う喜怒哀楽というものを僕の弟は綺麗に表す。
怒っていれば眉間に皺を寄せて無口になるし、悲しければ目から宝石のように輝く涙を流す。喜べば口元を綻ばせるし、楽しければ花が咲いたように笑う。
弟に使うには可愛すぎる言葉が多いって?
仕方ないだろ。
そんな弟は最近、趣味だという日記を寝る前によく書いている。寝る前に自分の感情と出来事を記しておくことが精神を統一させるらしい。
僕にはよく分からないが、感情豊かな弟だからこそ楽しくなるんだろう。
何日か前にこっそり覗いた彼の部屋で、弟はベットの上に腰掛け日記を手に思案していた。何かを思いついたように顔を上げて、楽しそうに書き込む姿は日頃の疲れを癒す目の保養にはちょうど良かった。
「兄さん?」
今日も日記を書きに部屋に戻っただろうと油断していた所に、何故か弟は現れた。別に油断していたからどうだとかでは無いが、普通に心臓に悪い。
「どうした?」
「ココアの匂いがしたから。僕も飲みたい。」
振り返ると日記帳片手に弟が少し微笑んで立っている。わかったと新しくお湯を沸かしにキッチンの方へ移動した。
しばらくしてココアを持ちながら戻ると、何かを書こうとペンをもつ弟と目が合う。ココアを渡しながら日記帳に目を向けると、白紙のままだった。
「日記、今日は書くことが決まってないのか?」
「うん。今日は一日家にいたから。」
日記に前に書いたようなことを書くのは嫌なのだという。毎日変わったことがある訳じゃない僕からすれば首を傾げる話だが、弟はそうでは無いのだろうか。
よく分からない。
でも、ココアを一口飲んで頬を緩める弟は日常の中の些細な変化といえるだろうか。
弟は感情豊か、表情もコロコロ変わる。
きっと弟の持つ日記帳の中には、綺麗な心模様が描かれていることだろう。
僕が簡単に作ったインスタントのココアで満足する弟がその心模様を黒に染めないことをただ願う。
薄墨色の瞳が自分に向くのが、綺麗だと思った。
透き通った汚れひとつない瞳。強い信念を持つ、どこか人間味のないその瞳がとても好きだと思った。
長い夜闇色の髪の毛がなびく姿も、友達と話す時にだけ見せる緩んだ表情も。全てが好きだ。
「先輩?」
いつものように見惚れていると、その視線に気づいた後輩が首を傾げた。何か用ですかとふんわりと笑う姿は可愛いという言葉が世界一似合うと思う。
「昨日描いた絵なんだけど、良ければ見て欲しい。」
「ほんとですか!見ます見ます!」
途端に顔を輝かせる後輩は嬉しそうにスケッチブックを僕から受け取り、捲り始めた。媚びるようなものではなく、心の底から嬉しそうに笑う彼女にいつも僕の方まで嬉しくなる。
「うわ、これ近くにある小屋ですか?」
「うん。昨日は子鹿がいたんだ。」
色鉛筆で書かれた芝生の上に立つ小さな子鹿。この山奥にある特殊な学校にはよく色んな動物が迷い込む。
その中でも昨日は、可愛らしいお客さんが迷い込んでいたのだ。
「可愛いですね。ちゃんと森に帰しましたか?」
「先生に餌を貰ってちゃんと帰ったよ。」
それは良かったです。と絵を見ながら言う後輩。
僕は、彼女のちょっとした言葉に振り回される傾向にある。最近で言うと髪型。目にかかるほどの前髪を上げてみていいかと聞かれ、了承すると苦い顔をしながら彼女は
「うわ……イケメン。」
と呟いた。絶対セットした方がいいですよ。例えばセンター分けとか。と真剣に言う彼女に従った結果、かなり色んな人から人気があったのでそのまま毎日セットするようにしている。瓶底メガネからコンタクトにしたのも、自分の絵に自信を持ったのも、初めて微笑みを向けてくれたのも。全部全部彼女一人のおかげ。
この気持ちを言わないのかと友人に言われたが、それは一生無いかもしれない。なぜなら彼女は、僕を通して誰かを見ている気がするから。
僕の瞳の色を初めて彼女が見た時、確かに呟いた二文字はこの学校では聞いた事ないものだった。その二文字を聞いたのはその瞬間しかないが、確実に彼女が学校の誰にも向けていない感情を持っている人の名前なのだと理解できる。そう。例えば、会いたいのに二度と会えない人を焦がれているような。そんな声。
だから僕は、この感情を彼女にバラさないと誓った。
誓ったのだ。だから、だからこそ。
たとえこの道が間違いだったとしても、彼女を守るために進みたい。
たとえそんな僕を彼女が失望するとわかっていても。
