白い霧のかかった泉のほとりで、ティトはひとり森の声を聞いていた。朝から森の中を飛び回っていたが、休憩するにはこの泉が一番だ。ティトは小さな熊革のカバンから干し肉を取り出し、じっくりと時間をかけて頬張った。そして泉の水を手で掬い、静かに喉を潤した。オークの木々がささやかな風の訪れを知らせた。ティトはついでに腰に提げた水筒も泉の水で満たして立ち上がった。
午後はどこへいこうか。
ピィーーーー……ィィィッィッィッ!
「だれ?」
大きな鳥の鳴き声が鳴り止まないうちにティトは反応して走り出した。勢いに乗ると両足を踏み込んで跳躍し、木の枝を掴んだ。すると足を振り子のように振り上げて手を離し、飛び上がって次の木へと飛び移った。そうしてティトは糸を引いて飛んでいく一筋の矢のように、グルートの森を切り裂いて移動した。
あの鳥の声は森への侵入者を知らせる合図だ。他のエルフたちも気づいているだろう。大人たちが見つける前に探し出さなくちゃ。ティトはそう考えていた。子どもは侵入者から身を隠さなければならない。幼い頃からそう教えられてきたが、いま彼の好奇心は森の禁止事項を破るべきものと認識した。ティトは誰よりも早く外から来た何者かをこの目で見たかった。
その男はおよそ人が切り拓いたとは思いがたいか細くて心許ない獣道に慎重に足を踏み入れながら、頭は期待と不安に支配されていた。さっきから長く甲高い鳥の鳴き声が聞こえている。もしかしたら男の存在を森に知らせているのかもしれない。なんらかの森の禁忌に触れた罪人のような気分だ。と男は思った。しかしその重苦しい心持ちは、自分が進んでいる道が正しいことを証明しているような気がした。
この獣道のどこかにも、侵入者を待ち構える罠が張られているのではないか、半ば冗談ながらそんなことを思った。次の一歩を踏み出した瞬間、ザクッという音とともに靴の裏に何かを踏んだ感触があった。
__もしかして、罠踏んじゃった?
男は身を屈めて慎重に靴を地面から退けた。そこにはどんぐりの砕けた跡があるだけだった。
「ふぅぅ。ただのどんぐりか。驚かすなよ」
男はそう言うと、少し慎重になり過ぎていたと反省した。こんなことでは森の神秘は……
「もしかして人間?」
起き上がると同時に声がして、目の前に鋭い鼻先があった。
「うわぁあああ!」
情けない悲鳴をあげて男は飛びすさり、その拍子に足を捻ってしまった。
「ぎゃぁああ!」
「お兄さん、本当に人間?」
ティトは男が挫いた左足の靴を脱がせ、ツール草の葉を数枚重ねてぐるぐる巻きにし、その上から泉の水を垂らした。応急手当てとしては十分だが、一人で歩くことはできないだろう。
「僕はティト。お兄さんは?」
「ペイグって言うんだ。ありがとうティト、助かったよ」
左足を投げ出して座り込むペイグを見下ろしながら、ティトは落胆の表情を隠さなかった。のっぺりした顔にツバの広い帽子を被り、糸を織り合わせたエルフと似たような服を着ている。見た目はエルフとほとんど変わらないと思った。
「この森になにをしに来たの? 僕の他に誰かと会った?」
ティトは他のエルフに見つからないうちにできるだけ質問をしておきたかった。大人に見つかったら引き離されてしまうかもしれない。そのときに言い訳ができるような情報がほしい。
「この森では君が初めてだよ。そうだ、行きたいところがあるんだ、早く行かないと」
ペイグは立ち上がって歩き出そうとする。
「だめ、その足じゃ歩けない」
「大丈夫、歩けるさ、あ痛、あたたたた」
男は左足から崩れ落ちて尻餅をついてしまった。
「ほら。僕のせいだし、手を貸すよ」
ティトは男に肩を貸して森の奥に向かうことにした。泉に足を入れればすぐに治るはずだ。ペイグの体重がティトの背に乗ると、思っていたより重たかった。
「その箱はなに?」
ペイグは肩から吊るした紐に大きな木箱を提げていた。ティトはその箱に興味を持った。
「ああこれは、絵を描く道具さ。僕は絵描きをしていてね。実はこの森にも絵を描くために来たんだ」
「こんな森の中に、わざわざ?」
グルートの森に人が侵入することは稀だった。来るのも大半が迷い込んだ人間で、大人たちが見つけると気付かれないように誘導して森の外に追い出すのだ。だからこの森のことを外に暮らす者たちのほとんどは知らないのだと長老たちは言っていた。
「この森のことはどこで知ったの? 誰から聞いたの?」
素性の知れない人間がこの森のことを知っていた。その人間と肩を触れ合わせている危険性よりも先に、ティトはなぜを知りたくなった。そこにはこの怪我をしたひ弱な男になど、どうやったって自分が負けることはないという自負もあった。
