与太ガラス

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 映画のワンシーンのように残っている記憶がある。それはある匂いと結び付いていたり、景色と結び付いていたりする。何度も思い出すけど、特に重要とも思えないものばかりだ。

 道を歩いていて、春の匂いを感じたときは、幼い日に遊んだ公園のクルクル回るすべり台を思い出す。駅へ向かうバスに乗って三丁目の角を曲がったときに、自転車屋の看板が目に入ると、アニメの主題歌の映像が蘇ってくる。夕方に草木の湿ったような匂いを感じたときは、文化祭の準備をしていた日の他愛ない会話を思い出す。不意に冷たい金属の手すりに触れたときは、修学旅行で行った沖縄の国際通りで食べたブルーシールアイスの色が脳裏に鮮明に描き出される。

 それぞれは記憶と関連する行動ではないのに、一度結び付いた記憶はその行動をするたびに表れる。自分にとってはどうでもいいような記憶。忘れてしまった大切な思い出は山ほどあるはずなのに。

「社長、コミックグリット様との打ち合わせ、明日の14時からでよろしいでしょうか?」

 営業のカネコさんからアポイントの確認が入る。

「了解。グリットさんはもう、あちらの掲載作品をそのままウチのサービスに落とし込めるってところまで話進んでるんだよね?」

「はい。ウチのサイトに飛ばなくてもデータを直接入れれば刷れる状態にしたいとおっしゃっています」

 「カミデ印刷」という名の印刷会社を開業して3年目になる。自作の小説や漫画などの読み物を書いている人に向けた同人誌の印刷サービスだ。創作物もアプリなどのデジタル空間で発表する時代だが、作った作品をモノで残したいと思う需要はむしろ高まっている。コミケや文学フリマに代表される即売会は活況を呈している。

 私が始めたのは全ての工程がウェブ上で完結する印刷サービスだ。戦略的に一般の人が小説や漫画を投稿するサイトと積極的に業務提携を結んでいる。そこで投稿された作品データをそのまま紙媒体に印刷できるというオプション機能だ。20代の頃は職を転々としていた私だが、35歳を過ぎたところでこのビジネスに賭けようと思うに至った。

「じゃあサイトに載ったときのバナーのデザイン案をマツエさんに頼んどいて」

「はい。すでに依頼済みで3案いただいています」

 カネコさんは印刷されたバナーの案を私に手渡した。手際がよくて仕事が早い。

「いいね、確認します」

 席に着いてバナー案を眺める。2年目で事業は軌道に乗り始めた。会社の規模を広げるつもりはないが、社員は少数精鋭が揃っている。その分一人ひとりの負担は大きくなっている。

 最近、自分がなんでこの仕事を始めたんだろうと考えることがある。なんで印刷じゃなければいけなかったのか。時代のニーズに合っていると思ったのは間違いない。個人の表現意欲の拡大と比例したデジタル化の進捗、それに反比例するように紙媒体は苦しんでる。それでも紙で作品を残したいという人の想いに賭けた。

 問題はそれを自分がやる意味だ。ビジネスとして成功するビジョンは描けた。でもこれまでの人生を振り返ってもそこまで紙にこだわっていたわけではない。

 改めてバナー案を見つめる。

「カミデスルーで簡単印刷!」

「カミデスルーなら電話も打ち合わせも全部スルー!」

「カミデスルーであなたの作品カタチにするぅ?」

 それぞれコミックグリットのサイトイメージに沿った配色をしている。コピーも悪くない。でももうひとつ何かが欲しい。カネコさんとマツエさんに突き返すのは簡単だが、自分でピンと来ていないまま返すのは忍びない。

 コーヒーでも飲みながら考えよう。

 ドリップマシンの方へ行き、常備しているホットコーヒーをカップに入れる。いつもの香りが鼻に抜ける。その場でなんとなくオフィスを見回した。カネコさんがマツエさんのモニターを後ろからのぞきこみ、二人で真剣に話している。

 その後ろを経理のサムラさんが通ったそのとき、カネコさんが振り向いた拍子にサムラさんとぶつかり、サムラさんが持っていた書類がフロアに散らばってしまった。

 それを見た瞬間、コーヒーの香りとその光景が混ざり合い、まったく関連性のない、忘れていた過去の記憶が蘇ってきた。

 それは中学生の頃の記憶だろうか。図書館で誰かと話をしている。普通の声量で話ができるということは司書の人だろうか。

「紙は残るんです。人が考えたこと、感じたことをいつまでも残すことができるんです。だから私は図書館で働いているんですよ」

 中学生が仕事をする人にインタビューをするみたいな社会科の課題だろうか。私の中にはこの記憶が残っていたのか。もしかしたら人生の中で何度か思い出した記憶かもしれない。でも過去のどの時期に思い出しても、どうということはないつまらない思い出だったろう。しかし今ならわかる。この記憶を私が残していた意味が。

 私はコーヒーを置いて話しかけた。

「カネコさん、マツエさん、さっきのバナーの件、ちょっといいかな」

 二人は私を振り返って言った。

「この書類片付けるんでちょっと待ってください」

3/26/2025, 2:22:47 AM