僕のことを嫌いになるかもしれなくても。
世界一大切な愛しき人を守るためにこの道を選ぶ。
だから君は、何も知らずに幸せに過ごせばいい。
…だから、だからどうか。
そんな絶望した、潤んだ瞳で僕を見ないでくれ。
「……なんだ。」
「映画。」
俺の目の前に立つ友人は、悪びれもせずにビニール袋を揺らした。
自分でも最近、調子が悪いことをわかっていた。自覚はしていたが、見ない振りをして今まで足掻き努力してきたのが今の自分だと思っている。
それでも人には限界というものがある訳で、それはなんの前触れもなく俺を襲った。
襲われた結果が、このザマだ。
「足の捻挫、疲労とストレスによる不眠症。わーお、ものすごい焦燥してるんだ?」
俺の了承を得ることもせずに部屋にズカズカと入っていった友人は、リビングの机に置かれた医者からの診断結果を見て分かりやすく目を見開く。
「そうだ。帰れ。」
「それは無理。僕このDVD楽しみにしてたし。」
毎日のように映画を見る自分と、よく家に来る映画好きの友人。何となく意見が一致して何故か俺の部屋に置くことになった映画専用の高級スピーカーをONにして、友人はディスクをDVDプレーヤーへと入れる。
こんなことなら俺の家に置くのをやめれば良かった。
と考えて、かといって友人の家までわざわざ行くのは気が引けるなと顔を顰める。
そんな俺を気にする素振りもなく、友人は座んないの?とソファを叩いた。どうやら自分はソファの前の床に座り込み映画に集中するらしい。家で見ろよ。
映画が始まると、こちらの様子など一ミリも気にならなくなった友人は画面を食い入るように見つめ始めた。友人が座らないならと嫌がらせに寝そべり、ため息をつく。
実は、こういう調子の悪い日は必ずといっていいほどコイツが来るのだ。何も連絡などしていないというのに、どこからか突然現れて映画を見たり話をしたり、満足したら帰っていく。正直何を考えているか分からない。でも、それに助けられている自分もいるというのが、もっと癪に触る。
「んー、やっぱり。熱出てる。」
深い海の底に沈んでいた意識が徐々に浮上し、水面まで辿り着く頃には、俺の体は倦怠感と節々の痛みに襲われていた。心做しか朦朧とする意識に混乱しながら起き上がろうとすると、ぬっと黒い影が自分の上に現れる。
「起きちゃダメだよ。熱あるんだから寝とけ。」
よく見ると青いラベルのペットボトルを持った友人がソファの前に立っている。差し出されたペットボトルを受け取る気にもなれずにぼんやりしていると、額にそれを押し付けられた。
「さっき冷蔵庫から出したからまだ人並みの体温ほどでは無いんだよなー。熱出てる時に冷たいもの一気飲みは危ないって言うし…ちょっとそこで温めといて。」
なんて雑なんだ。突っ込む気にもなれず、返事をしない俺に了承と取ったソイツはキッチンの方へと消えていった。
額に置かれたペットボトルを片手で抑えながら、友人を待つ間に窓の外へと目を向ける。外はもうとっくに暗くなっており、窓に多くの雫がついていた。雨降ってんのか?と疑問に思いながらそれを確認しに行く体力もないので思考を放棄する。
この症状なら風邪だな。
そういえば、俺の家に青いラベルの某人気スポーツドリンクのペットボトルなんて置いていただろうか。最近は買い出しもサボる傾向にあったし、買ったとしても食事に最低限のものしかないはず。
何故これが冷蔵庫に…?
ふと、友人が来た時に下げていたビニール袋を思い出した。DVDをみたいという割には少し大きめなビニール袋に少しだけ感じた違和感。
まさか、こうなることを知っていた?
もしやエスパーなのか?そうか、だから毎回調子の悪い日によくここに来るのか。くだらない考えを持ち、少し冷静になってから破棄する。確かに彼は頭が良く優秀だが、そこまでの力を持ってるわけが無い。
「ほーい。持ってきた。」
軽い口調が聞こえたと思えば、やっと戻ってきた友人の手にある冷えピタと言われるもの。
あぁやっぱり。と友人が自分を気にかけていたことを理解して、思わず頬が緩んでしまった。
そんな俺に気づくこともせずに、彼は冷えピタをペットボトルを避けた額に乗せると、なんでもないように言った。
「日が沈む頃に雨が降っていたんだけど、天気雨でさ。窓についてた雫が夕焼けの赤い日を浴びてキラキラ輝いてて、めっちゃ宝石に見えた。」