「実はこの森で育ったっていうエルフに聞いたんだ」
__この森で育ったエルフ? この森から外に出たエルフがいる?
ティトの頭の中は、そのエルフのことでいっぱいになった。
ティトは毎日のように森の縁まで探検しに行った。グルートの森は北の端も南の端もあらゆる方位の境目を把握している。だからこそ、森の外に出るのがどれだけ勇気のいることなのか知っているのだ。森の終わりは明らかにそれとわかる。空気の層が目に見えて違うのだ。それは色という言葉では表現できない。濃度であり密度であり、森の中には明らかに外とは違う層があるのだ。ティトは毎日、この空気の壁の前で長老の言葉を思い出す。
「エルフはこの森に守られている。この身に宿る鋭敏な聴覚も嗅覚も、しなやかな身のこなしさえ、グルートの恩恵に預かっているのだ。ひとたび森の外に出たら、我々エルフの能力はすぐに衰える。神に賜ったこの永き生命さえもな」
ティトはペイグに肩を貸しながら、このどんくさい人間が住む外の世界について考えを巡らせた。
例えば朝、いつもの時間に目覚ましの鳴らないのを不審に思い、同居人を起こしに行くこと。それが大いなる愛でなくてなんだというのか。
「うるさいなぁ、今日休みなんだから寝かせてよー」
例えばバスの中で、同じ停留所で降りる素振りを見せている親子連れの子どもがブザーを押そうとしているところを黙って待っていること。それが大いなる愛でなくてなんだというのか。
彼らよりも前に座っている乗客が知らずにブザーを押してしまう。子どもは目に涙を浮かべはじめる。
例えば少年がサッカーの試合でペナルティキックを外してしまったとき、泣き崩れる少年に手を差し伸べて「また次、がんばろうね」と言って抱きしめること。それが大いなる愛でなくてなんだというのか。
「もういい、サッカーなんかやめる!」
例えば都会の真ん中で、大柄な男たちに絡まれている女性を見て「僕の連れに何してるんですか?」と言って女性の腕をつかんで走り去ること。それが大いなる愛でなくてなんだというのか。
「ちょっと、放して! 腕つかまないよ!」
しかしながら人類は、この大いなる愛を受け止める術を誰もが身につけているわけではない。大いなる愛は世界にあふれていて、わたしたちを……
「ちょっとアンタ! いつまでこんなくだらない文章をタラタラ書いてるの! 少しでもわたしに愛があるなら、いますぐ金になる仕事取ってきてちょうだい!」
大いなる愛を受け止めることがどれだけ容易かということを、人類が知るのはまだ先のことなのかもしれない。
夜が怖いのです。この物語の続きが、明日も生きているかと不安なのです。
星明かりの照らす文机で、こんな手紙を書いているのをあなたはどうかしているんじゃないかと思うでしょうね。でもどうか許してください。
この夜と仲良くなって、わたしが夜に沈んでしまったら、いまわたしの中に思い描いた言葉たちは、もろとも消えてなくなってしまうんじゃないかとわたしは心底怖れているんです。
眠るのが怖いのです。いまここにある表現を、ここにある一文を、明日もわたしが覚えていられるとお思いですか? すべてを吐き出して、すべてを書き綴らないうちに眠りにつくことなどできましょうか。
そうしているうちにも言葉はどんどん押し寄せてきて、この細く小さな筆先では留めきれないくらいに溢れてくるというのに。筆先からこぼれたインクは紙の上にいくつもの黒い星を作るから、わたしはそれを消したり、ときには書き加えたりしながら物語の体裁を繕わなければなりません。
起きているのが怖いのです。こうして眠れないうちに、生きているわたしの物語と、頭の中にいるわたしの物語が重なり合って、どちらを書き綴ればいいかわからなくなるのが怖いのです。
もしかしたらわたしは、昨日のわたしの出来事を書いているのかもしれませんし、明日わたしの身に起こることを書いているのかもしれません。眠れないわたしは、いつの夜のわたしを筆に濡らしているのか、あなたはご存知かしら?
