寒いのを理由に在宅ワークに逃げていた冬が終わる兆しを見せて、「たまには会社に出てこい」という課長からの命がくだった。まだ乱高下する陽気に不安を感じながらもコートを置いて家を出た。
思ったよりもぬくぬくとしていて、風も心地よいぐらい暖かかった。都会の数少ない緑が見られる道端の植え込みにも春の花が咲き始めている。
「へー、カナデちゃんにそんなイメージなかったわ」
お昼に久しぶりに行った会社の食堂で販売企画室のお姉様方と同じテーブルになった。
「自分でも不思議なんです。やっているうちに、次はもっと重いやつに挑戦しようとか思うようになって」
最近わたしが始めたスポーツジムの話題を話していた。
「わたしだったらそこまで行かないで挫折しそう」
ユキさんの言葉に、ミサさんが反応する。
「わかる〜。一回できなかったらもうやだーってなりそう」
お姉さん方は顔を見合わせて「ねー」と言った。
「わたしも最初はそうでした。でもあの、励ましてくれる人がいて」
ナオのことをどう説明していいか分からずにそこで言葉を切った。
「ああ、トレーナーさんみたいな人がいるのね。なんか本格的ね」
「あ、そう、そうです」
実際にトレーナーさんもいるから嘘ではない。とりあえずそういうことにしておいた。会社の人にそんな話をするぐらい、ジムでのトレーニングはわたしの楽しみになっていた。
でも今週は筋トレとは別の楽しみがある。
週末。お昼ごろに家を出たわたしは、いつも通っているジムと同じ駅で降りて、ジムとは逆方向に歩きだした。ジムに行く時のスポーツスタイルとは違って、上下明るい色でコーデしている。会社に行くために外に出るのとはまったく違う心持ちだ。途中で通りかかった公園では桜が咲き誇っている。
ジムで出会った筋トレの先輩ナオと友達になって、筋トレの前後でカフェや食事にもよく行くようになった。いつもの雑談の流れから「ナオの料理が食べたい」とわたしが言い出し、半ば強引にホームパーティの約束を取り付けた。ナオから送られてきた住所に着くと、そこは飾り気のないワンルームのアパートだった。
「いらっしゃい、本当になにもない部屋だけど、どうぞ」
ナオはそう言ってわたしを部屋に通してくれた。
「わー、ホントにシンプルなお部屋!」
わたしは思ったままにそう言っていた。友達の部屋に行った経験は多くないけど、30代の女性の一人暮らしってこんななのかなって思った。白い壁紙の部屋にウッド調の家具が並んでいる。生活に必要な家財道具一式の他には本棚があるぐらい。わたしの部屋は在宅で仕事をするためにしっかりしたキャスター付きの椅子のあるPCデスクがあるけど、机になるものは部屋の真ん中にあるローテーブルしかない。
「ごめんね、人を呼ぶ想定をしていない部屋だから。適当に座って」
そう言ってナオは作りかけの料理を仕上げに台所へ向かった。
「いいのいいの、来たいって言って勝手に押しかけたのわたしだから」
言いながらわたしは部屋に呼ぶことを渋っていたナオの表情を思い出していた。雰囲気に似合わずカワイイ部屋だから恥ずかしいのかと思っていた。でも本当は質素すぎる部屋だから見られたくなかったのか。ちょっと悪いことしちゃったかな。
「よしできた。いま料理運ぶからね」
すでに二人分の食器が用意されていたローテーブルに料理を盛り付けたお皿が並んでいく。ナオが作ってくれたのはアンチョビパスタと鶏肉のピカタ、そしてシーザーサラダだ。
「わーおいしそう! いただきまーす!」
ナオの料理は堅実な味がした。塩味が効いているけどさっぱりして甘くない。
「おいしい! ナオ料理上手だね」
「たいしたことないよ。いつも通りに作ったけど、人に食べさせたことないから。こんなんで良かったかな?」
「うん、なんていうか、女子会っぽくなくていい」
飾ってないし、食べたい人がいつも食べてる、いつでも食べられる味。
「それ褒めてる?」
