与太ガラス

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3/26/2025, 2:22:47 AM

 映画のワンシーンのように残っている記憶がある。それはある匂いと結び付いていたり、景色と結び付いていたりする。何度も思い出すけど、特に重要とも思えないものばかりだ。

 道を歩いていて、春の匂いを感じたときは、幼い日に遊んだ公園のクルクル回るすべり台を思い出す。駅へ向かうバスに乗って三丁目の角を曲がったときに、自転車屋の看板が目に入ると、アニメの主題歌の映像が蘇ってくる。夕方に草木の湿ったような匂いを感じたときは、文化祭の準備をしていた日の他愛ない会話を思い出す。不意に冷たい金属の手すりに触れたときは、修学旅行で行った沖縄の国際通りで食べたブルーシールアイスの色が脳裏に鮮明に描き出される。

 それぞれは記憶と関連する行動ではないのに、一度結び付いた記憶はその行動をするたびに表れる。自分にとってはどうでもいいような記憶。忘れてしまった大切な思い出は山ほどあるはずなのに。

「社長、コミックグリット様との打ち合わせ、明日の14時からでよろしいでしょうか?」

 営業のカネコさんからアポイントの確認が入る。

「了解。グリットさんはもう、あちらの掲載作品をそのままウチのサービスに落とし込めるってところまで話進んでるんだよね?」

「はい。ウチのサイトに飛ばなくてもデータを直接入れれば刷れる状態にしたいとおっしゃっています」

 「カミデ印刷」という名の印刷会社を開業して3年目になる。自作の小説や漫画などの読み物を書いている人に向けた同人誌の印刷サービスだ。創作物もアプリなどのデジタル空間で発表する時代だが、作った作品をモノで残したいと思う需要はむしろ高まっている。コミケや文学フリマに代表される即売会は活況を呈している。

 私が始めたのは全ての工程がウェブ上で完結する印刷サービスだ。戦略的に一般の人が小説や漫画を投稿するサイトと積極的に業務提携を結んでいる。そこで投稿された作品データをそのまま紙媒体に印刷できるというオプション機能だ。20代の頃は職を転々としていた私だが、35歳を過ぎたところでこのビジネスに賭けようと思うに至った。

「じゃあサイトに載ったときのバナーのデザイン案をマツエさんに頼んどいて」

「はい。すでに依頼済みで3案いただいています」

 カネコさんは印刷されたバナーの案を私に手渡した。手際がよくて仕事が早い。

「いいね、確認します」

 席に着いてバナー案を眺める。2年目で事業は軌道に乗り始めた。会社の規模を広げるつもりはないが、社員は少数精鋭が揃っている。その分一人ひとりの負担は大きくなっている。

 最近、自分がなんでこの仕事を始めたんだろうと考えることがある。なんで印刷じゃなければいけなかったのか。時代のニーズに合っていると思ったのは間違いない。個人の表現意欲の拡大と比例したデジタル化の進捗、それに反比例するように紙媒体は苦しんでる。それでも紙で作品を残したいという人の想いに賭けた。

 問題はそれを自分がやる意味だ。ビジネスとして成功するビジョンは描けた。でもこれまでの人生を振り返ってもそこまで紙にこだわっていたわけではない。

 改めてバナー案を見つめる。

「カミデスルーで簡単印刷!」

「カミデスルーなら電話も打ち合わせも全部スルー!」

「カミデスルーであなたの作品カタチにするぅ?」

 それぞれコミックグリットのサイトイメージに沿った配色をしている。コピーも悪くない。でももうひとつ何かが欲しい。カネコさんとマツエさんに突き返すのは簡単だが、自分でピンと来ていないまま返すのは忍びない。

 コーヒーでも飲みながら考えよう。

 ドリップマシンの方へ行き、常備しているホットコーヒーをカップに入れる。いつもの香りが鼻に抜ける。その場でなんとなくオフィスを見回した。カネコさんがマツエさんのモニターを後ろからのぞきこみ、二人で真剣に話している。

