午後からのアポイントは上司と同席することになっていた。課長を伴ってクライアントをお迎えする。
「唐方(からかた)くん、今日のクライアントはどちらの方かな」
待っている間に堂島課長から質問された。
「はい。旅行専門のIT企業で、データ分析について当社のリサーチ部門の実績を評価いただいておりまして……」
わたしは手元の資料をかいつまんで読み上げた。
「ほお。旅行関係ね」
課長はそう言ってアゴの下を触った。どうせ時間潰しにわたしにしゃべらせただけだろう。何も覚えちゃいない。そうこうしている間にクライアントが姿を現した。
「山岡様、ようこそおいでくださいました。担当の唐方です。はじめまして」
「ああ、はじめまして! 山岡です。よろしくお願いします」
山岡氏はスラっとして背が高く、スーツの似合う男性だった。
「こちら上司の堂島です」
流れで課長を紹介する。
「これはこれは。はじめまして。山岡と申します」
山岡氏はあいさつをして少しかたい笑顔を見せた。
「はじめまして、ですか?」
堂島課長は笑顔の山岡氏に問いかけた。
「あ、ああ失礼、どこかでお会いしてましたっけ?」
山岡氏は、バツの悪い表情になって返した。しかし課長は怪訝な表情を浮かべて山岡氏を見つめている。
「わたしが質問しているんですよ。はじめましてですか、と」
課長は威圧するように言った。
「え、あの、ですから、わたしも思い出せなくて、ですね」
山岡氏はますます不安な声になっていく。
「わたしも確証が持てないから聞いているんじゃないですか。わたしはあちらこちらと業界を渡り歩いていましてね。もしかしたら以前にどこかでご一緒しているかもしれないんです」
課長は大きな声で早口で続けた。
「そ、そうでしたか。いや、申し訳ない。わたしは覚えていないので、もしご記憶があるのでしたらお伺いしたいと思いまして」
「わたしが正直に言って下手に出ているのに、とぼけたように質問で返すなんて。はじめから覚えていませんと言えばいいじゃないですか」
「……すみません」
「いえ、こちらこそ声を荒げてすみませんでした。はじめまして、堂島です」
わたしはこの一連のやりとりを押し黙って見守っていた。ハラハラしていたからではない。見飽きていたからだ。堂島課長のこの作戦は、さしあたり成功したようだ。落ち着いたところで二人を応接室に案内する。
わたしが繋いだクライアントとのファーストアポイントなんだから、上司の堂島課長と会うのだってはじめましてに決まっている。それでも彼は必ず「はじめまして、ですか?」と相手に聞く。そして今の流れを予定調和のように繰り返し、商談開始時にマウントを取るという常套手段なのだ。もちろん失敗すればクライアントは怒って帰ってしまう。はっきり言ってギャンブルだ。それも会社の評判に関わるほどの悪質なギャンブルだ。
わたしも他の同僚も内心では辟易としているのだが、社長がこの男をいたく気に入っているため進言することもはばかられる。堂島は目上の人に取り入るのも上手い。その手の人心掌握術に長けていて、それだけで業界を渡り歩いてきたと言っても言い過ぎではないのだ。
「うわー、最悪ですね。その上司」
「でもいるんですよねー、そういう人」
仕事帰りに入った居酒屋で、わたしは“堂島課長”のエピソードを披露していた。
「ね、いるでしょ。それで驚くのはさ、今日はそれが上手くいって、商談成立しちゃったんだよ」
笑いと呆れが入り混じったような声で宴席がどっと沸く。
「そういえばこの前、ウチの上司も完全にパワハラやっててさ」
「わたしも飲み会でサイテーなセクハラ発言されました」
わたしが話し終えた後はたいてい他の人が話し始める。わたしはそれを真剣に聞く。相槌を打ちながら、聞いたことがない展開は頭にメモをしながら。
そうやって他人のエピソードを収集し再構成して他で話すのが、いつしかわたしの生きる術になっていた。はじめて行く酒場では“堂島課長”が鉄板だ。自分が「はじめまして」で入っていけば、そのままエピソードにつなげられる。でも話す相手には注意をしなくちゃいけない。ちょっと気を抜くと強烈なカウンターを食らうこともあるからだ。
「その話、はじめまして、でしたっけ?」
ってね。
「雪降ったよね」
「雪の語源って知ってる?」
「え、知らない」
「雪ってね、いろんな説があるんだけど、“ゆるい”から来てるっていう説があるんだよ」
「どゆこと?」
「雪ってさ、降ってくるのを手で触ると、ゆるっと溶けていくだろ?」
「ああ、体温で溶けちゃうね」
「それを昔の人は“ゆるい”ものだなぁって表現したんだよ。だから“ゆるきもの”が縮まって“ゆき”になったんだ」
「マジで?」
「嘘」
「はぁ?」