「あはは、褒めてる褒めてる!」
それからまたいつものように二人の会話が始まった。大人になってから出会った友達とこんな風に話す日が来るなんて思ってなかった。毎週会うような友達がいなかったからかもしれない。でもナオはわたしにとって、親友のような存在になっていた。
「実はさ、この部屋の更新、もうすぐなんだけど……」
「え?」
ナオの部屋が地味すぎるっていう話をしていたときにナオが言い出した。
「新しい部屋、探そうと思ってるんだ。もうちょっと会社に近いところに」
「そうなんだ」
「でもそうするとさ。ジムからも遠くなっちゃうから、あのジムには行かなくなるかもしれない」
「あっ」
そういうことか。ジムなんて近所にあって便利だから入会するわけだし、わたしだって今のジムに通う理由は近いからだ。でも、じゃあ会えなくなるんだ。もともと筋トレ仲間という理由で仲良くなった関係だ。その前提がなくなれば会う理由もなくなっちゃう。
「そっか。住むところ決まったら教えてよ。せっかく仲良くなったんだし。またおしゃべりしようよ」
わたしは急に心が冷たくなっていくのを感じた。これまでより頻繁に会わなくなるだけなのに、一気に距離が遠くなるような気がしていた。
「うん。必ず伝える。まだ少し先だし、まだまだジムでも会えるからね」
ナオの声もどこか寂しそうだ。
「あ〜、ナオが来なくなったらジム通えないかも〜」
軽い調子で言ってみた。本当にそうなるかもしれない。
「大丈夫だって。もう一人で十分できてるじゃん」
こんな甘え方で引っ越す気持ちが変わるわけないか。もう一言「やだ」って言ったら、ナオは考え直すかな。
あれ、やだ……。いま自分が考えていることに自分で驚いた。わたしはいま、ナオを試したんだ。わたしが甘えたら心変わりするんじゃないか。わたしが反論したらわたしの方に向いてくれるんじゃないか。わたしのわがままでナオの人生を変えさせようとした。そう気づいたら、ナオに対する罪悪感が生まれてきて、心の中がそれでいっぱいになった。
「じゃあまたね。引っ越す前にもう一回ぐらいこの部屋来たいな〜」
パーティから帰る頃には、わたしの気持ちはどん底にあった。
「うん。そうだね。あ、でも今度はカナデの料理も食べたいな」
「え〜わたしの? わかった。考えとく! じゃ、またね!」
その約束だけ取り付けて、わたしはナオの部屋をあとにした。帰る途中にあの公園に寄ってみた。桜の他にも色とりどりのチューリップや賑やかなスイセンが咲いていた。わたしの気持ちを無視して、春は爛漫としていた。
朝の閑静な住宅街を猛然と走る中学生男子の姿があった。
「あーサイアクだ。遅刻する」
制服を着た少年はその上に【本日の主役】と書かれたタスキをかけ、頭には七色に輝く電飾付きの王冠を載せている。
「ねぇタカシ、ビックリした? 嬉しかった? サプライズ成功?」
少年の後ろから母親と父親と大学生の姉が追ってきている。
「そりゃ驚いたよ! まさか朝起きて部屋から出たらいきなりクラッカーが鳴り出すんだから」
「だって今日は、タカシの誕生日だからっ♪」
「いやサプライズって普通忙しい朝にやるかなぁ!」
「だってぇ、タカシに一日嬉しい気持ちで過ごしてほしいじゃない」
「いつも遅刻ギリギリで起きるんだから、言っといてくれないと!」
「バカねぇ、それじゃあサプライズにならないじゃないの。それよりパーティーの料理おいしかった?」
「朝からステーキとお寿司とケーキなんか食べられないよ! あとなんでついてくるの?」
「だってサプライズの感想聞きたいじゃない」
「じゃあ言うけど、このタスキと王冠、なんで家を出る直前に付けさせたの? 誕生日のノリをあんまり外に持ち出さない方が良くない?」
「学校のみんなにもタカシの誕生日をお祝いしてもらいたいでしょ?」
「むしろ罰ゲームでしょ! いじめられてると思われるよ」
