目が覚めると、もう君は起き出していて、ベッドの端に君の背中が見える。君が着替えるのを眺めながら、僕は再び瞼を閉じる。
少しすると台所から包丁の音がする。微睡みながら目を向けると、君の背中が朝食の味噌汁を作っている。君は僕が起きるのを待たずに、一人で食べて少し急いで身支度をする。
今日も君はキャリアウーマン然として、パリッとした格好で決まっている。玄関を開ける背中を僕はベッドの中で見送る。
夢に向かってがんばる君の背中は大きくて偉大だ。
君が出かけたら僕はムクリと起き出して、背中をポリポリかきながらあくびをする。やっぱりもう一回寝ようかな。冷蔵庫から麦茶を取り出して、一息に飲む。テーブルには朝食が用意されている。
日中は取り立ててやることがないので、すぐにswitchを起動する。スプラトゥーンをやっていれば自動的に夕方になっている。世の中とはそういう仕組みだ。あ、そうだ。忘れてた。
僕は部屋の隅に置いたプラスチックケースに顔を近づけた。中には土と木の枝、そしてイモムシが入っている。アゲハチョウの幼虫だ。昨日見たときに水っぽいフンをしてたから、そろそろ……、あ、いたいた! 枝に張り付いてる! サナギになる準備が始まったみたいだ。
僕はわくわくしながら1時間ぐらい眺めていた。でもしばらくは画が変わらないことに気づいて、再びswitchの前に座り、スプラトゥーンを始めたのだった。
玄関のドアが開く音がして、もう外が暗くなっていることに気づいた。
「ただいまー」
「ん、おかえり」
画面から目を外して、君に笑いかける。
「またゲームやってたの? 洗濯はした? 掃除は?」
「ん? んー……」
相槌とも返事ともつかない声を発すると、君はあきれたような顔をする。でもすぐに気を取り直して
「まあ、明日やればいっか」
と笑いかける。君は聖母のようだ。
「あー、そういえば、この前のイモムシ、サナギになったよ、ほらここ!」
僕が無邪気に指差すと、君はプラスチックケースに顔を近づけた。
「わーホントだぁ! すごーい」
しゃがんでケースをのぞく君の背中はかわいかった。
「チョウチョになるとき、私見られるかな?」
「もし兆候が見られたら、会社休んじゃう? 一日ぐらい許してくれるでしょ」
「ふふ、そうだね……」
そのとき君は、どこか寂しそうに笑った。
次の日も同じような朝だった。でも違うのは、君が休日だったこと。君は朝食のあとも洗濯や掃除に大忙し。背中を追うのも大変なぐらい部屋の中を目まぐるしく動き回った。僕は邪魔にならないようにベッドの上で丸くなっていた。もちろんシーツは剥ぎ取られたけど。
お昼時になって、やはり台所に立っていた君に僕はそっと近づいた。君の背中を見ていたら、後ろからそっと抱きしめてあげたくなったんだ。それはねぎらいでもあり、甘えでもあったんだろう。
君の肩に手を置き、その手を背中に移動する。
「やだもう、くすぐったい」
君の反応がかわいい。
手を動かしていると、ざらっとした感触に気づいた。
「え?」
僕は思わず口走る。
「やめてよ、くすぐったいからっ」
くすぐったいのはなんで? 僕の手に触れているものはなに? 僕は君の後ろの正面に回って背中を直視する。Tシャツ越しに、背中の中央が少し盛り上がっているのがわかった。
「もしかして……」
「……うん」
君のTシャツの襟元をつまんで、上から地肌をのぞく。君の背中の中央には首の付け根から背骨に渡って、ファスナーが伸びていた。
「ついに来たんだね」
「うん」
君の目に涙が溜まる。
「おめでとう」
僕は心から君に告げた。
「うん、ありがとう、私、嬉しい」
君の目から一筋の涙がこぼれた。
「もう、準備はいい?」
君は黙って頷いた。僕たちは台所を後にし、ベランダへと向かう。これがお互いに残された最後の時間だとわかっていた。
「オレ、そんなにだらしなかったかな?」
「ふふ、それはもう、ひどい怠惰っぷりだったわよ。でも、楽しかった。パートナーがあなたでよかった……」
その言葉をもらえただけで、僕の数ヶ月は報われる。君と僕の間にあるヒモは、きょう解かれるのだ。
「結局、見られなかったね、チョウチョ」