 その後ろを経理のサムラさんが通ったそのとき、カネコさんが振り向いた拍子にサムラさんとぶつかり、サムラさんが持っていた書類がフロアに散らばってしまった。

 それを見た瞬間、コーヒーの香りとその光景が混ざり合い、まったく関連性のない、忘れていた過去の記憶が蘇ってきた。

 それは中学生の頃の記憶だろうか。図書館で誰かと話をしている。普通の声量で話ができるということは司書の人だろうか。

「紙は残るんです。人が考えたこと、感じたことをいつまでも残すことができるんです。だから私は図書館で働いているんですよ」

 中学生が仕事をする人にインタビューをするみたいな社会科の課題だろうか。私の中にはこの記憶が残っていたのか。もしかしたら人生の中で何度か思い出した記憶かもしれない。でも過去のどの時期に思い出しても、どうということはないつまらない思い出だったろう。しかし今ならわかる。この記憶を私が残していた意味が。

 私はコーヒーを置いて話しかけた。

「カネコさん、マツエさん、さっきのバナーの件、ちょっといいかな」

 二人は私を振り返って言った。

「この書類片付けるんでちょっと待ってください」

3/25/2025, 12:28:42 AM

 朝日を浴びて目が覚める。日の出が早くなったせいか、朝の温度が上がってきたせいか、目覚ましを待たずに起きられるようになってきた。

 エアコンもなく快適な朝を迎えられるのは、あと何度経験できるだろう。またすぐにむせかえるほど暑い朝がくる。

 そんなことを考えながら、まだ寝床でまどろんでいたら、

「おっはよー」

 という姪っ子の声が響いてきた。

 そうだ、昨日から兄夫婦が家に泊まりに来ているんだった。こんなに騒がしい朝は二度とない。

3/23/2025, 11:52:15 PM

 窓口に来た男と係の男がテーブル越しに睨み合っている。どちらもメガネをかけている。

「なあ、もう少し賃金を上げてもらえないか? それがダメなら税金をちょっとばかし減らしてくれよ」

 労働者と見られる男はへりくだって申し入れをしている。低姿勢を装ってはいるが、内心の苛立ちを隠し切れていない。

「できません。税はみなさんを支えるために必要なものです」

 まるまると肥え太った顔をした係の男は表情を変えずに答えた。

「その税金に俺たちが苦しめられてるって話だろうよ」

 労働者はイライラを声に乗せて言った。

「いいえ、税はあなたたちを支えています」

 係の男はキッパリと言った。

「へ、何も知らねぇでいいご身分だな。お前さんたちはあったかい部屋でぬくぬくと暮らしてるから、そのメガネが曇ってんだよ。メガネを取って凍えながら街路を歩く連中を見やがれってんだ。着る物もなく食うのもやっとで、生きてるだけで金を取られるんだ。税金だって? お前さんたちがふんだくる金だよ。庶民とあんたらの温度差が広がるほどそのメガネはますます曇っていくんだろうよ」

 労働者は一気に捲し立てた。それでも係の男の表情は変わらない。

「おっしゃっていることはよくわかりました。ですがあなたたちこそ、我々国家のことを何もわかってらっしゃらない」

「なんだと?」

「庶民と国家の温度差は確かに大きい。ですがそれは国家の方が冷え切っていて、メガネが曇っているのはみなさんの方です」

「おい、おちょくるのもいい加減にしろよ!」

「いいえ、国家はいま極貧状態なのです。……国家には何百兆もの借金がある」

「開き直るんじゃねぇや!」

3/23/2025, 1:00:10 AM

 前日投稿した『鏡ヶ池』のエピローグとして__


 僕は入水せずに鏡ヶ池のある山奥から戻ることにしたが、そもそも泊まるところもない。死ぬつもりだったから寝袋も用意していないのだ。このままでは何もない山中で夜を明かさなければならない。

 そんな僕の不安をよそに、ゅぃなさんは先頭を切って山を下っていく。そして開けた通りに出たかと思うと、少し歩いたところに建物が見えてきた。そしてゅぃなさんは「月の里」と書かれた旅館の前で立ち止まった。

