風の強い日だった。
「まっずいなぁ」
おじさんが言った。わたしは「どうしたんですか?」と聞いてみた。
「春の風は、厄介なヤツを引ぎ寄せるからなぁ」
「ああ、花粉ですか?」
「いんや、そんな生易しいもんじゃねえ。ヤツは目には見えねぇんだ」
花粉も目に見えないだろ、と思ったがもっと小さいなら
「黄砂とかPM2.5とかですかね」
「そんなもんだねぇ。そいづはな、春風とともにやってくる怪物だ」
怪物? 目に見えない怪物?
「ウチらの間では、そいづはLOVEと呼ばれでいる。そいづに取り憑かれると内側から蝕まれでいぐ。そいづは人の心では抗いがたい、ある種の衝動を与えるわげだ。」
抗いがたい……失礼だがこの人の口から自然と出る言葉ではないような、どこかの文献か他人から聞いた言葉を口にしているような気がした。
「気ぃ付けろ。そいづは太陽の季節を過ぎるど、いつの間にか居なぐなる。それがお前さんに悲劇ばもたらすぞ」
最後の言葉を言い終わると、一陣の風がおじさんの影をさらっていった。
「くしゅん!」
不意に出てしまったくしゃみの直後に、私はとっさに目を覆った。指の腹にじんわりと涙が溜まる。私は片方の手でバッグの中をまさぐりティッシュを取り出した。
「あれ、ミサキって花粉症だっけ」
ミスドで一緒にお茶してたアカリが私の仕草に気づいた。口の中でポンデリングが踊っている。
「んーぞぅ」
しゃべったら鼻水もヤバそうだと感じて、ティッシュをもう一枚出して鼻に押し付けた。
せっかくの春休みなのに、外出が憂鬱で仕方がない。この時期にくしゃみをすると途端に目の前が黄色くなるからだ。黄色い涙はアレルギーの証。もうサイアク。
「あ〜、目元がコナミダ色になってる〜」
アカリがからかってきた。
「やめてよ〜、もうヤダヤダ、この時期ホント人と会いたくない!」
花粉症によって溢れてくる黄色い涙のことを「粉涙(コナミダ)」と言うようになったのはいつからなんだろう。名称がかわいくなったからって、症状は少しも軽減されないし、黄色い涙がダサいのは同じだ。むしろイジられているようでムカつく。しかし「コナミダ」という言葉は、いつしかアレルギーで出る涙を総称して使われるようになった。
「そんな状態なのにわたしと会ってくれるミサキは天使だよ」
「なに言ってるの。親友との残り少ないイチャイチャできる時間なんだから。なにを投げ打ってでも来るって」
アカリは関西の大学に進学する。もう今までのように毎日おしゃべりすることはできない。残りの時間は全力で遊ぼうと決めていた。
「薬飲んでるの?」
アカリは心配して聞いてくれている。
「うん。花粉症の薬は飲んでる。でもあの怪しい薬は意地でも飲まない」
最近では涙を透明にする薬が販売されている。【黄色い涙にお困りの方に!】【コナミダ色とはもうおさらば!】なんていうキャッチコピーがCMで踊る。あのCMで誇張されてる着色した涙の色、やたら腹立つんだよな。そんなに汚くないよ!って。本当に悩んでいる人のことをバカにしている。
それに「いやいや、そんな薬の研究してる暇があったら花粉症が完治する薬を作ってよ!」などとツッコミを入れる人も多い。そんな現実だから「業界が金になる花粉症をわざと治せない病気にしているんだ」などと陰謀論を唱える人もいる。花粉症ビジネス、もといコナミダ色ビジネスは信用できない。
「卒業式は大丈夫だったの?」
つい数日前が卒業式だった。
「それはもう必死だったよ。コナミダを流してなるものか!って思いながら、必死で悲しいこと考えてた」
悲しみは青い涙だ。
「あはは! 卒業式でそんなこと考えてたの、ウケる」
「だって想像してみなよ、あいつ卒業式でも花粉症で泣いてたぜって、一生言われるんだからねっ」
「だっはっはっは!」
気づいたら私も笑っていた。ヤダこれ私の鉄板ネタになるかもしれない。
