カレンダーをめくると、部屋はたちまちクリスマスの装いになった。一年の終わりを感じずにはいられない。これからは、この壁を見ては来年までの距離を確かめる日々だ。どんな歩幅で歩いても、暦は残酷に過ぎて往ゆく。ならいっそ歩みを止めてしまおうか。
『コウタ、年末は実家戻ってくるの?』
スマホでメッセージを打ち込んでみて、すぐに消去する。送信してしまったら、足元の道がぬかるんでいくような気がした。連絡をして来ないのは、向こうが気を遣ってくれているからで、その思いを無下にするのも悪い気がする。
・・・そう思いたいだけなんじゃないのか。本当はもうコウタは俺のことなんて忘れてるんじゃないのか? 高校時代のノリで止まっているのは俺だけで、大学生になったら新しい友達とか彼女とかいて、もう地元の連れのことなんて眼中にないんじゃないのか?
気づいたら膝まで沼に浸かっていた。参考書の文字を目で追っているのにノートは一行も埋まっていない。最近はこんなことばっかりだ。
また一年。カレンダーを見上げる。3ヶ月先にゴールテープはあるのか。本当は15ヶ月先なんじゃないか。いや、いやもっと・・・。
そもそも俺はちゃんと歩いているんだろうか。沼に浸ったまま居心地良く微睡んでいるだけなんじゃないだろうか。
「ゆーきーとー!」
俺の名前だ。え? 呼んでる?
頭上に手が差し伸べられている。
「窓開けろよー!」
コウタの声だ。嘘だろ。俺は慌てて部屋の窓を開ける。
俺がその手をつかむと、ぐいと引っ張り上げられた。
「あ、いたいた! おーい、出てこいよー!」
コウタの顔を認めると、部屋を出て階段を駆け下り、スニーカーの踵を踏んづけて玄関を出た。つんのめって転びそうになる。
「っはは、なによろけてんだよ。お前一日中家にいるんだろ」
「うっせーな。いきなりどうしたんだよ」
悪態を吐きながらスニーカーを履き直す。心臓が弾んでいた。
「歩こうぜ、キャンパスライフの自慢話しにきた」
「うぜー。帰ろっかな」
俺はしっかりと地面を蹴って歩き始めた。
彼にとって最後の大会だった。高校生活の大半を費やしたバドミントン部の大会、結果は県大会の3回戦敗退。彼の目には大粒の涙が溢れた。支えてたなんておこがましい。私は彼のがんばっている姿を見て好きになっただけだ。でも彼は、試合に負けたすぐあとで、私に向かって「ありがとう」と言いながら泣き崩れた。
「泣かないで」なんて言えなかった。
次の休日、私たちは映画を見に行くことになった。彼の練習があるからデートなんて行ったことがなかった。彼もこれから受験勉強に本腰をいれるはず。もしかしたら、入試前、最初で最後のデートになるかもしれない。
映画は私が見たかった恋愛モノ。運命に翻弄されながら出逢いと別れを繰り返す男女のはかない恋物語だ。彼は興味ないだろうなと思いながらも、提案したら快く了承してくれた。「俺、この女優さん結構好きだし」という言葉にはムカついたけど。
上映時間が迫る。私たちはお決まりのポップコーンを真ん中に置いて、隣同士座席についた。ずっと部活で疲れてるだろうし、寝ちゃうかなとも思ったけど、彼は真剣に映画を見ていた。
クライマックスに向かい、映画は心揺さぶるシーンが続く。その中で彼は…。寝ててくれればまだよかった。
まさかこんなに、
周りが迷惑するぐらい号泣するとは…。
「あの、ねえ、ちょっと、私の隣で、大声で泣かないでもらえるかな…」
手袋を着けたらそろそろ、マフラーを着けたらいよいよ。冬のはじまりだ。
「へー、ナオってネックウォーマーするんだ、かわいい」
出がけに準備をしていたら、カナデが言ってきた。
「ちょっと前までマフラーしてたんだけどね。ネックウォーマーの方が首から上、ここの、耳まで隠せるのがいいんだよね」