「もしかして」

「うん、今日泊まる宿だよ」

 そうだった。ゅぃなさんはもともと死ぬつもりなんかなかったんだ。

「ユウタくんの部屋も取ってあるからね」

 なんて手際がいいんだ。もしかして全てを予期していたのだろうか。

「あ、もしかして同部屋、期待してた?」

「そ、そんなわけないじゃないですか!」

 ゅぃなさんは「あはは」と笑って旅館に入って行った。食事と入浴を済ませると、二人は僕の部屋に集まった。ギャルメイクを取ったゅぃなさんの顔をその時初めて見た。

「アミノユウタくん……だよね」

「え、なんで?」

 なんでバレた? 僕は自分の持ち物を見返して、どこかにフルネームが書かれていないかを確認しようとした。

「私のこと覚えてないかな」

 もともと知り合いだった? そういう詐欺? お前の素性はわかっている、今回の事を秘密にしたければこの口座に現金を……

「同じクラスだったイサヤマユイナ」

 同じクラス。どの学校とか何年のとか、そういう前置きなしで言うということは、この人は知っているんだ。この人は、僕がクラスからいなくなった年の同級生だ。

「中2の時のクラスメイトか」

 イサヤマユイナの目が期待を込める。

「え、じゃあ」

「ごめん、覚えてない」

 ごめんと言いながら、覚えているわけないじゃないかと言いたかった。僕は2年生に上がってすぐにいじめの標的になった。それからたった2週間で不登校になったんだ。クラスメイトの顔なんて覚えてるわけないし、忘れよう忘れようと思いながら今日まで生きてきたんだから。それでも僕をいじめた奴の顔だけは、毎日思い出すんだから。

「そっか」

 ユイナは少し声を落として言った。

「あたし、ユウタくんの後ろの席だったんだよね。だから、いなくなった後も、空いてる机を毎日見てた。だから、ずっと考えてたんだ」

 僕はユイナの顔を見た。素顔で話すユイナは真剣な顔をしていた。

「いじめてたヤツがどうとか、ユウタくんがどうなっちゃったんだろうとか、そういうのを考えるっていうよりも、あたしは何を考えればいいんだろうってずっと思ってた」

「僕が投稿したSNSのアカウント、僕だって知ってたの?」

「覚えてないんだよね」

 ユイナは少し寂しそうに言った。

「ユウタくんがカバンに付けてた狼のキーホルダー、後ろの席のあたしに自慢してくれたんだよ。『こいつは僕の分身で漆黒のウェアウルフって言うんだ』って」

 僕は急に恥ずかしくなった。そんなことを自慢げに話していた自分にも、いまだにそのハンドルネームでSNSをやっていることにも。

「あのアカウントを見つけて、ユウタくんだったらいいなと思いながらずっと見てた。もちろん投稿なんてほとんどないから、毎日意識してたわけじゃないよ」

「それで、あの投稿を見つけた……?」

「そう。あれを見たとき、あたし心臓がギューって締め付けられたの。それで思ったの。あたしはこの日のためにずっと考えてたんだって」

「じゃあ、最初から僕を止めるために?」

「んー、もちろん止められたらいいとは思ってたけど、ユウタくんが本当に覚悟してるんなら見届けようとは思ってたよ」

 なんでこの人は、こんなにも僕のことを尊重してくれるんだろう。

「『じゅすい』の意味もわかってたんだ」

「あはは、もちろん。でもギャルって『おバカ』演じるの簡単でいいね」

 僕はこの日はじめて涙を流した。中2の時から何年も流していなかった涙だった。

 翌日、僕たちはまた一日かけて家路をたどった。僕は戻るためのお金を持っていなかったので、ユイナから借りなければならなかった。そういえば宿泊費も払ってもらっている。新幹線に乗る駅で僕たちは別れることになった。