「いや嘘だよ。いま作った説。今日ほらエイプリルフールだから」
「嘘かい!」
「なんか嘘ついてたら腹減ってきたな」
「どういう体してんだよ。嘘ついたらカロリー消費するって」
「まあ話を展開する上での嘘なんですけどね」
「言わなくていいんだよ」
「あ、おにぎり屋さんがある」
「おにぎりの専門店。東京では割とよく見る業態。あ、じゃあおにぎりの語源教えてくれよ」
「お、それを俺に聞いちゃう?」
「やる気だねぇ」
「おにぎりなんてその名の通りよ、鬼を斬る! これさえ食べれば鬼だって斬れるんだぞ! って桃太郎が言ったからおにぎり」
「ええ? あれ、きびだんごじゃないの?」
「いやいや、きびだんごなんて岡山の人が地域振興のために後付けで考えたやつだから。実際はおにぎりで犬、猿、キジを勧誘したんだよ」
「知らなかったぁ」
「そうそう、その時におにぎりを裏で“握らせた”からおにぎりになったって説もある」
「裏金みたいに? 嫌な語源!」
「ぜんぶ嘘なんだけどね」
「嘘かい! わかってたけど嘘かい! でもおにぎりって、“おむすび” とも言うよね」
「その語源も知りたい?」
「おお、どんどん出てくるな」
「おむすびは簡単だよ。猫のしっぽ。これを結んだやつがいるんだな。その形とおむすびの形が似てるから、尾を結んだみたいだってんで“尾結び”でおむすびだよ」
「お前すごいな、これももちろん」
「嘘だよ」
「じゃあじゃあ、お餅! お餅の語源を教えてくれよ」
「お前、お米好きだな。まあいいや。えーと江戸時代はな、お餅を屋台で焼いて売ってたんだな。そんで屋台だから座って食べるような場所がねぇ。すると買った人はどうする?」
「その場で食べられなければ……、“お持ち帰り”で? ああ!」
「その通り。お持ち帰りを江戸っ子が短くして“おもち”よ」
「流れるように出てくるな。参加できて嬉しいよ」
「嘘だけどな」
「なあ、そんなことより本当に腹減って来ちゃったよ。早くメシにしようぜ」
「そのメシって言葉は逆さ言葉でな」
「おお始まったよ」
「メシってのは昔から一日の終わりに食べるものだったんだよ。一日の締め、これを逆さにしてメシになったってわけだ」
「これも嘘です〜」
「そんじゃあ、ここらでおシメぇよ」
「またね」
「その“またね”っていうのは“待ったなし”から来てるんだけどよ……」
「もういいから!」
風の強い日だった。
「まっずいなぁ」
おじさんが言った。わたしは「どうしたんですか?」と聞いてみた。
「春の風は、厄介なヤツを引ぎ寄せるからなぁ」
「ああ、花粉ですか?」
「いんや、そんな生易しいもんじゃねえ。ヤツは目には見えねぇんだ」
花粉も目に見えないだろ、と思ったがもっと小さいなら
「黄砂とかPM2.5とかですかね」
「そんなもんだねぇ。そいづはな、春風とともにやってくる怪物だ」
怪物? 目に見えない怪物?
「ウチらの間では、そいづはLOVEと呼ばれでいる。そいづに取り憑かれると内側から蝕まれでいぐ。そいづは人の心では抗いがたい、ある種の衝動を与えるわげだ。」
抗いがたい……失礼だがこの人の口から自然と出る言葉ではないような、どこかの文献か他人から聞いた言葉を口にしているような気がした。
「気ぃ付けろ。そいづは太陽の季節を過ぎるど、いつの間にか居なぐなる。それがお前さんに悲劇ばもたらすぞ」
最後の言葉を言い終わると、一陣の風がおじさんの影をさらっていった。
「くしゅん!」
不意に出てしまったくしゃみの直後に、私はとっさに目を覆った。指の腹にじんわりと涙が溜まる。私は片方の手でバッグの中をまさぐりティッシュを取り出した。
「あれ、ミサキって花粉症だっけ」
ミスドで一緒にお茶してたアカリが私の仕草に気づいた。口の中でポンデリングが踊っている。
「んーぞぅ」
しゃべったら鼻水もヤバそうだと感じて、ティッシュをもう一枚出して鼻に押し付けた。
せっかくの春休みなのに、外出が憂鬱で仕方がない。この時期にくしゃみをすると途端に目の前が黄色くなるからだ。黄色い涙はアレルギーの証。もうサイアク。
「あ〜、目元がコナミダ色になってる〜」
アカリがからかってきた。
「やめてよ〜、もうヤダヤダ、この時期ホント人と会いたくない!」
花粉症によって溢れてくる黄色い涙のことを「粉涙(コナミダ)」と言うようになったのはいつからなんだろう。名称がかわいくなったからって、症状は少しも軽減されないし、黄色い涙がダサいのは同じだ。むしろイジられているようでムカつく。しかし「コナミダ」という言葉は、いつしかアレルギーで出る涙を総称して使われるようになった。
「そんな状態なのにわたしと会ってくれるミサキは天使だよ」