「あとなんで今日お弁当なしなんだよ!」
「朝からパーティー料理作るので精一杯でそれどころじゃなかったのよ」
「中学生は昼飯が命なんだよ! 残り物でもいいから弁当箱に詰めてよ!」
「そんなこと言わないで、みんなタカシのことを思ってやったことなのよ」
「あー、もう学校に着くから! これ以上ついてこないでね!」
「はーい、それじゃあいってらっしゃ〜い♪」
腕時計を見るタカシ。
「よし、まだ遅刻じゃない、なんとか間に合った」
校門を通ったそのとき__
『タカシくん、誕生日おめでと〜!』
全校生徒からの祝福の言葉とクラッカーが大音量で鳴り響き、横断幕が広げられた。
「いやオレ愛されすぎぃ〜!!」
映画のワンシーンのように残っている記憶がある。それはある匂いと結び付いていたり、景色と結び付いていたりする。何度も思い出すけど、特に重要とも思えないものばかりだ。
道を歩いていて、春の匂いを感じたときは、幼い日に遊んだ公園のクルクル回るすべり台を思い出す。駅へ向かうバスに乗って三丁目の角を曲がったときに、自転車屋の看板が目に入ると、アニメの主題歌の映像が蘇ってくる。夕方に草木の湿ったような匂いを感じたときは、文化祭の準備をしていた日の他愛ない会話を思い出す。不意に冷たい金属の手すりに触れたときは、修学旅行で行った沖縄の国際通りで食べたブルーシールアイスの色が脳裏に鮮明に描き出される。
それぞれは記憶と関連する行動ではないのに、一度結び付いた記憶はその行動をするたびに表れる。自分にとってはどうでもいいような記憶。忘れてしまった大切な思い出は山ほどあるはずなのに。
「社長、コミックグリット様との打ち合わせ、明日の14時からでよろしいでしょうか?」
営業のカネコさんからアポイントの確認が入る。
「了解。グリットさんはもう、あちらの掲載作品をそのままウチのサービスに落とし込めるってところまで話進んでるんだよね?」
「はい。ウチのサイトに飛ばなくてもデータを直接入れれば刷れる状態にしたいとおっしゃっています」
「カミデ印刷」という名の印刷会社を開業して3年目になる。自作の小説や漫画などの読み物を書いている人に向けた同人誌の印刷サービスだ。創作物もアプリなどのデジタル空間で発表する時代だが、作った作品をモノで残したいと思う需要はむしろ高まっている。コミケや文学フリマに代表される即売会は活況を呈している。
私が始めたのは全ての工程がウェブ上で完結する印刷サービスだ。戦略的に一般の人が小説や漫画を投稿するサイトと積極的に業務提携を結んでいる。そこで投稿された作品データをそのまま紙媒体に印刷できるというオプション機能だ。20代の頃は職を転々としていた私だが、35歳を過ぎたところでこのビジネスに賭けようと思うに至った。
「じゃあサイトに載ったときのバナーのデザイン案をマツエさんに頼んどいて」
「はい。すでに依頼済みで3案いただいています」
カネコさんは印刷されたバナーの案を私に手渡した。手際がよくて仕事が早い。
「いいね、確認します」
席に着いてバナー案を眺める。2年目で事業は軌道に乗り始めた。会社の規模を広げるつもりはないが、社員は少数精鋭が揃っている。その分一人ひとりの負担は大きくなっている。
最近、自分がなんでこの仕事を始めたんだろうと考えることがある。なんで印刷じゃなければいけなかったのか。時代のニーズに合っていると思ったのは間違いない。個人の表現意欲の拡大と比例したデジタル化の進捗、それに反比例するように紙媒体は苦しんでる。それでも紙で作品を残したいという人の想いに賭けた。
問題はそれを自分がやる意味だ。ビジネスとして成功するビジョンは描けた。でもこれまでの人生を振り返ってもそこまで紙にこだわっていたわけではない。
改めてバナー案を見つめる。
「カミデスルーで簡単印刷!」
「カミデスルーなら電話も打ち合わせも全部スルー!」
