「ススキって、こんなにキレイだったんですね」
私はカフェのマスターに向かってつぶやいた。
「ああ、秋にならないとわからないもんだよね」
タクシーで駅まで向かう途中、ススキの草原の横を通った。日が暮れかけて赤らんだ空に、輝くススキは黄金の絨毯のようだった。
「秋にならないと…ですか」
「特にこの夏は暑かったでしょう。背の高い緑色のススキは暑苦しいからね」
いまは白い穂先が枝垂れかかっているススキが直立して並んでいる姿を想像してみると、たしかに暑苦しい。そういえば前に来た時は前を通っても何も感じなかったな。
営業先に近いこの駅を利用するようになって、このカフェの存在を知った。木製の調度品とマスターの落ち着いた雰囲気が気に入り、商談の後にたびたび立ち寄るようになった。今日、店の前を通りかかったとき、店先にススキが飾られていた。
「お月見の季節だからね、うちではお団子出してないけど」
月見に団子。伝統的な日本の風景の中に、たしかにススキはある。
テーブルの上に小ぶりなバウムクーヘンが置かれた。え、頼んでない。
「ススキを見て入ってくれたお客さんにはサービスだよ」
「あ、ありがとうございます」
木の年輪になぞらえられるバウムクーヘンだが、今日はまんまるお月さんに見えた。フォークを入れると欠けていく。口に運ぶとバター風味の柔らかい味が広がる。
「今日の商談、あまり手応えがなくて」
粋なスイーツの甘い味わいに心が緩んでしまったのか、私はマスターにお悩み相談を始めてしまった。
「なんというか、相槌は打ってくれるんですが、聞いてるのか聞いてないのかわからなくて」
「お相手も忙しかったんじゃないかな」
マスターの声に顔を上げる。
「忙しい人にはコーヒーを飲んでもらうのも難しい。相手の様子を見ながら、引くときは引かないと」
「でも、せっかくアポイントを取って、こんな…」
言いかけて詰まる。こんなはダメだ。
「せっかくこんな田舎町まで出向いたのに、でしょ?」
そこまで思ってないが、…その通りだ。
「…すみません」
マスターはくすくす笑った。
「ここもね、若いうちは全然お客さん来なかったんだ」
マスターは目を落として、洗い終えたカップを拭き始めた。
「自分ではちゃんと研究して、いい豆も選んで出してたんだけど、なかなか信用してもらえなくてね」
私は黙って聞いていた。
「若造の出すコーヒーなんて、見向きもされないわけ」
そんなこと…。
「きっと気付かれないんだよ。夏のススキみたいにね」
それじゃあやってる意味がない。
「でもね、きっと見てる。必ず目の端には入ってるんだよ。そこに居続ければ」
「邪魔をしないように黙っている日もあっていい。それでも存在感を示し続けること。そうすればいつか、ススキみたいにたくさんの人に見てもらえると日が来るよ」
「そういうもんですかね」
なんだか言いくるめられている気がするが、マスターのコーヒーを飲んでいるとそんな気がしてくる。
「それに、相手にされなかったときは、この店に来ればいいじゃない。いつでも相手になるよ」
見事に言いくるめられた。私は思わず笑ってしまった。
「マスター、それ都合良すぎ」
そうしよう。ダメだったときはここに来よう。ススキのように項垂れながら。
「ミオリは絵が下手ね」「また何か描いてるの?」「そんな意味のないことしてないで、将来のためにお勉強しなさい」
それはある種の呪いになって、私の脳裏に刻まれた。
今思えば母に絵画の何がわかっていたというのか。子どもの頃の私にとって母の言うことはすべてが真実であり、母の否定するものは偽りだった。
描くことが好きという自覚がない時期に、描くことを否定された私の人生は、美しく描かれたものから逃げ回る日々だった。絵を見るたびに私は、なぜか罪悪感のようなものを感じた。見るたびに心の中で拒絶しては、好きなものを汚しているような気持ちになっていた。
私は母の言う通り勉強をした。それは苦しいことではなかった。高校での成績はトップクラスで、有名な大学でいくつもA判定が出ていた。
「あらミオリすごいじゃない。このまま行けば立派な会社に勤められるわ」
この頃には気が付いていた。勉強をしなさいと言われて勉強をする子は、いくら優秀でも、いくら立派な会社に入っても、立派な仕事はできない。やりたいことがないのだから。
デザインは、イラストは、世の中に溢れていて、私に見てくれと迫ってくる。私はそれらを、必死に目をつぶって避け続けた。たぶんそれは嫉妬からだったんだろう。意味のないことに、人生に必要のないことに、こんなにも多くの人たちが、たくさんの才能を発揮している。
その日、私は母と二人でデパートに行った。父の誕生日のプレゼントを買うためだった。用事を済ませて歩いていると、催事場で若手芸術家の展覧会が開かれているという案内を見つけた。無料ということもあり「ちょっとのぞいてみましょうよ」と母が言い出した。
私はその言葉に、少しの緊張を覚えた。
「素敵な絵ね。とっても繊細に描かれている」
母はこの展覧会で一番大きな絵を眺めていた。母が絵画に興味を持つことに私は驚いたが、とても陳腐な感想を口にしていてホッとした。
この絵はまず大きなキャンバスを大胆に使ったスケール感の大きさに魅せられる。鮮やかな原色を広く配置し、その中で戯化された人物たちが表情と姿勢で意思を交わし合って、見る人にメッセージを届けている。もちろん私個人の感想だ。
…私は絵を避ける日々を送っていながらこんなことがわかるのか。
「でもきっと、この絵を描けても食べていけないんでしょうね」