「ほらコレ! ちゃんと青い涙で写ってるでしょ」
私はスマホから卒業式の日の画像を出してアカリに見せた。私の目元は青みがかっている。
「ホントだ。これ、何を想像してたの?」
「……元カレにフラれた日のこと」
「ウソつけぃ! あんとき赤い涙出してただろ」
「だははっ」
そういえばあのときもアカリと反省会したんだった。今となってはこれも笑い話だなぁ。
「見てみて、隣のゆみちょ、これ緑じゃない?」
見ると仲良しグループのゆみちょは緑色の涙を流している。
「悲しい涙とコナミダが混ざっちゃってる! あぶない、私もこうなるところだった!」
「よく我慢した、えらい! あはは!」
笑いすぎて涙が出てきた。目元を拭うと白い涙だ。アカリといるときはいつも楽しかった。笑っている思い出しかない。アカリとくだらないおしゃべりができるのも、あと数日。
それまではずっと白い涙で笑っていよう。青い涙が隠せるように。
【あなたにとって小さな幸せってなんですか?】
街中でインタビューをやっていた。
「信号が全部青だったときかな」
30代男性。
「朝起きて前髪が調子良かったとき!」
20代女性。
「給食がカレーだったとき」
小学生男子。
「好きな人とメッセージのやりとりが続いたとき」
10代女性。
「娘が起きてる時間に家に帰れた日ですね」
30代男性。
「冷凍庫開けたらアイスが入ってたとき。同棲してる彼氏が買ってきてくれたのかもしれない」
20代女性。
「いらない服がフリマアプリで売れたとき」
40代女性。
「9時半に着いたのに整理券が一桁だったときっスね。え? あ、スロットですよ、ええへへへ」
40代男性。
「朝起きたときに腰の痛みが少し楽だった日かしら。この歳になるとね、どこも痛くない日なんてないのよ」
60代女性。
「無料ガチャでSSレアを引けたときですね。もう何十万も課金してるから、ホントは焼け石に水なんですけど」
20代男性。
「パパが早く帰ってきたとき!」
小学生女子。
「銀のエンゼルが出たとき」
30代女性。
「ラジオでリクエスト曲がかかったときね。え、ラジオわからない? 曲のリクエスト、かけてくれる番組あるのよ。わたし? 八代亜紀とか」
70代女性。
「好きな人が笑ってたとき」
20代男性。
「仕入れたお弁当がお昼のラッシュ終わりでちょうど完売したときっスね」
40代男性。
「子どもたちの喜んでる顔が見られたときですね」
40代女性。
「昨日アイスを買って帰ったんですけど、まだ食べてなくて。それが待ってると思うと一日幸せな気分です」
20代男性。
「フリマアプリで安く服が買えたときかなぁ」
30代男性。
「シークレットで売ってる缶バッジとかあるじゃないですか。ランダムで何が出るかわからないやつ。あれで一発で推しの缶バッジが出たとき。運命すら感じる」
30代女性。
「買い置きしてたヨーグルトがパッと見たとき賞味期限が今日だったとき。ギリギリセーフみたいな」
20代女性。
・・・・・・
誰かの小さな幸せが、あなたの小さな幸せと繋がっているかもしれません。
寒いのを理由に在宅ワークに逃げていた冬が終わる兆しを見せて、「たまには会社に出てこい」という課長からの命がくだった。まだ乱高下する陽気に不安を感じながらもコートを置いて家を出た。
思ったよりもぬくぬくとしていて、風も心地よいぐらい暖かかった。都会の数少ない緑が見られる道端の植え込みにも春の花が咲き始めている。
「へー、カナデちゃんにそんなイメージなかったわ」
お昼に久しぶりに行った会社の食堂で販売企画室のお姉様方と同じテーブルになった。
「自分でも不思議なんです。やっているうちに、次はもっと重いやつに挑戦しようとか思うようになって」
最近わたしが始めたスポーツジムの話題を話していた。
「わたしだったらそこまで行かないで挫折しそう」
