ダイニングのテーブルに細長い花瓶が置かれた。白くて四角い陶器で、一輪挿しのようだ。
「お母さん、これなぁに?」
娘が母親に尋ねた。
「これは花瓶よ。お花をここに挿すの」
そう言って母親は、そこに一輪のコスモスを挿した。それを見ていた娘は
「わーきれい!」
と喜んで、楽しそうにかわいい拍手を繰り返した。母親も部屋の中が少し華やかになった気がして嬉しくなった。少しすると娘が
「これミサキもやりたい。お花でお部屋をかわいくしたい」
と言い出した。
母親は少し迷ったが、娘が花を愛でることに興味を持ったのは良い事だと思い、翌日、娘を連れて買い物に出かけた。高くないものを選べば一輪挿しは手軽に買えるし、お花も一輪なら数百円だ。
自由に選ばせると、ミサキが選んだのはマリーゴールドだった。
部屋に戻って一輪挿しを並べてみると、ミサキの花瓶の方がちょっと低い。マリーゴールドを挿して完成。ミサキは喜んでまた小さく拍手している。ダイニングテーブルに並んだ二つの一輪挿しは親子のようだ。
「お母さんとミサキみたいだね」
ミサキはそれから飽きもせず、いろんな角度から花を眺めていた。夕飯が終わってもまだダイニングを離れないミサキを見て、母親は「そろそろ寝る支度をしなさい」と言い付けた。
ミサキは「はーい」と生返事。まだダイニングに並んだ花に見とれている。
「でも、お花さん寂しくないかなぁ」
ミサキが言った。
「なぁに? 大丈夫よ。ミサキが寝ちゃっても、お花は一緒に隣同士並んでるんだから」
母親はミサキが夜更かしする理由を探していると思って反論した。
「……うん」
そう言うとミサキは寝室へと向かって行った。ようやくあきらめたかと思い、母親がテーブルを見ると、コスモスを挿していた一輪挿しにマリーゴールドがちょこんとお邪魔していた。
それを見て母親は思わず笑ってしまった。
まるでいつも母親のベッドに入ってくるミサキのようだ。
ステージが明転すると、舞台の中央に一人の男が立っていた。派手なジャケットに蝶ネクタイ、おどけた表情で客席を一瞥すると、男は両手を広げ、それを縮めたり伸ばしたりして独特のポーズを何回か繰り返し、こう叫んだ。
「ハッ! ハッ! ハッチョレビーン!」
客席は静まり返った。
それから約二分半、男はいくつかのフレーズと動作を組み合わせた、いわゆる一発ギャグを展開し、身近な行動に対するある視点からの解説、いわゆるあるあるネタを繰り広げ、その芸を披露した。
芸名ハッチョレ豆畑。彼は世に言うピン芸人である。
この日のステージで、客席から笑い声が聞こえることはなかった。ハッチョレは楽屋でこう回顧する。
「顔が笑ってる人はいるのよ。でもねー、最初から最後までずーっと同じ顔してるの。表情がひとつも動かないの。卒業写真の前でネタやってる気分だったわ」
袖で見ていた共演者の芸人はこう語る。
「ハッチョレさんのネタってホントに面白いんですよ。袖で見てる芸人みんな好きですよ。でも会場がウケてないから袖で笑えないんすよ。こっちは笑い堪えるの必死ですよ」
この日、客席で観ていたお笑いファンにも話を聞いてみた。
「ハッチョレ豆畑ですか? 好きです! でもなんかいつもなんですけどぉ、ハッチョレさんのネタを観てると顔がまったく動かなくなるんですよ。なんだろう、金縛り? あはは、例えば顔にボンド塗られて固められちゃったみたいな? あはは、意味わかんないですよね」
これらの情報を総合して、私はある仮説を導き出した。それを検証するため、ハッチョレ豆畑が次に出るライブの後、私は彼の楽屋に訪問することにした。
「ハッチョレ豆畑さん、お客様でーす!」
案内してくれたスタッフが楽屋口で声を張った。すると奥からハッチョレ豆畑が足元の荷物をかき分けながら出てきてくれた。
「はじめまして、よろしくお願いします」
廊下に出てもらい、私は豆畑さんがいつもツカミでやるおなじみのギャグをリクエストした。豆畑さんは初対面の私にも全力で振りを付けてやって見せてくれた。
「ハッ! ハッ! ハッチョレビーン!」
掛け声が響いた瞬間、私の顔面が硬直するのがわかった。そして私は確信したのだった。
それから二分半、私は言葉を発することができなかったので、楽屋に戻ろうとするハッチョレ豆畑を身振りだけでその場に留めるのに大変苦労した。そしてようやく発した私の言葉を聞くと、今度は豆畑さんの顔が硬直するのだった。
「ハッチョレ豆畑さん、あなた、魔法を使っています」