「うん。その時は僕がこのベランダから放すから。きっとどこかで出会えるよ」
「ふふ、そうだね」
君の笑顔にもう寂しさは見つからなかった。
ベランダに出ると、君はTシャツを脱ぎ捨てた。お互いもう言葉は交わさない。僕は君のうなじに付いたファスナーを指の先でしっかりとつまみ、ゆっくりと下げていった。
開かれた背中から、まず漏れ出たのは光だった。優しい光が君の内側を照らし、その中から突き出す真白い翼をいっそう煌めかせる。ファスナーの中から全身が出る頃になると畳まれていた翼はきれいに大きく広げられ、僕の方からはもう君の姿は見えなくなっていた。
そして……
夢を叶えた君は、僕の元から飛び立っていった。その背中に翼をまとって。君は振り返ることなく、遠く遠く見えなくなるまでずっと、僕に背中を見せ続けた。
「こんどの休み、遠くに行かない?」
リビングでスマホを見ているマサルにサユリが提案した。
「ん? そうだなぁ。じゃあこのマチュピチュ紀行の動画でも見るか」
マサルはサユリにスマホ画面を見せる。
「もう、そうじゃなくて! 仙台でも熱海でもいいから、旅行にいこうって言ってんの!」
サユリはリビングのソファーに飛び乗ってマサルを責める。
「だったら、そのあたりを舞台にした映画もあるぞ」
マサルの目はスマホから離れない。
「なんでそうなるのよ。マサルは観光って言葉を知らないの?」
「それこそなんで? で返すよ。いまの時代、画面の中でどこまでも遠くに行けるのに、なんでわざわざ時間をかけてお金を使って観光しなきゃいけないわけ?」
「私は旅をしたいの。そこの空気を吸いたいの。その土地の料理を食べたいの!」
「仙台の牛タン、お取り寄せしようか?」
「その土地の人に会いたいの。観光名所に触れたいの!」
「触っちゃいけない重要文化財もあるよ」
「ああもう! 五感で体験するのが旅の良さでしょうよ!」
「他人が体験してる動画を見て行った気になるのが動画配信の良さでしょう」
サユリの熱いプレゼンはすべてマサルの皮肉で返された。
「違うわ。あなた見たことないでしょう。旅の動画を上げてる人は、それを紹介してみんなも来てって言ってるの。観光を盛り上げようとしてるのよ」
「わかってるよ。なんなら僕もその盛り上げに一役買ってる」
「はあ? どこがよ。一日中家の中でぬくぬくして、テレビ見て動画見てパソコンに向かって文字打ってるだけじゃない。行って! 見なきゃ! 観光に貢献するなんてできないわ」
サユリはマサルの態度にカチンと来て声を荒げた。しかしマサルは動じることなく言い返す。
「残念ながら、画面で見たものをまるでその場にいたかのように記事にするのが僕の仕事でね。実体験なんかにはまったく興味はないね」
「サイテー。いいわ、一人で行ってくる」
サユリはあきれ果て、ついにこの不毛な口論をあきらめた。
「ああそう。それなら臨場感たっぷりの動画撮ってきて。僕が記事にしてあげるから」
サユリは寝室のドアをバタンと閉じた。
コタツ記者 見たフリしては ウソ見出し……
「知らない! 私は知らない! 勘弁してくれ! ああ! た、助けてー!」
その男は、拷問にかけられたが、とうとう何もしゃべらずに処刑された。
(また失敗だ。どうすれば知ってもらうことができるんだ。この世界が生まれて何十億年と経っているというのに、私の存在はいまだ誰にも明かされない)
その秘密は、まだ誰にも知られていなかった。この世界が生まれて気の遠くなるような歳月を経て、ついに知能を持った人類が生まれた。しかしその人類も、その秘密の存在を発見できていない。それどころか、人類は全く別のものを真実だと思い込み、世界についてデタラメな解釈をしている。
(ああ、早く知られたい。どうしてみんな私のことを知ろうとしないんだ。私を知ればすべての辻褄が合うというのに。人類が間違って理解していることの、あらゆる誤解が解けるのに)
秘密は、知られたかった。知られたくてウズウズしていた。だから秘密は、極秘裏に強硬策に出ていた。
(仕方ない。知ってもらうためには、自分から行動しなきゃいけないよな。無名のアイドルが世に出るためには、自ら発信しなければいけないんだ)