ユキさんの言葉に、ミサさんが反応する。
「わかる〜。一回できなかったらもうやだーってなりそう」
お姉さん方は顔を見合わせて「ねー」と言った。
「わたしも最初はそうでした。でもあの、励ましてくれる人がいて」
ナオのことをどう説明していいか分からずにそこで言葉を切った。
「ああ、トレーナーさんみたいな人がいるのね。なんか本格的ね」
「あ、そう、そうです」
実際にトレーナーさんもいるから嘘ではない。とりあえずそういうことにしておいた。会社の人にそんな話をするぐらい、ジムでのトレーニングはわたしの楽しみになっていた。
でも今週は筋トレとは別の楽しみがある。
週末。お昼ごろに家を出たわたしは、いつも通っているジムと同じ駅で降りて、ジムとは逆方向に歩きだした。ジムに行く時のスポーツスタイルとは違って、上下明るい色でコーデしている。会社に行くために外に出るのとはまったく違う心持ちだ。途中で通りかかった公園では桜が咲き誇っている。
ジムで出会った筋トレの先輩ナオと友達になって、筋トレの前後でカフェや食事にもよく行くようになった。いつもの雑談の流れから「ナオの料理が食べたい」とわたしが言い出し、半ば強引にホームパーティの約束を取り付けた。ナオから送られてきた住所に着くと、そこは飾り気のないワンルームのアパートだった。
「いらっしゃい、本当になにもない部屋だけど、どうぞ」
ナオはそう言ってわたしを部屋に通してくれた。
「わー、ホントにシンプルなお部屋!」
わたしは思ったままにそう言っていた。友達の部屋に行った経験は多くないけど、30代の女性の一人暮らしってこんななのかなって思った。白い壁紙の部屋にウッド調の家具が並んでいる。生活に必要な家財道具一式の他には本棚があるぐらい。わたしの部屋は在宅で仕事をするためにしっかりしたキャスター付きの椅子のあるPCデスクがあるけど、机になるものは部屋の真ん中にあるローテーブルしかない。
「ごめんね、人を呼ぶ想定をしていない部屋だから。適当に座って」
そう言ってナオは作りかけの料理を仕上げに台所へ向かった。
「いいのいいの、来たいって言って勝手に押しかけたのわたしだから」
言いながらわたしは部屋に呼ぶことを渋っていたナオの表情を思い出していた。雰囲気に似合わずカワイイ部屋だから恥ずかしいのかと思っていた。でも本当は質素すぎる部屋だから見られたくなかったのか。ちょっと悪いことしちゃったかな。
「よしできた。いま料理運ぶからね」
すでに二人分の食器が用意されていたローテーブルに料理を盛り付けたお皿が並んでいく。ナオが作ってくれたのはアンチョビパスタと鶏肉のピカタ、そしてシーザーサラダだ。
「わーおいしそう! いただきまーす!」
ナオの料理は堅実な味がした。塩味が効いているけどさっぱりして甘くない。
「おいしい! ナオ料理上手だね」
「たいしたことないよ。いつも通りに作ったけど、人に食べさせたことないから。こんなんで良かったかな?」
「うん、なんていうか、女子会っぽくなくていい」
飾ってないし、食べたい人がいつも食べてる、いつでも食べられる味。
「それ褒めてる?」
「あはは、褒めてる褒めてる!」
それからまたいつものように二人の会話が始まった。大人になってから出会った友達とこんな風に話す日が来るなんて思ってなかった。毎週会うような友達がいなかったからかもしれない。でもナオはわたしにとって、親友のような存在になっていた。
「実はさ、この部屋の更新、もうすぐなんだけど……」
「え?」
ナオの部屋が地味すぎるっていう話をしていたときにナオが言い出した。
「新しい部屋、探そうと思ってるんだ。もうちょっと会社に近いところに」
「そうなんだ」
「でもそうするとさ。ジムからも遠くなっちゃうから、あのジムには行かなくなるかもしれない」
「あっ」