ハッチョレ豆畑には、いったい何が起きているのかさっぱりわからなかった。あの男に会った次の日、彼はテレビ局の中にいた。芸歴八年と三ヶ月。一度も足を踏み入れたことのない場所だ。
自己紹介ギャグを披露した後、あの男から「あなたに会いたがっているテレビ局員がいる」と告げられ、この場所を教えられた。局の受付で名前を言うとパスを受け取って中に通された。
あの男によれば、私のギャグの振り付けが魔法の予備動作、いわゆる『印』と同じ仕草になっていて、『ハッチョレビーン』が魔法の呪文なのだという。その魔法の効果は、正面から見た人の顔を3分間硬直させるというもの。お笑い芸人にとっては致命的な効果だった。
だが、この能力が実に皮肉の効いたわかりやすい喜劇であることは自分でもわかる。笑わせなきゃいけない芸人が客に笑えない魔法をかけていたのだから。そのウワサがテレビ局にまで届いているということか。まさか自分がテレビに? この展開だとさすがにドッキリを疑ってしまう。
「あ、ハッチョレ豆畑さんですか? 急なお願いにも関わらず、お越しいただきありがとうございます」
テレビ局の人間が私の元へやってきた。
「おはようございます! こちらこそ、このような現場にお呼びいただきましてありがとうございます!」
豆畑はこのチャンスを逃すまいと努めて元気よく挨拶し、深々とお辞儀をした。
「これから始まる収録で、ぜひあなたのお力をお借りしたいんです」
連れて行かれたスタジオの入口には、大きく番組名が書かれたポスターが貼ってあった。
【8年ぶりに復活! ザ・イロモネア】
※この小噺はすべてフィクションです。
虹色に輝く道をバギーに乗って走り回る。虹の上にガードレールなんてない。激しいヘアピンカーブをドリフトしながら進み、曲がりきれなければ虹から落っこちる。そうしたら雲から垂れた釣り糸に引っ掛けられてコースに戻される。
そのスリルに魅了されて、僕たちは夜通し虹の上で追っかけっこをした。外が明るくなるまで、毎日のようにやっていた。それがあいつと二人で見た虹の記憶だ。
それから何年が経っただろうか。僕は車でレインボーブリッジを渡ろうとしていた。遠目に見たら白一色、実際に走ってみても道路はただのアスファルト。できた当時は大いに沸いていたけれど、今になればなんの変哲もない通勤路だ。
その道が、封鎖されていた。
おいおい、青島。勘弁してくれよ。レインボーブリッジは封鎖できないからレインボーブリッジなんだろう。などとしょうもない悪態を吐きながら、前も後ろも渋滞中で困っていた。ラジオの情報によれば事故だという。
ようやく動き出しても一車線のノロノロ通行。やっと見えてきた事故現場には、見覚えのあるバギーに見覚えのあるキャラクターの扮装をした人たちがいた。その中にあの時の僕たちを見た気がして、僕は思わずつぶやいた。
「ガードレールがあってよかったな」
「スズカ、まだ起きてたの? 早く寝なさい」
母親は窓辺から夜空を眺める娘に言った。
「ねえ、ママ」
娘は母親を振り返って言った。
「なあに?」
「夜って、なんでこんなに長いのかしら」
「なに、どうしたの?」
「早く明日になってほしくて」
明日は娘の学芸会の日だった。
「わくわくして眠れないんでしょう?」
母親はそんな娘がかわいく思えた。
「たとえば、夜のお空を駆けっこみたいに走れたら、早く明日になるのかしら」
いきなり詩の一節を朗じ始めた娘に驚きながら、母親はこう答えた。
「そうね。そうしたら目をつぶって、スズカが夜空を駆けるところをイメージしてごらんなさい。そうすれば、ほんの少しで朝になっているかもしれないから」
「わかったわ、ママ」
そうして母親は娘を寝台へと導くのだった。
翌る日。
「はあ、はあ、はあ」
「スズカちゃん遅〜い!」
「もう私たちの劇、始まっちゃうよ」
スズカは学芸会に遅刻してしまった。
「スズカちゃん、昨日の夜わくわくして眠れなかったんでしょ」
お友達に囃し立てられたスズカは、息を整えながら答えた。
「違うの。夜を早く進めようと思って駆けっこしてたら、朝を通り過ぎてお昼になっちゃった」
円い台の上に粘土の塊を載せ、ろくろを回す。回転に合わせて指先から粘土に触れ、造形を整えていく。陶芸を生業として二十年、来る日も来る日も土との対話をし続けた。私の作品は芸術性と実用性を兼ね備えたデザインとして、日本のお茶の間で使われている。
