「ちょっと隣いい?」
「ん? うん」
屋上は風が吹いている。
「泣いてた?」
「えへ? 泣いてない」
「泣きたい気分?」
「そんなことないよ」
「俺は泣きたいな」
「なにそれ」
「今日さ」
「うん」
「ここに来る道で、サザンカが咲いてた」
「おー、寒くなるね」
「ね、あったかいごはん食べないと」
「だね」
二人は肩を寄せ合った。
「明日晴れかな」
「ずっと晴れだよ」
「そうなの? 雪、降らない?」
「東京の冬は、ずっと晴れだよ」
「そっか、よかった」
「なんで?」
「洗濯物、ずっと干せる」
「それは、よかった」
「明日お弁当作るよ」
「やった、楽しみだ」
「あ、でも、今日の残りものも入れていい?」
「なんで?」
「今日を思い出せるように」
「いいね、楽しみだ。…今日は、いい日だった?」
「うん。終わってみたら、きっといい日になる」
「それはよかった」
二人は向き直ってお互いを見つめた。
「ありがとうね」
「なんで?」
「いっぱい泣けた」
「泣いてないじゃん」
「んーん、ずっと泣いてた」
「そっか、じゃあ、よかった」
「うん」
「戻ろうか」
「うん」
そうして二人は部屋へと戻った。
ピピピ、ピピピ。音が鳴って体温計を引き抜くと、デジタル表示は37.3℃ 。
「うーん微熱だ」
体に怠さはあるものの、平気で動けるレベル。さりとてこのご時世で、ましてやパン屋さん、食品を扱うお店だ。休むしかない…か。欠勤が収入に直結するのがパートタイムアルバイターの苦しいところだ。
店長に連絡を…。だいぶ早い時間だな。電話で起こすのも申し訳ない。欠勤時の連絡ってすごく気を遣うな。まずはメッセージ送って、いつもの朝礼の前ぐらいに電話してみるか。
メッセージを送って1分も経たないうちに返信が来た。
『ヤマノさん!』 『大丈夫?』『一人暮らしよね?』『食べ物あるの?』
うはっ。店長から怒涛のお母さんラッシュが繰り出される。起きてたんスか。あ、パン屋さんだもんな。
『微熱なんで、大丈夫です。ご心配おかけします』
『動けるなら病院行きなさいね』『この時期インフルも大変なんだから』
動物病院なんか行かないって。インフレは政府がなんとかしてくれ。店長こんなときにボケてこないで…ってあれ? そんなこと書いてくるわけ、あれ?
あ、これ、熱上がってるな…。
病院に着いたときには悪寒がひどくなっていて、歩くのもやっとだった。39.3℃ 。インフルエンザだった。
病院の帰り道、商店街を通り過ぎると、後ろから呼び止められた。
「ヤマノさん、全然大丈夫じゃないじゃない」
わ、店長。ジャナイジャナイは陽気すぎるよ。なんか私、お笑い感度が高くなってるな。違うか。
「店長、ご心配おかけしてます」
お互いマスクはしている。
「あ、とぉ、インフルでした」
合ってるよな。インフレって言ってないよな。
「ほら、ちゃんと病院行って良かったでしょ。よくなるまでしっかり休みなさい。年末には戻ってきてもらうんだから」
そのお心遣い、痛み入ります。
「あ、それとこれ、お店終わったらあなたのお家に行って渡そうと思ったんだけど、いま会えてよかったわ」
店長の手にはレジ袋。中にはどっさりレトルトのお粥が入っていた。
「そこはパンじゃないんですね」
「弱ってるときは消化にいいお粥が一番。こんなときにパンなんか勧めたらパンを売る資格ないわよ」
さすが店長、リアリストですね。推せるわー。
「お仕事は何をしてるんですか?」
合コンなんかで聞かれたときは、こう返すようにしている。
「僕は太陽の下で働いています」
するとだいたい仲間からは
「なにカッコつけてんだよ。現場で仕事してるだけだろ」
とツッコミが入る。そう、僕は建設現場で働いている。でも、太陽の下で働くということに僕は強い思いを持っていた。
「おめぇまた泥棒しやがったな、チクショウ。まだガキだから盗ったもん置いてったら許してやる。早く出せ」
僕は幼い頃から貧乏で、腹を空かせてはよくスーパーで盗みを働いていた。見つかっては叱られるを繰り返していたけど、スーパーのオヤジさんの言葉は耳に届かなかった。
「いいか、いつだってお天道さまは見てるんだ。お天道さまから目を背けなきゃいけねぇような生き方はやめろよ」
仕方ないじゃないか、お金がないんだから。ずっとそう思っていた。そしてあるとき、僕は大変なことをしでかして、少年院に送られることになった。
僕を引き取りに来たのは、親ではなくスーパーのオヤジだった。それからオヤジさん夫婦は僕のことを辛抱強く育ててくれた。
