与太ガラス

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 ステージが明転すると、舞台の中央に一人の男が立っていた。派手なジャケットに蝶ネクタイ、おどけた表情で客席を一瞥すると、男は両手を広げ、それを縮めたり伸ばしたりして独特のポーズを何回か繰り返し、こう叫んだ。

「ハッ! ハッ! ハッチョレビーン!」

 客席は静まり返った。

 それから約二分半、男はいくつかのフレーズと動作を組み合わせた、いわゆる一発ギャグを展開し、身近な行動に対するある視点からの解説、いわゆるあるあるネタを繰り広げ、その芸を披露した。

 芸名ハッチョレ豆畑。彼は世に言うピン芸人である。

 この日のステージで、客席から笑い声が聞こえることはなかった。ハッチョレは楽屋でこう回顧する。

「顔が笑ってる人はいるのよ。でもねー、最初から最後までずーっと同じ顔してるの。表情がひとつも動かないの。卒業写真の前でネタやってる気分だったわ」

 袖で見ていた共演者の芸人はこう語る。

「ハッチョレさんのネタってホントに面白いんですよ。袖で見てる芸人みんな好きですよ。でも会場がウケてないから袖で笑えないんすよ。こっちは笑い堪えるの必死ですよ」

 この日、客席で観ていたお笑いファンにも話を聞いてみた。

「ハッチョレ豆畑ですか? 好きです! でもなんかいつもなんですけどぉ、ハッチョレさんのネタを観てると顔がまったく動かなくなるんですよ。なんだろう、金縛り? あはは、例えば顔にボンド塗られて固められちゃったみたいな? あはは、意味わかんないですよね」

 これらの情報を総合して、私はある仮説を導き出した。それを検証するため、ハッチョレ豆畑が次に出るライブの後、私は彼の楽屋に訪問することにした。


「ハッチョレ豆畑さん、お客様でーす!」

 案内してくれたスタッフが楽屋口で声を張った。すると奥からハッチョレ豆畑が足元の荷物をかき分けながら出てきてくれた。

「はじめまして、よろしくお願いします」

 廊下に出てもらい、私は豆畑さんがいつもツカミでやるおなじみのギャグをリクエストした。豆畑さんは初対面の私にも全力で振りを付けてやって見せてくれた。

「ハッ! ハッ! ハッチョレビーン!」

 掛け声が響いた瞬間、私の顔面が硬直するのがわかった。そして私は確信したのだった。

 それから二分半、私は言葉を発することができなかったので、楽屋に戻ろうとするハッチョレ豆畑を身振りだけでその場に留めるのに大変苦労した。そしてようやく発した私の言葉を聞くと、今度は豆畑さんの顔が硬直するのだった。

「ハッチョレ豆畑さん、あなた、魔法を使っています」


 ハッチョレ豆畑には、いったい何が起きているのかさっぱりわからなかった。あの男に会った次の日、彼はテレビ局の中にいた。芸歴八年と三ヶ月。一度も足を踏み入れたことのない場所だ。

 自己紹介ギャグを披露した後、あの男から「あなたに会いたがっているテレビ局員がいる」と告げられ、この場所を教えられた。局の受付で名前を言うとパスを受け取って中に通された。

 あの男によれば、私のギャグの振り付けが魔法の予備動作、いわゆる『印』と同じ仕草になっていて、『ハッチョレビーン』が魔法の呪文なのだという。その魔法の効果は、正面から見た人の顔を3分間硬直させるというもの。お笑い芸人にとっては致命的な効果だった。

 だが、この能力が実に皮肉の効いたわかりやすい喜劇であることは自分でもわかる。笑わせなきゃいけない芸人が客に笑えない魔法をかけていたのだから。そのウワサがテレビ局にまで届いているということか。まさか自分がテレビに? この展開だとさすがにドッキリを疑ってしまう。

「あ、ハッチョレ豆畑さんですか? 急なお願いにも関わらず、お越しいただきありがとうございます」

 テレビ局の人間が私の元へやってきた。

「おはようございます! こちらこそ、このような現場にお呼びいただきましてありがとうございます!」

 豆畑はこのチャンスを逃すまいと努めて元気よく挨拶し、深々とお辞儀をした。

「これから始まる収録で、ぜひあなたのお力をお借りしたいんです」

 連れて行かれたスタジオの入口には、大きく番組名が書かれたポスターが貼ってあった。

【8年ぶりに復活! ザ・イロモネア】

※この小噺はすべてフィクションです。

2/24/2025, 1:23:15 AM