スタジアムにはたくさんの観客が集まっていた。今日はカバディの最強チームを決める年に一度の大会だ。場外にも出店やグッズショップがオープンし、活況を呈している。
スタジアムの関係者入口に一人の男が訪れた。黒いTシャツに短パンという出で立ちで、台車に大きな荷物を載せている。
「あ、すみません。ここは関係者以外立入禁止です」
警備員が男に声をかけた。
「あ、いや、その、関係者です」
男は間抜けにもただ関係者だと主張した。
「そんな言葉で信用できるか。IDカードとか、何か証拠を見せなさい」
「まいったな。あのー、担当者には顔パスで大丈夫なんで、IDは出しませんって言われてるんですよ」
男は困った表情をしている。
「失礼ですがあなたは誰ですか?」
警備員はそう言われても信用するわけにはいかないと態度を崩さない。しかし要人であれば失礼があってはいけないから、慎重に聞いた。
「あ、そのー、中の人です」
「中の人?」
「はい、あの」
男は台車の荷物を指差して言った。
「なんだその荷物は。中を見せなさい」
警備員の語気が強くなる。不審物ならもっと警戒しなければいけない。男が荷物を開けると、中からカバの着ぐるみが出てきた。
「ディーカバくんです」
カバディ協会の公式マスコットである。
「お前、ふざけるんじゃない。超人気キャラクターのディーカバくんの着ぐるみなんか作って!」
「いやこれ本物ですって」
「お前! ディーカバくんに中の人なんかいない!」
「これ被っても?」
男は持ってきたディーカバくんの頭部をスポッと頭に被った。
「いや違う! お前じゃない! ディーカバくんは被り物とかじゃないんだ!」
男は困り果てて首の裏をかいている。
「はい、お引き取りください」
男は台車を引いて関係者入口から去って行った。とりあえずトイレに向かい、個室に入る。男はうなだれた。
(はぁ、今日もここから始めなきゃいけないのか……)
関係者入口に全身フル装備のカバの着ぐるみが現れた。ディーカバくんである。体中に何人も子どもが張り付いていて離れない。
「あ、おはようございます! 今日もお疲れ様です!」
先ほどの警備員が満面の笑顔で応対する。当然IDカードなどはぶら下げていない。
ディーカバくんは、無言で手を上げて応えた。腕にぶら下がっている子どもがぐいっと持ち上げられてキャッキャしている。
「はーい君たち! ここから先はディーカバくんしか入れないからね。体から降りようね〜」
警備員の手によって子どもたちが剥がされていく。
「さ、ディーカバくんさん! どうぞお通りください」
(毎回やるけど、このシステム本当に嫌なんだよ。早くID発行してくれよ)
手紙の行方 保留!
高温で熱せられた肉が煙を上げる店内で、男の顔は不規則に炎に照らされていた。眼光鋭く、肉の色の変化を見つめている。リズミカルに塩を振る手が膝と連動して動いた。
幾本も並んだ串を手早く裏返していく。焼けた肉が艶やかに姿を現す。もう一度塩を振り、次の串の準備に入る。
焼き台の前に戻ってきたその瞬間、炎を受けた男の目が輝いた。
男は串を掴み、焼き台から皿へと移しかえる。
「はいおまちどお! もも一丁!」
沖縄の砂浜に二人腰掛けて、遠く水平線に沈む夕日を眺める。目の前にある大きな天体がゆっくりと、しかしはっきりと、その光を海に吸い込ませているのを見ると、真に時の流れを知らしめるものは、天体の他にないのだと気付いた。
「ずっとこの夕日を見ていたいね」
君が言った。
そう思った。
それでも光は海に溶けていき、エメラルドに輝く水を闇に沈めた。
※内容は全てフィクションです。
最近、拠り所にしている声がある。スマートフォンでアプリを起動し、フォローしている番組をタップ。すると気の抜けた眠たそうな声が聞こえる。声の主はマイカビーンズさん、番組名は「おつまみラジオ」。音声配信アプリ「スマートウェーブ」で配信している、個人のラジオ番組だ。
「こんにちは〜、今日もおねむぅございます」
マイカビーンズさんがお決まりのあいさつをする。この一言だけでリラックスできるから不思議だ。
「みなさんはいかがお過ごしですか? 3時のおやつを食べながら、洗濯物を畳みながら、おやすみ前のひとときなどに、まったりしながら聴いていただけると嬉しいです」
スマホ画面に表示されるサムネイルにマイカさんの姿はない。どんな顔かも、どんな仕事をしているかもわからない人なのに、ただ声のみに引き込まれる。
「私は今日もおつまみをいただきながらしゃべりますので、みなさんもお手元に何か用意してね、一杯やりながら聴いてやってください」
話はとにかく中身がない。声と話の内容から、勝手に顔を想像してしまう。
「いやぁ最近仕事が暇でねー。みなさんは仕事って忙しいのと暇なのとどっちがいいですか? 私なんかすぐ眠たくなっちゃうから。ある程度、動いてた方がいいんですよね」
興味があるようなないような、どうでもいい話が続く。聴いているうちについウトウトしてしまうから、通勤途中の電車で聴くのはちょっと危険だ。
私はその日、仕事で普段は訪れない土地に来ていた。得意先との打ち合わせを終えると、少し時間ができたので、時間をつぶせる場所を探した。あまり大きい街ではなく、地図アプリを使ってもチェーンの喫茶店が引っかからない。仕方なく⭐︎3.2を獲得している聞きなれない名前のカフェに行くことにした。
コーヒー600円か……、そのくらいはするよな。
店の前で少しためらったが他に行くところもない。私は思い切って店内に入った。
「いらっしゃいませ」
その声に耳を疑った。眠たそうな気の抜けた声に、聴き覚えがあったのだ。そう、マイカビーンズさんだ。
そんな偶然があるだろうか? そもそも声が似ているだけでは? 推しに会う心の準備ができていない。顔を見てしまっていいのか?
一瞬のうちに様々な思いが去来した。入らずに扉を閉めてしまおうかとも考えた。
「おひとり様ですか? 空いてる席どうぞ〜」
次々と声の矢が放たれる。いつも耳元で聴いているあの声だ。私は意を決して店内に足を踏み入れた。
顔を上げると店員さんはマスクをしていた。目元は笑っている。一度見てしまったら、頭の中で勝手に想像していた顔はもう思い出せなくなっていた。
店内を見るとお客さんは誰もいなかった。暇そうだ。私はブレンドコーヒーを注文して席に着いた。
ラジオ聴いてます、なんて言うのは野暮だろうか。そもそもまだ人違いの可能性はある。アプリを起動させてスマホを机に置いておこうか? 気づいてくれるだろうか。でも顔も仕事も表に出していないんだから、知られたら嫌なのかな。
またしても頭の中はオタクみたいなことばかりが巡っている。
「お待たせしました。ブレンドコーヒーでごわいわふ……」
店員さんがコーヒーを運んできた。あくびを噛み殺しながら……。
「あ、失礼しわひは。あははははは」
店員さんはまたもあくびをしながら謝罪をして、口元を押さえながら去っていった。
私はマイカビーンズさんの存在を確信し、ゆっくりとコーヒーを口に運んだ。