いつも「お天道さまの下で働けるようになれ」と家訓のように言っていた。だからいま、その仕事ができているのがただ誇らしいんだ。
「ねえ、この後も飲みに行かない。夜中までやってるお店知ってるから」
合コンの終わり際、相手側の人に誘われた。
「いや、遠慮しときます。お天道さまの見えないところに行くわけにはいかないので」
こわい、こわくない、大丈夫、痛い、痛くない、やっぱり痛い、大丈夫、死ぬわけじゃない、ほんの一瞬、ちょっと痛いだけ、でもどのぐらい痛いかわからない、お願い痛くしないで…
私は目をつぶって深呼吸をした。よし、行くよっ。ゆっくりと右手を前に出して、鉄のかたまりに触れ
「そんなに怖いなら、私から触ろうか?」
急に話しかけられて、びっくりして振り向く。そこにはオレンジ色のトレンチコートを着てエコバッグに食材を買い込んだナオがいた。
「ナオ! 同じタイミングだったんだね、おかえり!」
一緒に暮らしていても、帰宅時間が同時になるのはあんまりないから、ちょっと嬉しい。
「ただいま。で、何をためらってるの?」
いざ問いただされるとちょっと恥ずかしい。
「えっと、静電気…」
「やっぱりそうか」
そう言うとナオはおもむろにドアノブを握った。その瞬間にバチバチッという音が聞こえた。やー痛い痛い! でもナオは何事もないようにドアを開けた。
「玄関先で神妙な顔してるから、何かあったのかと思ったよ」
夕飯の支度をしながらナオがさっきの場面を振り返る。
「だって静電気こわいんだもん。今日ほら、セーター着てるし」
今朝はだいぶ冷え込んでいたから、お気に入りのピンクのセーターを着込んでいた。
「てかナオは平気なの? さっきもすごい音してたよ。バチバチって」
「ああ、そういう痛みには強い方かな。注射とかも全然平気」
へー、うらやましい。
「私なんて音を聞いただけで『痛い』ってなっちゃうのに」
「まだまだお互い知らないことあるな」
「え?」
「冬になって初めて知ったよ。カナデの弱点」
春から始めたルームシェア。たしかに生活を続けているとどんどん知らないことは出てくる。その発見の連続が楽しみでもある。
「私がいるときはいつでも言ってよ。ドアを開けるぐらいお安い御用だから」
「ありがと〜、頼もしいパートナーがいて、私ゃ幸せだよ〜」
食事を終えてリビングでまったりタイム。
「キャッ!」
という声と同時にバタバタと物音が聞こえた。ナオの声。私は急いで声のする方へ向かう。洗面所へのドアが少し開いている。金属部分に触れずにドアそのものをつかんで開ける。
「ナオ! 大丈夫?」
洗面所には腰が抜けたようにのけ反って倒れ込むナオの姿があった。私の声にナオは洗面所の隅っこの床を指差す。
そこには黒いモノが佇んでいた。なぁーんだ。私は思わずにやけた。
私は洗面所の下の収納を開け、常備してある殺虫剤をサッと手に取るとナオの脇をクルッと一回転して(ぐらいの気持ちで)抹殺対象との間に割り込んだ。ターゲットを捕捉すると、一直線に銃口を向け、躊躇せずトリガーを引いた。
シューッという音とともにターゲットは悶え苦しみ、そして動かなくなった。ナオはその光景を口を開けたまま凝視していた。
「ま、私がいるときはいつでも言ってよね。こんなのお安い御用だから」
「カナデさん、頼りになります…」
ナオの弱点みぃつけた…。まだまだお互い知らないことがたくさんある。
地面を足で蹴って空を駆け、鉄の棒を支点に頭上に脚を通過させる。初めて重力に抵抗したのは、いま思えば逆上がりだったかもしれない。僕は逆上がりが苦手だった。
いや、苦手どころか授業中にできたことは一度もなかった。そのくせ中学生になって戯れで鉄棒を握ってみたら簡単にできた覚えがある。
結局のところ、あれは何を測られていたのだろう。もっと大きくなればできることを、小学生という発育に差がある時期にさせられて、ただ不用意に劣等感を植え付けられるだけの時間だった。
挙げ句「がんばれ〜」などと囃される。他人からの応援を素直に受け取れなくなったのはあの頃からだ。
川を見るのが好きだった。川の水は、上流から下流へと流れていく。階段の上でボールを押せば、下の階に転げ落ちていく。だれも避けることのできない落ちていく力。重力。
僕は落ちていくのを楽しみたかった。抗えない力に身を任せながら、それでも抵抗してみたかった。
僕は今から10メートルを1.42秒かけて落下する。でも、ただでは落ちない。僕は飛び込み板に足をかけ、勢いよく蹴り出した。