「ねえねえ『さかさまぼこ』って知ってる?」
「さかさまぼこ? 何それ?」
「逆さまの鉾」
「ああ、読んで字のごとくだった。それだけじゃわかんねぇよ。どんな形してるの?」
「あの、ちょうど『笹かま』と同じような形で」
「じゃあ笹かまぼこじゃねぇか」
「で、逆さまになってるの」
「なに? 笹かまで形が逆さまってあんまり変わらないけどな、尖ってる部分が、上か下か…」
「あ、形じゃなくて『さ』と『か』の位置が」
「あ名前の話? どおりで似てるなと思った…今の説明だと『かささまぼこ』の可能性もあるよ」
「そのユーモアは笑えないな」
「誰が言ってんだよ、そもそもさっき形の話してただろ」
「で、食べるとこれが全然おいしくない」
「あ、味も逆さまだからおいしくないんだ」
「日本一おいしくない」
「あ、笹かまぼこが日本一おいしい食べ物だと思ってる人の感想だ」
「で、笹かまでいう尖った部分が鉄製の刃になっていて、それに長い棒が付いてるんだけど」
「冗談でも武器の鉾を口に入れて味わうなよ。良い子がマネしたらどう責任取るつもりだ」
「持ち手の方に刃が付いてるから『逆さま鉾』っていうんだ」
「本当に読んで字のごとくだったな。そんなもの危なくて使えないだろ」
「だから『逆さま鉾』っていうのは『順序を逆さまにすると、上手くいかなかったり、命を危険に晒すことにもなる』っていう意味のことわざなんだ」
「新しいことわざ作るな! もういいよ」
これはやばい。もう真夜中なのに。ずっと見ちゃう。終わらない。眠れないほど面白い!
深夜のリビングで、私はノートPCを開けていた。サブスクで配信されてるタイのドラマ、次の展開が気になってどんどん見ちゃう。1話終わったらノータイムで次のが始まるから止められない。
ルームシェアしてるナオは自分の部屋に入ってたぶんもう寝ている。さすがに夜中まで音出してたら迷惑だよね。部屋にテレビはなくて、ナオはあんまりドラマに興味ないみたい。どっちかっていうとバラエティ? お笑いが好きって言ってたかな。
あと1話、と思ってマグカップに口を付けたら、コーヒーが冷めてる。その冷たさでふと我に帰ると空気がひんやりしているのに気づいた。やだ、寒いかも。
「まだ起きてたの?」
声に驚いて振り返ると部屋の入り口にナオがいた。
「ナオ!? なんで?」
隠し事がバレた子どものような反応をしてしまう。
「この部屋寒くないか?」
私の態度も気にせずナオはエアコンを調整してタオルケットを掛けてくれた。
「あ、ありがと…。怒らないの?」
「何に?」
何にって…、何にだろう。
「夜中まで起きてて…、隠れて配信ドラマ見てて…」
「お互い大人なんだから、そんなこと気にしないよ。一緒に暮らしている分、一人の時間は大切にしないと」
そっか。そこはルームシェアを始めたときに話し合ったルールだ。
「見られたくない趣味だってあるだろうし。お互いね」
そうだよね。ナオにもそういう趣味があるのかな。
「あー、でも見られちゃったなー。タイの配信ドラマ見てるの」
「そんなに変な趣味かな?」
「変じゃない?」
ナオが顔を背けて言葉に詰まる。やっぱり変だと思ってるじゃ…。
「実は、私も、部屋で同じドラマ見てた…」
ナオが照れくさそうな顔を隠している。
「えーうそ! だったら隠すことなかったじゃん! 一緒に見ようよ!」
「いやいや、こういうドラマは一人で見るもんかなって」
逃げようとするナオを放さない。
「もう遅いです〜。ねえ、キエトとアスニ、どっち派? せーので言おう!」
「キエト派」
「アスニ派」
「そこは違うんだ〜、あははっ」
またひとつ、ナオと同じところと違うところが見つかった。二人だけの眠れない夜は続いていく。
キヨコはよく夢を見た。とても鮮明で現実と区別がつかなくなることがよくあった。そんな時は決まって『ゆめ診断師』を探した。『ゆめ診断師』は自分がそう呼んでいるだけで、実際にそんな職業があると聞いたことはない。
『ゆめ診断師』はキヨコが探せば必ず現れて、キヨコが「これは夢ですか?」と聞けば必ず「ええ、そうですよ」と答える。するとすぐにキヨコは眠りから覚めるのだった。
何度も経験したから、これはキヨコの夢の中で起こることで、そもそも「これは夢かしら?」と思うことも、夢の中でしか起こらないと理解していた。『ゆめ診断師』は夢だからこそまかり通る不思議なイベントなのだと思っていた。だから日常生活で誰かに話したことはないし、目が覚めているときに意識することもなかった。
その日、キヨコはアルバイトをしていた。すると自分から少し離れたところに『ゆめ診断師』がいるのを見つけたのだ。
キヨコは目を疑った。なぜなら彼はキヨコが生み出した空想の産物で、現実世界にいるはずがないからだ。顔も風貌も着ているものも、すべてが夢で見る『ゆめ診断師』と同じだった。
こんなことは初めてだ。あれが『ゆめ診断師』だとしたら、いま私は夢の中にいるということなのか? 自分が夢だと自覚していない時に、目覚めて現実に戻りたいと思っていない時に、向こうから『ゆめ診断師』が現れることは一度もなかった。それに私はいまが現実だと自覚している。
