歩くのが早いとよく言われる。自分では急いでいるつもりはないのだが、いつものペースで歩くと早いと言われるのだ。しかし一人で歩く分には関係ない。どれだけ早く歩いたところで、誰かに非難される謂れはないのだから。
今日も一人で近所の路地を歩いていた。歩道は狭いというほどではないが、横に二人歩くとすれ違いはできないぐらい。車道側はガードレールで塞がれている。
ふと気づくと前を歩いていた親子連れが目の前に迫っていた。母親と小学生ぐらいの子ども、そして母親は赤ちゃんを乗せているであろうベビーカーを押していた。
「お母さん、今日の晩ごはんなぁに?」
「んー? なんだろうねー。じゃあクイズにしよっか」
聞くともなく親子の会話が聞こえてきた。ゆったりと流れる親子の時間を微笑ましく思う。わたしは急いでいるわけではないので歩みを緩めた。
「えー? じゃあねー、カレー?」
男の子は不意に立ち止まって母親の方を見上げて言った。わたしも気配を消して立ち止まる。急いでいないのだから、向こうに気づかれて変に道を譲ってもらうことはない。
「ブー、ほら、ちゃんと今日買ったものを見て」
母親は子どもにベビーカーに引っ掛けたエコバッグの中身を確認させている。急いでいないわたしはその様子を眺めながらゆっくりと歩く。慣れていないから歩幅が安定せず、たまにつんのめったりもつれたりする。
親子のいる道の先を見ると、ガードレールに塞がれた一本道はざっと100メートルほどは続いている。
わたしはふぅーと息を吐きながら、天を仰いだ。
目線の先に明るいオレンジ色の花びらが舞っているのが見えた。家屋の白壁に沿って緑のつるが伸びていて、その端々に賑やかな花が咲いている。ノウゼンカズラだ。
いつも通っている道のいつも見ている景色の中に、気づいていない花があった。わたしはその発見にただ驚いていた。
「あ、肉じゃがだ!」
「ふふふ、正解!」
遠くから声がして我に返った。目を向けると親子の姿はずいぶん小さくなっていた。そのとき初めて、わたしは自分が立ち止まっていることに気づいた。
わたしはもう一度ノウゼンカズラを見上げてから、ゆっくりと歩き出した。
それにしてもあの子は、どうして肉じゃがを当てられたのだろう。
紙にすれば、たったひとひらの紙片に過ぎないのだろう。しかしある電子掲示板に書き込まれた、誰かからのそのメッセージは、わたしを前に進ませるには十分だった。
【登校初日、わたしもすごく緊張しました。でも同じキャンパスにキョロ太郎さんがいると思うと心強いです!(もしかしたらもうすれ違ってるかも?)どこかでお会いできるのを楽しみにしてます!】
……ありがとう。
わたしはその言葉を胸に、大学生活の第一歩を踏み出した。
西の空に夕陽が落ちていき、雲の縁を赤く染めていった。ここに座って何度となく見た風景だ。自分の家から見る景色を除けば、わたしの人生で一番多く見た風景に違いない。
何度足を運んで来てみても、ここで繰り広げられるドラマにはひとつとして同じものはなかった。数多くの挫折や失敗を、ほんの一握りの歓喜を、一瞬の栄光を、静かな終わりを、このグラウンドは数え切れない感情をわたしに見せてくれた。
「まさかこのスタジアムの最後を見届けることになるとはね」
マサさんが言った。何度も隣でゲームを観た仲間だが、年齢も連絡先も何をやっている人かも知らない。ここに来て、そこに居れば、一緒に見るだけだ。そんな関係で数十年も同じ景色を見ていた。
「お互い年を取ったね」
わたしはポツリとつぶやいた。
「寂しくなるな。なにも取り壊すことはないのに」
マサさんにとっても思い出が詰まった場所なのだ。
「いやぁ、この球場も年を取ったってことさ。座席の裏は錆びてるし、人工芝なんて剥げかけてる。あそこの電光掲示板だって、穴ぼこみたいに光らないところがいくつもある」
どこを見たってボロボロだ。本当に長く使い過ぎた。わたしは無意識に自分の腰に手をやった。
「新しいスタジアム、なんかいろいろ言われてるよな。あっちができたら、行くのかい?」
「そりゃあもちろん。俺は体の動くうちは通わせてもらうよ」
そこではきっと、また新しいドラマが見られる。新しいものが見られるうちはまだまだ若くいられる気がするから。
=====
このアプリで毎日投稿を続けて200作品を超えました。
私事ですが、ここを節目にこれからはゆったりしたペースで投稿していこうと思います。理由はお題がさすがに「エモ」に寄りすぎているから、です。あとは、どう考えても毎日2000文字の物語を書くためのアプリではないと気づいた、というのもあります。本当に悩みながら毎日書いていました。これまで♡をいただいたみなさま、ありがとうございました。
例えばトランプの神経衰弱で、最後までめくられなかった二枚のような。あるいはクロスワードパズルで最後まで埋められない二文字のような。最初からここにいるのに気づかれない。最後まで余ってしまった君と僕。
「今日も誰からも話しかけられなかったよ」
ミチルは言った。
「わたしも。先生も一度もわたしを当てなかった」
ヒカリが言った。
「変だよね。僕たちはこうしておしゃべりしてるのに」
もうみんなが帰る時間は過ぎていた。
「そうだね。でもきっと、最初からそうだったんだよ」
二人はまだ教室の中にいた。
「うん」
ミチルはそう頷いてから、少し考えて言った。
「僕たちはここにいるべきなのかな」
「ふふ、変なことを言うのね」