「カミデスルーであなたの作品カタチにするぅ?」
それぞれコミックグリットのサイトイメージに沿った配色をしている。コピーも悪くない。でももうひとつ何かが欲しい。カネコさんとマツエさんに突き返すのは簡単だが、自分でピンと来ていないまま返すのは忍びない。
コーヒーでも飲みながら考えよう。
ドリップマシンの方へ行き、常備しているホットコーヒーをカップに入れる。いつもの香りが鼻に抜ける。その場でなんとなくオフィスを見回した。カネコさんがマツエさんのモニターを後ろからのぞきこみ、二人で真剣に話している。
その後ろを経理のサムラさんが通ったそのとき、カネコさんが振り向いた拍子にサムラさんとぶつかり、サムラさんが持っていた書類がフロアに散らばってしまった。
それを見た瞬間、コーヒーの香りとその光景が混ざり合い、まったく関連性のない、忘れていた過去の記憶が蘇ってきた。
それは中学生の頃の記憶だろうか。図書館で誰かと話をしている。普通の声量で話ができるということは司書の人だろうか。
「紙は残るんです。人が考えたこと、感じたことをいつまでも残すことができるんです。だから私は図書館で働いているんですよ」
中学生が仕事をする人にインタビューをするみたいな社会科の課題だろうか。私の中にはこの記憶が残っていたのか。もしかしたら人生の中で何度か思い出した記憶かもしれない。でも過去のどの時期に思い出しても、どうということはないつまらない思い出だったろう。しかし今ならわかる。この記憶を私が残していた意味が。
私はコーヒーを置いて話しかけた。
「カネコさん、マツエさん、さっきのバナーの件、ちょっといいかな」
二人は私を振り返って言った。
「この書類片付けるんでちょっと待ってください」
朝日を浴びて目が覚める。日の出が早くなったせいか、朝の温度が上がってきたせいか、目覚ましを待たずに起きられるようになってきた。
エアコンもなく快適な朝を迎えられるのは、あと何度経験できるだろう。またすぐにむせかえるほど暑い朝がくる。
そんなことを考えながら、まだ寝床でまどろんでいたら、
「おっはよー」
という姪っ子の声が響いてきた。
そうだ、昨日から兄夫婦が家に泊まりに来ているんだった。こんなに騒がしい朝は二度とない。
窓口に来た男と係の男がテーブル越しに睨み合っている。どちらもメガネをかけている。
「なあ、もう少し賃金を上げてもらえないか? それがダメなら税金をちょっとばかし減らしてくれよ」
労働者と見られる男はへりくだって申し入れをしている。低姿勢を装ってはいるが、内心の苛立ちを隠し切れていない。
「できません。税はみなさんを支えるために必要なものです」
まるまると肥え太った顔をした係の男は表情を変えずに答えた。
「その税金に俺たちが苦しめられてるって話だろうよ」
労働者はイライラを声に乗せて言った。
「いいえ、税はあなたたちを支えています」
係の男はキッパリと言った。
「へ、何も知らねぇでいいご身分だな。お前さんたちはあったかい部屋でぬくぬくと暮らしてるから、そのメガネが曇ってんだよ。メガネを取って凍えながら街路を歩く連中を見やがれってんだ。着る物もなく食うのもやっとで、生きてるだけで金を取られるんだ。税金だって? お前さんたちがふんだくる金だよ。庶民とあんたらの温度差が広がるほどそのメガネはますます曇っていくんだろうよ」
労働者は一気に捲し立てた。それでも係の男の表情は変わらない。
「おっしゃっていることはよくわかりました。ですがあなたたちこそ、我々国家のことを何もわかってらっしゃらない」
「なんだと?」
「庶民と国家の温度差は確かに大きい。ですがそれは国家の方が冷え切っていて、メガネが曇っているのはみなさんの方です」
「おい、おちょくるのもいい加減にしろよ!」
「いいえ、国家はいま極貧状態なのです。……国家には何百兆もの借金がある」
「開き直るんじゃねぇや!」