動揺は次第に恐怖に変わっていく。イマジナリーの存在なんか作るべきじゃなかった。いや好きで作ったわけでもない。
だんだんと、これが夢ならと思えてきた。そうか、いま、私はこれが夢か現実か分からなくなってきている。いまなら、聞いてもいいんじゃないか? あの人に「これは夢ですか?」って、いつものように聞いてみたら、いつもみたいに夢から覚めて…。
でも、もしそうじゃなかったら。この際、変な人だと思われるのは仕方ない。でも、あの人が現実にいることが確定してしまったら、私はこの世界で生きていける気がしない。もうこれが夢じゃないなんて信じられない。
ふと、バイト仲間のユミちゃんが彼に近づいていった。そしてこう告げたのだ。
「これは夢ですか?」
その瞬間、目の前が真っ白になって目が覚めた。
「なんか、最近さよならって言ってない気がする」
「何を急に」
「ねえ、さよならってどういう時に使う?」
「え、どっかで人と会って、帰るときとか、あとはお店から出るときとか?」
「なんかよそよそしくない?」
「ん?」
「なんかフレンドリーじゃないっていうか、普段そんな言わないよな」
「んー、言われてみれば」
「ビジネス、会社だったらさ、『失礼します…』じゃない?」
「あー確かに、会社でも得意先と商談したときでも『失礼します』って言うな。ホスト側は『ありがとうございました』だな」
「なんなら次の予定があったら『また!』とか『また今度』とかの方が気持ちいい」
「ああ次を想定してる感じはいいね」
「子どもの頃は毎日『さようなら』って言わされてたよな」
「帰りのホームルームな、あったな」
「みんなでいっせいに『さよーならっ!』て、あれ誰に向かって言ってたんだよな」
「儀式すぎたな」
「形骸化してるよな」
「あーでも。一個だけ気づいちゃった」
「なに?」
「完全に『さよなら』使ってるところあったわ」
「うそ〜、やめてよー、どこどこ?」
「サヨナラホームラン」
「わー! 言ってる! 毎回言ってる! あいつら子どものまんまだ。何も変わってない。野球小僧がそのまま大人になってるから。だからまだ『サヨナラホームラン』なんて言っちゃうんだ」
「大谷なんか野球少年のまんまだなんていつも言われてるもんね」
「それ変えよう。オレたちでそれ変えちゃおう」
「えー、サヨナラホームランを放ちました高橋選手です! 見事なサヨナラホームランでした!」
「あ、どうも。あのそのー、サヨナラじゃないんです」
「え? は?」
「サヨナラって約束なしのお別れなんで」
「急に山口百恵ですか?」
「せっかく来ていただいたお客さんにさよならするのは失礼なんで」
「では、なにホームランですか?」
「明日も来ていただきたいんで『また明日ホームラン』でお願いしまーす!」
「これでいいのかな」
「完璧でしょ」
「なあ、今週のプルス読んだか?」
切り出したのは、いつものように俺の部屋に上がり込んでロング缶を引っかけ始めたスグルだ。
「え? 一通り読んだけど、なんの話?」
無造作に床に置いてあった週刊少年プルスを手に取り、手渡すと、パラパラとめくり始めた。
「ここ、新人賞のページ、麦飯ねこ、佳作取ってる」
そんなアマチュア漫画家のペンネームを言われても知らないけど。そう思いつつ、スグルが次に何を言い出すのかを想像して心臓がキュッと締まる。
「これ、砂川ミネコだよ」
透明な水の入ったグラスに、真っ黒いインクが一滴落ちた。
「うそ」
反射的に出たその言葉に、意味なんてなかった。砂川ミネコ、専門学校の大教室、教壇から見て前から2列目、入り口側から見て一番奥、デカい丸メガネでじっと講師を見ていた目立たない女性。
「なんで、あいつが?」
揺れる。黒いインクは病巣が巣食うように無数の黒い枝を伸ばし、透明な水を染めていく。
専門にいたときは何ひとつ目立った結果を出してなかっただろ? 課題だって印象に残ってないし、評価だって高くなかった。なんで、俺より先にあいつが?
プルスのページをじっと見つめる。絵のタッチは好みじゃない。全然上手いとも思わない。こんなのが。俺より。選考員の講評が書かれている。
【絵は荒削りで、掲載レベルには達していませんが、テーマに強い意志を感じました。これが描きたいという熱意が伝わってくる力作でした。】
「なに? 嫉妬してんの?」
こいつ俺の反応見て嗤いに来たのか。嫉妬? そうか、嫉妬してるのか。
黒いインクはグラスの外側を覆うように拡がり、たった一滴で液体を満たした。
「そうみたいだな。ものすごく気分が悪い」
俺がそう言うと、スグルは本当に嗤い始めた。
「にゃはは、うん。それでいいんじゃない。俺も、すごくムカついてる」
なんだよそれ、だったらこんなとこで傷を舐め合ってる場合じゃないだろ。
深夜、スグルは酔っ払ってそのまま寝てしまったようだ。私はスグルの睡眠を気にするつもりもなく、いつものようにラジオを点けた。
『えー次は、ラジオネーム《オーボエの遠吠え》』
黒く濁った液体に、白いインクが大量に流れ込む。グラスの中は白く見える。
脳に浮遊感を覚えながら、俺は虚ろな眠りへと落ちていった。
「こいつはまだずいぶんかかりそうだな」
夢の中で、スグルの声が聞こえたような気がした。