そういうことか。ジムなんて近所にあって便利だから入会するわけだし、わたしだって今のジムに通う理由は近いからだ。でも、じゃあ会えなくなるんだ。もともと筋トレ仲間という理由で仲良くなった関係だ。その前提がなくなれば会う理由もなくなっちゃう。
「そっか。住むところ決まったら教えてよ。せっかく仲良くなったんだし。またおしゃべりしようよ」
わたしは急に心が冷たくなっていくのを感じた。これまでより頻繁に会わなくなるだけなのに、一気に距離が遠くなるような気がしていた。
「うん。必ず伝える。まだ少し先だし、まだまだジムでも会えるからね」
ナオの声もどこか寂しそうだ。
「あ〜、ナオが来なくなったらジム通えないかも〜」
軽い調子で言ってみた。本当にそうなるかもしれない。
「大丈夫だって。もう一人で十分できてるじゃん」
こんな甘え方で引っ越す気持ちが変わるわけないか。もう一言「やだ」って言ったら、ナオは考え直すかな。
あれ、やだ……。いま自分が考えていることに自分で驚いた。わたしはいま、ナオを試したんだ。わたしが甘えたら心変わりするんじゃないか。わたしが反論したらわたしの方に向いてくれるんじゃないか。わたしのわがままでナオの人生を変えさせようとした。そう気づいたら、ナオに対する罪悪感が生まれてきて、心の中がそれでいっぱいになった。
「じゃあまたね。引っ越す前にもう一回ぐらいこの部屋来たいな〜」
パーティから帰る頃には、わたしの気持ちはどん底にあった。
「うん。そうだね。あ、でも今度はカナデの料理も食べたいな」
「え〜わたしの? わかった。考えとく! じゃ、またね!」
その約束だけ取り付けて、わたしはナオの部屋をあとにした。帰る途中にあの公園に寄ってみた。桜の他にも色とりどりのチューリップや賑やかなスイセンが咲いていた。わたしの気持ちを無視して、春は爛漫としていた。
朝の閑静な住宅街を猛然と走る中学生男子の姿があった。
「あーサイアクだ。遅刻する」
制服を着た少年はその上に【本日の主役】と書かれたタスキをかけ、頭には七色に輝く電飾付きの王冠を載せている。
「ねぇタカシ、ビックリした? 嬉しかった? サプライズ成功?」
少年の後ろから母親と父親と大学生の姉が追ってきている。
「そりゃ驚いたよ! まさか朝起きて部屋から出たらいきなりクラッカーが鳴り出すんだから」
「だって今日は、タカシの誕生日だからっ♪」
「いやサプライズって普通忙しい朝にやるかなぁ!」
「だってぇ、タカシに一日嬉しい気持ちで過ごしてほしいじゃない」
「いつも遅刻ギリギリで起きるんだから、言っといてくれないと!」
「バカねぇ、それじゃあサプライズにならないじゃないの。それよりパーティーの料理おいしかった?」
「朝からステーキとお寿司とケーキなんか食べられないよ! あとなんでついてくるの?」
「だってサプライズの感想聞きたいじゃない」
「じゃあ言うけど、このタスキと王冠、なんで家を出る直前に付けさせたの? 誕生日のノリをあんまり外に持ち出さない方が良くない?」
「学校のみんなにもタカシの誕生日をお祝いしてもらいたいでしょ?」
「むしろ罰ゲームでしょ! いじめられてると思われるよ」
「あとなんで今日お弁当なしなんだよ!」
「朝からパーティー料理作るので精一杯でそれどころじゃなかったのよ」
「中学生は昼飯が命なんだよ! 残り物でもいいから弁当箱に詰めてよ!」
「そんなこと言わないで、みんなタカシのことを思ってやったことなのよ」
「あー、もう学校に着くから! これ以上ついてこないでね!」
「はーい、それじゃあいってらっしゃ〜い♪」
腕時計を見るタカシ。
「よし、まだ遅刻じゃない、なんとか間に合った」
校門を通ったそのとき__
『タカシくん、誕生日おめでと〜!』
全校生徒からの祝福の言葉とクラッカーが大音量で鳴り響き、横断幕が広げられた。
「いやオレ愛されすぎぃ〜!!」