「だって、この窓の外にも世界はあるよ」
ミチルは窓から見える校庭を指差した。
「ミチル、世界はどこにでもあるのよ。それにわたしたちはどこにでもいることができる」
ヒカリはミチルを諭すように言った。
「でも、どこにいたって誰からも気づかれないよ」
ミチルは寂しそうに言った。
「バカね、わたしはいつでもミチルを感じてるよ」
「うん」
そう答えたがミチルは上の空だった。
「あ、わたしそろそろ行かなきゃ」
ヒカリが言った。
「あ、そっか。暗くなってきたもんね」
ミチルは窓の外を見て、そんな当たり前のことを口にした。ミチルはこれから始まる時間がとても嫌だった。
「じゃあね」
「うん、バイバイ」
ミチルはヒカリを見送った。
だんだんと闇に包まれていく空と影が伸びていく教室の中で、ミチルは一人の時間をうずくまって過ごした。毎日押し寄せるこの時間が、ミチルには永遠のように思われた。
ミチルはただ、誰にも気づかれない孤独と戦いながら、長い長い夜を過ごした。夜が深まるにつれて、だんだんと冷たくなるのを感じた。ミチルの孤独を紛らわすものは、ヒカリとの思い出だけだった。ヒカリとの輝く思い出を繰り返し再生しながら、ただひたすらに朝を待った。
そうしてようやく朝になったとき、誰よりも早くヒカリは教室に現れる。ミチルはただ、その瞬間にだけ、ヒカリとの絆を感じるのだった。
例えば、激しく流れる川のほとりに自分がいるような感覚。そこで泳いでいる人は何人もいるけど、自分は泳ぎ方もわからずに、ただ立ち尽くしている。泳いでいる人たちは楽しそうで、見ているうちに本当は自分もそこに行きたいんだと強く思うようになる。激流の中でも優雅に美しく舞うように泳いでいる人たちは、いろんな泳ぎ方を試して遊んでいるようだ。僕はただ、見れば見るほど急に見える流れの早さに怖気付いて、川のほとりでうずくまって、一人顔を沈めるのだ。
僕のバイトしている居酒屋は、都心からちょっと外れた駅の商店街の一角にある。庶民に優しい町の居酒屋という感じの店だ。常連さんはみんな顔を覚えていて、大将ともよく話している。
「最近の大河ドラマはダメだな、安っぽくていけねぇ」
いつも数人のグループで来る客がしている会話が耳に入った。
「そもそも出てる役者がガキばっかりでさ、芝居に重みがねえ。見る気もしねぇよ」
50代くらいだろうか、酔っ払って口が悪くなっている。日本を代表する最高峰のドラマシリーズにケチを付ける、誰にでもできる一番簡単なストレスの発散だ。僕はイライラする気持ちを抑えるのに必死だった。
「邦画もダメだね。人気がある客が来るでキャスティングしてたら、作品として残す意味がないよ。やっぱり映画はハリウッド。バックトゥー・ザ・フューチャーに限るよ」
そこでバットゥー・ザ・フューチャーを持ち出すんかい。まあ名作だけど。
「えー? 私は邦画もいいと思うわよ。いまをときめくイケメン俳優たちをスクリーンいっぱいの大画面で見る! ああ!眼福眼福っ!」
そこじゃないだろ。と思いつつ、そもそも銀幕のスターを観に行くという文化は二枚目俳優が作った面もあるから間違いとは言えない。
「ああもうみなさんだいぶ酔ってますね。今日はそろそろお開きにしましょうか」
グループの中では一番若そうな30歳ぐらいのメガネの男性が仕切ってお会計になった。
「ありがとうございました。またお越しください!」
大将が大声で客を見送る。レジを担当した僕は小さい声で「ありがとうございました」とだけつぶやいた。
川のほとりには僕だけじゃなく、たくさんの人がいた。僕みたいにうずくまっているだけじゃなく、泳いでいる人の姿を真剣に見守っている人もいれば、笑いながらヤジを飛ばしている人もいる。必死で声援を送っている人もいるようだ。
川の中をのぞくと、泳いでいる人の中にも、必死でもがき、なんとか流されずに食らいついている人もいた。よく見ると優雅に泳いでいる人はほんの一握りで、大勢の人がなりふり構わずあの手この手で川の流れに逆らっていた。そして、力尽きて流されていく人の姿も見られた。やはり僕は、この川の魅力に魅せられていた。
バイトの休憩時間、大将の作った賄いをいただきながら僕はスマホを手に取った。YourCubeを開いて途中まで見ていた動画を見る。
「この作品は、主人公の内面を……」
動画の音声が部屋中に鳴り響いた。いけね、音消してなかった。
「なに? 何の動画?」
大将に気づかれてしまった。
「あっ、すいません。音出しちゃって」
「いいよ、休憩中だし」
大将は咎めなかった。
「あ、あの、武村泰臣っていう映画監督のインタビューなんですけど。この前自主映画を撮って話題になってて」
「笛枝くん、映画好きなの?」
大将から直球の質問が来た。
「ええ、あ、まあ人並みには観る方かなって」
「話題になってるとはいえ、映画監督のインタビューまでチェックしてるなんて、相当好きでしょ」
大将の人当たりの良さが会話を促す。逃げられない。
「や、実は映画撮るのにも興味があって、でも全然勉強とかしてないですし、思ってるだけっていうか」
「でも映画たくさん観てるんでしょ? それはもう勉強だと思うけどな」
「そう、ですかね。観るのは好きです」
この人と話していると何故かしゃべってしまう。
「そうだ、いつも来てくれる常連さんいるじゃない。あの人たち確か映画サークルだったような」
常連さん……って、もしかしてあの酔っぱらい?