秘密は人の形をまとい、この世界のインテリたちに声をかけて回ることにした。めぼしい人物に狙いをつけ、周りに誰もいない時を見計らって声をかける。
「あなた、世界の秘密を知りたくはないですか?」
秘密は人間の姿にはなれても、顔の形まで再現することはできない。黒ずくめでフードを目深に被った風貌に警戒しない人間はいなかった。
「ひ、ひえ〜!」
大抵の人間は悲鳴を上げて走り去っていった。立ち止まってくれても、真剣に話を聞いてくれる者はいない。そして話を聞いてくれたとしても……。
「こんな秘密を信じろと? 無理だ、こんなことを公表したら私は……、この世界で生きていけない」
そして秘密を知った人間は、その秘密を誰にも打ち明けることなく、数日後にはなんらかの理由でこの世を去るのだった。
(なぜだ、なぜ私は理解されないんだ! 世の中にはこんなにもデタラメな妄執が蔓延っているというのに! 本当に! この秘密を知れば、世界は必ず救われるというのに!)
その秘密は誰にも明かされない。今までも、これからも……。
(ん? そこに誰かいるのか? この文章を読んでいるあなた! お願いだ。どうかこの秘密を聞いてはくれないか……?)
玄関のドアを開けると、薄暗い街に街灯が光っていた。後ろから新聞配達の原付の音が聞こえる。歩きながらBluetoothイヤホンを起こしたら、勝手にスマホと接続した。私は昨夜の深夜ラジオを再生する。
駅前のコンビニで朝食を探す。パンのコーナーを歩くが、大半が砂糖菓子のような菓子パンでいつもうんざりする。砂糖味の食べ物は食事ではなく娯楽に分類するべきだ。粗挽きソーセージパンは昨日食べたから、消去法でカレーパンを手に取った。コンビニを出てもまだ空は暗い。
地下鉄のホームに着くといつも迷う。このカレーパンをどこで食べるべきか。電車を待ついまのタイミングで食べ始めたら電車が来るまでに完食できないだろう。もちろん電車内で食べるのは御法度。乗り換えのタイミングも時間がない。
結局いつも電車を降りたホームの待合室で食べることになる。朝食をカバンに入れたまま、およそ二時間後だ。別に会社に着いてから食べてもいいんだけど、そこは、まあ……。
そして電車はやってくる。今日も変わらず、同じ時間に。同じ停車位置に。
車内に入ると、だいたい座席は空いている。だけどいつも同じ場所ということはない。座ってしまえばすぐに目を閉じる。Bluetoothイヤホンからは昨夜の深夜ラジオが流れている。長い通勤電車の中で起きていたらダメな気がして、ウトウトしながら聴いているから、最近はあまり話も入ってこない。数少ない趣味のひとつだったはずなのに。
電車が北千住駅を過ぎたぐらいで、ビルの間から光がのぞく。地下鉄に乗ったはずなのに。目を上げるとスカイツリーの輪郭を赤い太陽がかすめていく。見とれているのはほんの数瞬のこと。それもやがて眩しくなって、ついには体を丸くしてダウンジャケットに顔を埋めるのだった。
僕の耳元では佐久間宣行が自分のトークに大笑いしているが、車両の中はきっとみな押し黙っている。
隣の人も同じ朝を迎えたんだなと思うと、自分ばかりでなくこの国の行く末まで憂いてしまう。
まだ寝ていたい。そう思った。僕は朝日から身を隠しながら、こんな夜明けが子どもたちの未来に訪れないことを願った。
「今日は腹を割ってお話ししましょう」
取引先の営業部長がにこやかな笑顔で話してきた。スキンヘッドで髭を生やしている。顔の威圧感とは裏腹に穏やかな表情をしている。しかし騙されてはいけない。今日は社運のかかった重要な商談だ。
「ぜひとも率直なお話ができればと思っております!」
私はそう返事をした。
“腹を割って話す”英語で言えば“heart to heart”。私はこの言葉を使う人間が大嫌いだ。嘘偽りなく心と心で話しましょう? そんなもの嘘に決まっている。会話の一言目から「これから嘘をつきます」と宣言しているようなものだ。
なぜ嘘をつくとわかるかって? それは私が『人の心を読める』能力者だからだ。疑っているな? じゃあ試しにコイツの心をのぞいてみようじゃないか。きっと今ごろ本音がうごめいているぞ!