「なに言ってるの。親友との残り少ないイチャイチャできる時間なんだから。なにを投げ打ってでも来るって」
アカリは関西の大学に進学する。もう今までのように毎日おしゃべりすることはできない。残りの時間は全力で遊ぼうと決めていた。
「薬飲んでるの?」
アカリは心配して聞いてくれている。
「うん。花粉症の薬は飲んでる。でもあの怪しい薬は意地でも飲まない」
最近では涙を透明にする薬が販売されている。【黄色い涙にお困りの方に!】【コナミダ色とはもうおさらば!】なんていうキャッチコピーがCMで踊る。あのCMで誇張されてる着色した涙の色、やたら腹立つんだよな。そんなに汚くないよ!って。本当に悩んでいる人のことをバカにしている。
それに「いやいや、そんな薬の研究してる暇があったら花粉症が完治する薬を作ってよ!」などとツッコミを入れる人も多い。そんな現実だから「業界が金になる花粉症をわざと治せない病気にしているんだ」などと陰謀論を唱える人もいる。花粉症ビジネス、もといコナミダ色ビジネスは信用できない。
「卒業式は大丈夫だったの?」
つい数日前が卒業式だった。
「それはもう必死だったよ。コナミダを流してなるものか!って思いながら、必死で悲しいこと考えてた」
悲しみは青い涙だ。
「あはは! 卒業式でそんなこと考えてたの、ウケる」
「だって想像してみなよ、あいつ卒業式でも花粉症で泣いてたぜって、一生言われるんだからねっ」
「だっはっはっは!」
気づいたら私も笑っていた。ヤダこれ私の鉄板ネタになるかもしれない。
「ほらコレ! ちゃんと青い涙で写ってるでしょ」
私はスマホから卒業式の日の画像を出してアカリに見せた。私の目元は青みがかっている。
「ホントだ。これ、何を想像してたの?」
「……元カレにフラれた日のこと」
「ウソつけぃ! あんとき赤い涙出してただろ」
「だははっ」
そういえばあのときもアカリと反省会したんだった。今となってはこれも笑い話だなぁ。
「見てみて、隣のゆみちょ、これ緑じゃない?」
見ると仲良しグループのゆみちょは緑色の涙を流している。
「悲しい涙とコナミダが混ざっちゃってる! あぶない、私もこうなるところだった!」
「よく我慢した、えらい! あはは!」
笑いすぎて涙が出てきた。目元を拭うと白い涙だ。アカリといるときはいつも楽しかった。笑っている思い出しかない。アカリとくだらないおしゃべりができるのも、あと数日。
それまではずっと白い涙で笑っていよう。青い涙が隠せるように。
【あなたにとって小さな幸せってなんですか?】
街中でインタビューをやっていた。
「信号が全部青だったときかな」
30代男性。
「朝起きて前髪が調子良かったとき!」
20代女性。
「給食がカレーだったとき」
小学生男子。
「好きな人とメッセージのやりとりが続いたとき」
10代女性。
「娘が起きてる時間に家に帰れた日ですね」
30代男性。
「冷凍庫開けたらアイスが入ってたとき。同棲してる彼氏が買ってきてくれたのかもしれない」
20代女性。
「いらない服がフリマアプリで売れたとき」
40代女性。
「9時半に着いたのに整理券が一桁だったときっスね。え? あ、スロットですよ、ええへへへ」
40代男性。
「朝起きたときに腰の痛みが少し楽だった日かしら。この歳になるとね、どこも痛くない日なんてないのよ」
60代女性。
「無料ガチャでSSレアを引けたときですね。もう何十万も課金してるから、ホントは焼け石に水なんですけど」
20代男性。
「パパが早く帰ってきたとき!」
小学生女子。
「銀のエンゼルが出たとき」
30代女性。
「ラジオでリクエスト曲がかかったときね。え、ラジオわからない? 曲のリクエスト、かけてくれる番組あるのよ。わたし? 八代亜紀とか」
70代女性。
「好きな人が笑ってたとき」
20代男性。
「仕入れたお弁当がお昼のラッシュ終わりでちょうど完売したときっスね」
40代男性。
「子どもたちの喜んでる顔が見られたときですね」
40代女性。
「昨日アイスを買って帰ったんですけど、まだ食べてなくて。それが待ってると思うと一日幸せな気分です」
20代男性。
「フリマアプリで安く服が買えたときかなぁ」
30代男性。
「シークレットで売ってる缶バッジとかあるじゃないですか。ランダムで何が出るかわからないやつ。あれで一発で推しの缶バッジが出たとき。運命すら感じる」
30代女性。
「買い置きしてたヨーグルトがパッと見たとき賞味期限が今日だったとき。ギリギリセーフみたいな」
20代女性。
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誰かの小さな幸せが、あなたの小さな幸せと繋がっているかもしれません。