今では週に二回の陶芸教室も開催し、門弟を指導するまでになった。ありがたいことに結婚して子宝にも恵まれた。充実した陶芸家人生を歩んでいる。
「先生、ここがどうしても上手くいかなくて」
陶芸教室で生徒たちの様子を眺めていると、カホさんから呼び止められた。この教室に何年も通い続けてくれている生徒さんだ。
「あ、はい。ちょっと見せてください」
見ると器の壁になる部分がデコボコしている。意欲は高いが不器用なのかなかなか上達しない。いや、そう決めつけてはいけない。私の教え方にも問題があるのだろう。
「じゃあ一緒にやってみましょうか」
「はい、お願いします」
私はカホさんのてを支えるように持ち、耳元で指示をしながらろくろを回した。
「いいですよ、そう、ゆっくり力を込めて……」
「わぁ! 上手くできました!」
カホさんが私を振り向き、顔と顔が数センチのところで目が合った。
「おっと」
「あらやだ、失礼しました」
お互いに目線を逸らす。そのタイミングで教室内を見回したが、他の生徒たちは自分のろくろに集中していてみていないようだった。
「先生、教室が終わった後、少しお時間よろしいですか?」
目線を外した耳元で、カホさんが小さな声でささやいた__
教室から生徒たちが帰った後、私は一人で片付けをしていた。すると一旦は外に出たカホさんが足音も立てずに教室に戻ってきた。
「あの、お話というのは……」
聞きたくないような、聞きたいような、聞いてしまったらもう戻れないような予感がしていた。
私はずっと疑問に思っていた。なんでカホさんはまったく上達しないのにこの教室に通い続けているのか。なんで毎回同じところでつまづいて、私にサポートを求めてくるのか。そして私がカホさんの手に触れるたびに、なんで私の心臓の脈打つ音が早く大きくなるのか。
私は知っている。私は既婚者だが、カホさんも既婚者だ。誰もいない教室に二人きりというのもよくない。いやそれはいいだろう。陶芸教室の先生と生徒なら何もやましいことはない。そう思ってしまっている私の方がまずいのか……?
「先生、私、いけないことだとはわかってるんです」
やめてください、それ以上はいけません。
「でも、どうしても想いを止めることができなくて」
どうか、どうかその想いは秘めたままに……。
「先生が、何年も何年も真剣に教えてくださるのに、私ったら全然上手くならなくて」
「それは……私の指導が下手なんですよ。こちらこそ申し訳ないです」
「それでも親身になって教えてくださる先生に、私、申し訳なくて……、気づいたら私……」
これ以上は、私も止められなくなってしまう。
「こんなことをするのは、先生への、もっと言えば、長年一緒に学んできた他の皆さんへも裏切りになるかもしれないんですけど……」
「やめましょう。そんなこと、口に出してはいけない」
私はついに声に出してカホさんを制止していた。あるいはそれは私自身に向けて言っていたのかもしれない。しかし覚悟を決めたカホさんの口を止めることはできなかった。
「先生には、陶芸以外の別のコトも教えてもらいたいって、思ってしまったんです」
私は動揺して椅子を蹴ってしまい、部屋中に大きな音が響いた。ダメだ。いけない。これ以上は私の理性が保てない。
「カホさん、それはいけない。私は陶芸しか教えられません」
「わかってるんです。こんなお願い、ルール違反だって。でもほんの少し。ほんの少しでいいんです。そこから先は、自分でもがんばりますから」
頭の中で理性と本能が死闘を繰り広げていた。そしてついに、私の理性は敗れ去った。
「わかりましたよ。私も覚悟を決めました。もういいです。あいまいな言葉はなしで、はっきりと何を教えてほしいか言ってください」
私はついに本能をさらけ出した。
「ありがとうございます! 私が教えてほしいのは3Dプリンターです」
3Dプリンター? カホさんの思わぬ発言に私は呆然としてしまった。
「私、どうしても作りたい理想の器があるんです。頭の中では完璧にデザインが仕上がっていて、これが作れたらこの教室も辞めようと思ってたんですけど」
カホさんは先ほどまでのもじもじした態度とは打って変わってつらつらと語り始めた。私の感情はぐちゃぐちゃになっていた。
「やっぱり3Dプリンターも難しくて、まだ全然使いこなせないんです。だから」
「だから?」
「先生、工業系の高校出てますよね? 私にCADの使い方、教えてくれませんか?」
私は混乱の境地に至り、ついに最後の言葉を解き放った。
「今すぐ出て行け〜!」