(はあ、商談とかめんどくさいなぁ。変なこと聞かれないかなぁ。上手く返せるかなぁ)
なんだコイツ、意外と小心者じゃないか。これならいい条件を獲得できるかもしれないぞ。
「早速ですが、こちらの土地、10億円でお売りいただけないかと」
いきなり向こうから金額提示をしてきた。安すぎる。相場で見ても20億はくだらない土地だ。思いっきり値切ってきやがった。最初に落として、できるだけいい条件で交渉しようっていう腹だな? こうなったら心を読んで、どれくらいの着地点で考えてるか探ってやろう。
(あー、さっき“腹を割って”って言ったけど、あれどういう状況なんだろう。腹を割ったらもう切腹だよなぁ。一緒に腹を割ったら介錯してくれる人いなくて内臓がだらだら出てきちゃう……)
私は思わず心を読む能力を停止した。
やめろ〜! 内臓が出てくる様を想像するな〜! 商談の場で何を想像してるんだコイツは。全然商談に集中してないじゃないか! 仕方ない。まずは言葉で揺さぶろう。
「10億とはずいぶん安く見積もられましたね。相場から見ても20億はくだらない土地ですよ? そこに立地と将来性を考えれば、30億でも足りないぐらいかと」
私は逆に値段を釣り上げた。どうだ? 少しは動揺するだろう?
「実は我々で独自にあの土地の調査をしてまして。地盤がかなり不安定なのと土壌にあまり良くない成分が多く検出されています」
スキンヘッドは穏やかな表情のまま何やら話し出した。
「は、はあ。良くない成分と申しますと?」
私は動揺を隠しながら質問した。
「あきらかな土壌汚染です。地盤の強化も含め、これをすべて解決するのに少なく見積もっても5億はかかる。そして我々はあなた方がこれを知っていて隠していたのではないかと考えています」
「そ、そんなまさか!」
こちらの調査報告にそんな記載はひとつもない。しかし我が社がそんな特記事項を見逃すはずがない。……さては向こうが仕組んだ罠か? 今度こそ腹の内を暴いてやる!
(うーん、内臓のこと想像してたらお腹空いてきちゃったなぁ。ハンバーグ食べたいなぁ)
コイツ内臓からひき肉連想してやがる! あんな気持ち悪い想像で食欲沸くか!? むしろ俺は気持ち悪くて何も食べたくないんだけど! っていうか全く商談に集中しないでこんなに俺を詰めてこられる? 完全になめられてるじゃないか!
「そ、そのような事実はこちらでは確認しておりません。いますぐ証明できない以上、持ち帰って検討しますので、改めて調査をする時間をください」
(あれ、この子よく見たら焦ってる顔もかわいいなぁ。ハンバーグと一緒に食べちゃいたくなってきた)
え? なに、なに!? この思考、コイツの心の中だよな! 怖い! ホントに怖い人だ!
「今日はいい商談ができると思って、こちらからわざわざ出向いて来たんですがね。時間の無駄だったということですか」
スキンヘッドの男はあくまで笑顔を崩さずに言った。そして席を立ってこちらに近づいてくる。そしてこう続けた。
「わかりました。結論は後日で構いません。その代わり……このあと一緒にお食事行きましょうよ」
男は強い力で私の腕をギュッと掴んだ。
「ああ〜! 結局本音モレすぎぃ〜! 勘弁して〜!」