寒い日は耳が一番冷えるというのが私の培った経験則だ。
「そーなんだ。私 髪の毛で耳隠れてるから思ったことないや。髪上げたら寒いのかな」
そっか、カナデは長い髪が耳を覆っている。それだけで体感が変わるんだ。
「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
カナデは今日も在宅ワークらしい。寒いときは極力外に出たくないんだとか。買い物も昼間に散歩ついでに行くと言っていた。
一歩家を出た瞬間から、乾いた空気を肌で感じた。空は透き通り、遠くにあるビルまでくっきり見える。そこかしこから、色を失った枯れ葉の匂いが運ばれてくる。
「さぶっ」
心持ち静かで寂れた世界が始まる。寒さは堪えるけど、この季節は嫌いじゃない。北欧デザインの装身具に身を包んでいると、心まで装った気分になる。街も装いを深めていく。
「先生!これ、どういうことですか!?」
夜遅く担当編集が仕事場に押しかけてきた。手には私が送った原稿が握られている。
「原稿は締め切りに間に合わせたはずだが。何か問題があったかな?」
「問題もなにも! あと3話で終了なんて! 聞いていませんよ!」
担当者は強い口調で言った。だいぶ怒っている。
「作者は私だ。物語の結末は私が決める」
当然のことだ。
「終わらせないでください…」
「え?」
「終わらせないでください!」
始まった…。いつもいつも出版社の都合で継続させられて、読者には展開がつまらないだの、飽きてきただのと貶められる。そうやって私の作品が汚されるのはもうたくさんだ。
「私の…私の代で、この作品を終わらせるわけにはいかないんです」
「ずいぶんと自分勝手な理由だな」
「私の、私のキャ…」
「君のキャリアなど知ったことか」
「私のきゃわいい姪っ子が、この連載を毎週楽しみにしてるんです!」
「はあ?」
担当者は私に向かって突進してきて、スマホを取り出し子どもの写真を見せてきた。
「近い近いちかい! 見えない! 」
老眼で見えない!
「なんであなたに見せなきゃいけないんだ。個人情報だぞ」
「いや君が見せてきたんだろ」
パニックでおかしくなってる。あまり見られない人間の本性だ。
「尊敬されてるんだ…。姪っ子に」
「はあ?」
「先生の原稿を一番早くもらって、一番最初に姪っ子に見せて」
「おいおいおい何やってるんだ君は!」
「カズおじさんすごいって、お友達みんなに自慢できるって」
「そんなことのために私の作品を使うな!」
「姪っ子、お友達から予言者って呼ばれてる」
「身内からリークされてるじゃないか! いますぐやめなさい!」
「ちょっと隣いい?」
「ん? うん」
屋上は風が吹いている。
「泣いてた?」
「えへ? 泣いてない」
「泣きたい気分?」
「そんなことないよ」
「俺は泣きたいな」
「なにそれ」
「今日さ」
「うん」
「ここに来る道で、サザンカが咲いてた」
「おー、寒くなるね」
「ね、あったかいごはん食べないと」
「だね」
二人は肩を寄せ合った。
「明日晴れかな」
「ずっと晴れだよ」
「そうなの? 雪、降らない?」
「東京の冬は、ずっと晴れだよ」
「そっか、よかった」
「なんで?」
「洗濯物、ずっと干せる」
「それは、よかった」
「明日お弁当作るよ」
「やった、楽しみだ」
「あ、でも、今日の残りものも入れていい?」
「なんで?」
「今日を思い出せるように」
「いいね、楽しみだ。…今日は、いい日だった?」
「うん。終わってみたら、きっといい日になる」
「それはよかった」
二人は向き直ってお互いを見つめた。
「ありがとうね」
「なんで?」
「いっぱい泣けた」
「泣いてないじゃん」
「んーん、ずっと泣いてた」
「そっか、じゃあ、よかった」
「うん」
「戻ろうか」
「うん」
そうして二人は部屋へと戻った。