夢を見るのが怖いのです。夢の中で物語が勝手に動き出して、頭の中を飛び跳ねて舞台の置物をぐちゃぐちゃに掻き回しでもしたら、目が覚めた時にわたしはどこから続きを書き始めればいいかわからなくなっているんじゃないかと不安なのです。
まるで月明かりに照らす影絵芝居のように、遠い異国の英雄譚と混ざり合って、空想上の怪物と戦うお話になっていたら、どんなにか気が楽でしょうね。そうしたらわたしは怪鳥の巣のゆりかごの中で柔らかい鉱物を枕に眠りにつくでしょう。そのときにこそ、本当の意味で愉快な夢を見られるのですから。
こんなことを書き連ねている暇があったら、早く物語の続きを書きなさいとあなたは笑うでしょうね。でも、そんなことがどうしてできましょうか。わたしが思い描いた物語は、この手紙の中にこそあるのですから。
集合ポストから郵便物を取り出して、エレベーターのボタンを押した。このところ出勤が多くて夜が遅い日が続いたけれど、明日は在宅ワークができるからちょっと気持ちが軽い。エレベーターが来ると同時にスマホにメッセージアプリから通知が届いた。
「行くよ、仕事帰りに寄るつもり」
電車の中でわたしが送った「明日ジム行く?」に対してのナオからの返事だ。エレベーターに乗りながら、わたしはスタンプを連打した。
「やったー!」「ご一緒します!」「楽しみですねぇ」
いつも通りの楽しげなスタンプを押しながら、ナオに会って何を話せばいいんだろうと少し沈んでいる自分がいた。ナオの引っ越し先が決まれば、一緒に筋トレできる時間ももうそんなに長くないかもしれない。だったら尚更こんなモヤモヤした気持ちでいるのはもったいないのに……。
部屋に戻ると手に持った郵便物を玄関のトレイに投げ込む。靴を脱いで数歩進んだところで後ろからドサドサッという音がした。振り返ると、トレイが許容量を超えたのか郵便物を吐き出して床に落としていた。
あちゃー。
よく考えたら郵便受けに入っていたものをこのトレイに移し替える作業しかしていなかった。これだったら郵便受けの中にあるのと変わらないじゃん、と昨日までの自分にツッコミを入れる。いや、ついさっきまでの自分に……。一体いつから開封しないで溜めているんだろう。
もちろんそんな性格はいまに始まったことじゃない。部屋の中を見回すと、わたしの部屋は女子っぽいパステルトーンの家具で揃えてはいるものの、脱いだままの部屋着や乱雑に投げ出された雑誌が床に飛び散っている。とてもきれいな部屋とは言えない。ナオの部屋を地味な部屋と表現した自分が恥ずかしくなった。とてもよく整理された素敵な部屋だった。
明日在宅なんだから、部屋の掃除は明日すればいい。今日はこの郵便物だけ、ほら、さすがに玄関がぐちゃぐちゃしてるのは気持ち悪いからさ、いまやろうよ、うん。
よくわからない勧誘のチラシや企業のDMをピックアップして捨てる方に置く。こういう郵便物は変に派手だから重要書類じゃないのはすぐわかる。それから宛先にわたしの名前がなければ基本的に捨てていい。公共料金は自動引き落としにしてるから心配はないとして……。
わたしは一枚の封筒を手に取り、差出人の名前を見た。
「ウッソ、マジ?」
◆◆◆
「なんか、久しぶりだね、隣で筋トレするの」
「うん、だって、私の部屋に来てから、会うのも初めてだし」
「そっか」
トレッドミルに乗りながらするナオとの会話は、少しぎこちなかった。話したいことはあるけど今じゃないような、機会をうかがっているような、そんな感じがした。
「このあと食事行く?」
珍しくナオが誘ってくれた。
「うん、もちろん!」
そう言って笑っているうちに、マシンの速度が上がっていって、しゃべっていられなくなった。
トレーニングの後は洋食のお店に入った。二人とも一応マジメに筋トレをしているので、タンパク質中心のメニューを頼む。料理が来るまでの間に少し沈黙の時間が流れた。
「この前、ウチに来てもらったときにさ」
静寂を裂いてナオが切り出した。
「部屋が地味だなーって言ってくれたじゃん」
え、やだ、ナオ気にしてたんだ。それで気まずい感じだったんだ。
「あ、ごめん、そんなつもりじゃ」
わたしが謝ろうとするとナオは驚いたように遮った。
「あ、そうじゃなくて。その、同世代でそういう、部屋のこととかファッションとか相談できる人がいなくてさ。カナデ、デザイナーだし、コーディネートとか色のセンスとか得意かなって思ってて」
「うん」
ナオの部屋のことひどく言ったのに、ナオはわたしのこと褒めてくれてる。なんか申し訳ないな。
「あのさ、今度引っ越すとき、一緒に家具を選ぶのとか手伝ってくれないかなって思ってて」
「え〜、いいの? うん、絶対行く。一緒に選びたい。わー嬉しい!」
ナオ、わたしのセンスを買ってくれてたんだ。地味な部屋って言ったのを後悔してたから余計に安心した。ナオもホッとした表情をしている。ずっとこれが言いたくてぎこちなかったのか。
「私が引っ越す話したとき、カナデちょっと元気なかったから、心配だったんだよね」
ああ、そこも気づかれてたか。子どもみたいな反応をしちゃったなとは思っていた。さすがに恥ずかしい。でも、そう思っちゃったものはしょうがない。だから、私の結論を、今度はわたしが伝える番だ。
「そのー、引越しのことでさ。わたしからも相談があるんだけど……」
「え、相談?」
ランニングマシンに乗っていたときのように心臓が早くなる。わたしはバッグの中から封筒を取り出した。それは賃貸の管理会社から届いた封筒だった。
「実は、わたしもアパートの更新もうすぐだったんだ。郵便物放置したままで気づいてなかった」
ナオはきょとんとした顔をしている。
「だからさ、一緒にルームシェアしてみない?」
わたしたちの新しい季節はここから始まった