「あの、お金は必ず返します」

「じゃあその時までは絶対生きててよ」

「はい。必ず」

 二人で顔を見合わせて笑った。

「今度はちゃんと観光で、鏡ヶ池に行こうね」

「そうですね。一人じゃ絶対行かないですけど」

「うん、一人で行くには遠すぎる」

「では、また」

「バイバイ、またね」

 そうして二人は手を振り合って別れた。

3/22/2025, 3:30:07 AM

 鏡ヶ池で満月の夜に入水すると、鏡の世界で生まれ変われる__

 SNSで自死について調べていると、こんな投稿に何度も出くわした。どうせ都市伝説の類だろうと思ったが、最期ぐらいはロマンチックに死にたいと思った。もしも伝説の通りなら鏡の世界は全てが逆さまの世界。

 夢も希望もないこの世界で生き続けるくらいなら、死んでもともと、鏡の世界にたどり着けば醜い人の心も逆さまになるんだろう。

 面白そうだな。

 そう思っている自分に驚いた。もう何年も「面白い」なんていう感情になったことがない。僕はこの腐った人生に飽き飽きしていた。中学生の頃にいじめられて学校に行けなくなった。そんな僕に両親は失望したのか、励ましも叱責もせずに感情のない目を向けた。部屋にこもる僕に食事だけを与えてくる。

 生きていてもしょうがない。だけど一人で死ぬのは怖かった。僕は一緒に死んでくれる人を探した。鏡ヶ池の情報を貼り付けて、その上に「一緒に入水してくれる人、DMください」とだけ書いてSNSに投稿した。

 しばらくするとDMが入った。メッセージを開くと「鏡ヶ池、ご一緒させてください」と書かれていた。


 鏡ヶ池には新幹線と在来線を乗り継いで、さらにバスで一時間行った先にある。最期の旅とはいえ、新幹線に乗れるのは嬉しかった。今朝家を出るときも、母は僕を見て何も言わなかった。どこに行くのとも、何をするのとも、いってらっしゃいとも。久しぶりに履いた靴はだいぶキツかったけど、どうせ今日しか履かないんだから我慢できる。

 新幹線を降りたところで同行者と落ち合うことになっていた。SNSのハンドルネームは「ゅぃな」。名前だけ見ると女性だろうか。

「え、やば! マ!?」

 遠くから僕を指さして大声で近寄ってくる人がいた。

「暗っ! 地味っ! しぶっ! もしかして『漆黒のウェアウルフ』くん?」

 僕をハンドルネームで呼んだのは、金髪ギャルメイクのJKだった。


 在来線に乗り込んだ僕たちは、列車に揺られながらお互いに最期の時間を自分と向き合って過ごすのだと思っていた。

「今日誘ってくれてありがとねー」

 ゅぃなさんは持参したポッキーをかじりながら話し始めた。僕は会ってからずっと考えていた。何か行き違いがあるんじゃないかと。ゅぃなさんは……、服装も、メイクも、しゃべり方も、どこを切り取ってもこの人は、自殺志願者ではない。

「あの、ゅぃなさん、その、な、なんで、なんで僕に」

 人としゃべるのが数年ぶりで、言葉が出てこない。
 
「え、てか『漆黒のウェアウルフ』くんって今いくつ?」

 この人は構わず自分の言いたいことをしゃべってくる。

「あ、あの、ユウタです」

「え?」

「本名、ユウタです」

 人生最期の日にこんな厨二すぎるハンドルネームで呼ばれるのはつらい。

「えでもぉ」

「ユウタって呼んでください。……お願いします」

「あそう? じゃあユウタくんは何歳なの?」

「18歳です」

「え、マ? タメじゃん! ウチらタメじゃん! えこれ奇跡じゃない? え一緒に自撮り撮ろ、ね、ね!」

 わ、ノリがギャルすぎる、絶対今日死ぬ人じゃない。

「ちょ、ちょっとすいません、ちょっと一回待ってください」

 僕はインカメを起動してポーズを取り始めるゅぃなさんを制して言った。

「え、ユウタくん顔出しNGだった? ごめんごめん」

 コンプラ意識はちゃんとあるみたいで良かった。じゃなくて。

「あの、ゅぃなさんは、今日、これから何をするか、わかってここに来てますか?」

 言葉を区切ってなんとか意味の通る文章をしゃべれた。

「え、ユウタくんが誘ったんじゃん。ちょっとギャルバカにしてる? あーし漢字ぐらい読めるよ。鏡ヶ池でしょ?」

「いや、そこじゃなくて」

「え、ちょま、『にゅうすい』? え、やだ『にゅうすい』ってなんかの隠語だったりする? やだもし……、ヤリモク!? ユウタくん、え、ヤダよ! あーしヤリモクじゃないよ!」