「今度来たときに話してみなよ」
「いや、あの人たちは……」
ガラガラガラ……
「どうもーまた来ちゃいましたー」
店の戸を開けたのはあの常連グループだった。
「あ、いらっしゃい! いやちょうどみなさんの話をしてたところで」
おいおいおい大将! そんなこと言ったら僕、出てかなきゃいけなくなるじゃん!
「実はウチのバイトで、映画撮りたいって子がいてね」
うわーマジか。あの人たちと話すのか。
激しく流れる川の淵に立たされたような気分だった。
「笛枝と言います」
映画サークルが座るボックス席の前に立って自己紹介をしている自分がいた。大将はもう厨房に戻っている。他にお客さんはいないので、僕はいまホールの仕事を免除されているらしい。
「俺たちはこの地域で活動してる映画サークル。年齢もまちまちだけど、いろんな縁が重なって一緒にやってる」
この前お会計を仕切ったメガネくんが説明してくれた。若いけどリーダーなんだろうか。僕はいつも飲みながら管を巻いているこの人たちがどうにも好きになれなかった。
「どんな活動をしてるんですか?」
「たまに自治体の依頼を受けて、交通安全の啓発動画とか、町おこしのPR動画とかも撮ってるよ。そんな依頼はほとんどないけどね」
そういう依頼を受けるぐらいの知名度はあるのか。
「あとはこの地域の中でロケをして、自分たちの撮りたいものを撮る。それを編集して、町の施設で上映会をやったりもしてる」
「自分たちで撮ったものを、自分たちで見る、まあ自己満足がほとんどだけどな」
メガネくんの話にオッサンが口を挟んだ。
「私は自分の姿が映像を通して見られるのが毎回とても楽しみなの。それだけで女優でいられるじゃない?」
お姉さんは自分のセリフで夢見心地だ。
「そう、プロにはなれてないけど、こうして毎週のように集まって、仲間で映像を続けてる」
「毎週集まって飲みに来てるだけでしょう」
僕はこの人たちの意識の低さに腹が立ってきて、思わず反射のように口を滑らせてしまった。
「あん? なんだって?」
50代のオッサンが凄んでくる。
「ちょっとケンさん、落ち着いて」
「やりもしねぇで抜かしてんじゃねえぞー。オレたちだってただ酒飲みに来てるわけじゃ」
僕はイライラが抑えられなくて、ついに言ってしまった。
「本気でやらないで、真剣に映画作ってる人たちに外野からヤジ飛ばして、のんきに酒飲んでるのが許せないんですよ!」
「なんだとこのガキ……!」
「だったら撮るべきだ」
オッサンの言葉を遮ってメガネくんが言った。
「え?」
「ただ外野からヤジを飛ばす人生が嫌なら、それが許せないなら、映画を撮るべきだ」
メガネくんの言葉が僕の鼓動をえぐる。急流に呑み込まれそうになる。
「でも、機材を買うお金もないし……」
「カメラならここにある。ウチのサークルに入るなら、いつでも使わせてあげるよ」
メガネくんは脇に置かれた高そうなカメラを掲げた。
「カメラひとつで、これだけのメンバーで、それこそ素人の集まりで何ができるんですか」
この期に及んでまだ言い訳をしている自分が情けない。
「どんな名監督だって、はじめは低予算の自主映画からスタートしてる。武村泰臣を知ってるだろう?」
目の前にある川の流れが、いつの間にか穏やかになっている。
「あとは君が飛び込むだけだよ」
僕は後ずさって川から距離を取った。
「……僕は」
そして助走をつけて頭から川に飛び込んだ。
「映画を撮りたいです!」
タイトル「安い映画のイントロに」