 ゅぃなさんは自分のバッグを身体の前に持ってきて身を守る体勢になった。いろいろ勝手に勘違いしている。

「違います、まずヤリモクじゃないですし、『にゅうすい』も間違いです」

 このまま一緒に行かせてはいけないと思った僕は、ゅぃなさんに全てを説明した。自分が自殺仲間を探していたこと、「入水」と書いて「じゅすい」と読むこと、あの投稿は鏡ヶ池で一緒に入水自殺をしてくれる仲間を募集していたということ。

「え〜、あーしただのタビトモ掲示板かと思ってたわぁ。旅の道連れ的な?」

 捉えようによっては意味はあってるけど。

「ゅぃなさんがフッ軽すぎるんですよ」

「えでもじゃあ、ユウタくん今日死ぬってこと?」

 その感じで聞くのか。でも絶対止められるよな。

「はい、そうです」

 止められても意志は曲げない。

「そっかぁ、じゃあ帰り一人かぁ」

「え?」

「や、ユウタくんがいなくなっちゃったら帰りあーしぼっちだなぁって。さすがに長くない?」

「あ、その」

「やーユウタくんが一人じゃ行けないって思ったのもわかるなぁって。鏡ヶ池遠すぎるもんね。一人じゃ間がもたないよね」

「あ、そういう感じで誘ったんじゃないんですけど」

「え、そうなん?」


 すっかり日も暮れた頃、僕たちは森の中を歩いていた。こんなに疲れるとは思っていなかった。今はただ、目的地へ向かうという気持ちだけで動いているような感覚だった。

「なんか、変な感じですね」

 僕は沈黙を破りたくなってつぶやいた。

「なん?」

「ただ死ぬだけなのに、そこまでに試練があるなんて」

「はは、最後だからって変な気起こさないでよ。ヤリモクじゃないから」

「は、やめてくださいよ」

 すでにそんな気力はない。いや、初めから気力も体力もなかったか。

「あ、月!」

 ゅぃなさんが声を上げた。少し開けた空に満月が先に見えた。月が見える方にさらに進んでいくと次第に空を覆う木々が少なくなっていき、ついに開けた空間が顔を出した。

「・・・」

 僕たちは言葉を失った。満月を中心にした星たちが雲ひとつない夜空に輝いている。そしてその星空をそのまま落としたような星空が鏡ヶ池の湖面に映っている。

「きれい……」

 先に口を開いたのはゅぃなさんだった。

「空が落ちている」

 その光景を見た僕は、この空に飛び込んだら本当に鏡の世界に行ける気がした。僕は吸い込まれるように湖畔に立った。風はなく、波音も立たない静かな池。

 遠くの方で、湖畔に佇む大きな木のひとつから、一枚の葉が落ちた。ひらひらと揺れながらそれが湖面に触れると、そこから波紋が広がり、星空は震え出した。それを見たとき僕は、湖畔ギリギリに立っていた足を一歩後退りさせた。鏡の世界が本当は幻で、向こう側の世界が一瞬で崩れ落ちたような気がしたのだ。

 しかし波紋が収まると、再び美しい鏡の世界に星が煌めいた。

「ねえ、これを見てもまだ、死にたいって思うの?」

 ゅぃなさんは、その質問に僕がどう答えるか、確信があったんだろう。

「まさか」

 この世界には、まだこんなにも美しい景色がある。本物に見えた鏡の世界は、この世界が作り出した幻だった。僕はまだこの世界にいる理由がある。

「やっぱり一人で来るんだったな」

「え?」

 一人なら、やっぱり僕は死んでいただろう。

「いまの僕は、ゅぃなさんを一人で帰らせるわけにはいかないよ」

 ゅぃなさんは、身を守る体勢になって言った。

「やっぱりヤリモクだったのね」

「だから違うったら」

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