私は大きく目を見開いて母を見た。その表情をしっかりと見て、その真意を確かめたいと思った。私は脳の裏側が溶けていくのを感じた。こんな人に私は、こんな人に人生を…。
デパートの中のカフェで二人座ってコーヒーを頼んだ。私は母の目を見て切り出す。
「大学に行ったら一人暮らしをする。東京の大学に行って、立派な会社に入るよ」
母は一言「そう」とつぶやいて笑顔を作ったが、それからひどく悲しそうな顔をした。
勉強をしなさいと言って勉強をさせる親は、子どもに立派な大人になれと言う。でも本当は、立派な大人になんてなってほしくはない。ずっと自分に忠実な子であってほしいと願っている。
私は大学を卒業し、立派な出版社に勤め始めた。絵画や美術の専門誌を出版し、展覧会の協賛などもしている。一般誌に美術展レポートやアーティスト紹介のコラムも出稿している。
やるべきことが定まった。私は芸術で食っていく。意味のないことに生きる人たちを食わせていくために。
——母に復讐するために。
——母に恩返しをするために。
——母の呪いを解くために。
「それ、聞く意味ありますか?」
う、言っちゃった。さすがに向こうの方が立場は上だよなぁ。しかもビジネスの場だもんなぁ。バカな女だと思われるかなぁ。でも我慢できなかった。
「意味がなかったら、聞いちゃいけないんですかね」
ん?あれ?そういう反応?動揺もしてないし怒ってもいないな。
「今の質問は、私が興味があるから聞いたんです」
うーん、言い分はわかったけど、やっぱりキモいか。
「答えないとダメですか?今回の商談とは関係ないように思うんですが」
恐るおそる聞いてみる。さすがに、パワハラとかセクハラに当たるかもしれない。返答によっては。
「あ、失礼、嫌でしたら答える必要はありません。もう打ち合わせでお話ししたいことは一通り終えておりますので、単純に私が聞きたいことを質問したまでです。そう、聞かれたので」
「あ、やだ、確かに、その『これまでのことで何かご質問はございますか?』って私が言ったんですよね。失礼しました」
こちらが笑うとあちらも少し笑い始めた。いーや違う違う違う。
「ですが! 私は『これまでの商談に対して』質問があるかと聞いたのであって、関係ない、あなたが私にしたい質問をしてほしいわけでは…」
「それはわかっています」
相手はさえぎって切り出した。やべ、ちょっと強く出すぎたかも。
「ですが私は、お会いした方みんなに聞いてるんです」
やっぱり変な人だ。なんでこんなことを。
「ちなみにそれは、なんで?」
「あ、これって、場の空気が和やかになる質問として有名なんです。よくラジオ番組なんかでもゲストが来ると必ずこの質問をすればひとくだりつなげるというか。今回は、こんな空気に、なっちゃいました、けど」
あー良かった。変な人だけど怖い理由ではなかった。正直、いきなりあんなこと聞くから告白でもされるんじゃないかと思った。いや、それは自意識過剰だろ。
「ニラ玉です」
安心した私は、質問の答えをサラッと伝えた。
「え?」
「好きなおみそ汁の具は、ニラ玉です」
相手の顔がぱぁっと明るくなる。
それから私たちはひとくだり盛り上がって、連絡先を交換し合った。数年後、まさか毎朝、彼にニラ玉のおみそ汁を作ることになるとも知らずに。
——
「出たよ『イマツマオチ』、どうせ作り話だろ?」
パーソナリティの二人がゲラゲラ笑う。
「そんなことないって、ほら、奥さんと連名で、名前書いてあるじゃん」
「いやーそれにしてもあれだね。毎回ネタがなくて、意味がない質問を繰り返してたけど」
「『好きなみそ汁の具』ってやつな」
「こういうお便りが来ると、意味がないことなんてないな、世の中」
「お前それどういうまとめなの?ひどくない?」
この番組は、今日もみそ汁の具でひとくだり盛り上がっていた。
貴方と私の関係は、切っても切れないものです。日毎貴方は私に食事を与えてくれます。貴方は私に心地よい部屋を与えてくれます。貴方は私の顔を見つめて、にこっと笑ってくれます。私は貴方の目を見つめ、ノドの奥を鳴らすことしかできません。それでも貴方は「君がいてくれてよかった」と言ってくれます。「君がいてくれるから、私は生きていられるのよ」と。貴方がいなければ生きられないのは私の方なのに。貴方は時折、ニオイのない箱をのぞいては、哀しい顔をして私の部屋から去ってゆくのです。夜毎私は独りになります。
あなたとわたしの関係は、断ち切ることができないほどもつれて絡み合ってしまった。わたしはあなたに会いに行っては、涙を拭きながら帰っていく。あなたの酷い仕打ちに何度遭ってもあなたから連絡が来れば足を向けるのを止やめられない。これ以上あなたとの関係を続けても、想いの激しさに身体を灼かれて、生きているのが苦しくなるだけだと分かっているのに。
貴女と私の関係は、もう修復することができないところに来ていると思うのです。私が他所に女を作ったから? 冗談を言ってはいけません。貴女がそう仕掛けたようなものじゃあないですか。そうやって私の帰りを待つだけが貴女の仕事ですか? そんなことならその、ほら貴女が飼い始めたそこの犬っころだってできることですよ。もうよろしいですか?私はもう行きますよ。今夜も遅くまで宴席があるのでね。
その夜、貴方は私の部屋に厭な臭いの男を招き入れました。この臭いは貴方が朝に帰ってきた時に、貴方に付いている臭いと同じです。私はこの臭いが厭でした。男が貴方に触るのを見て、私は厭な気持ちになって低く唸るような声を出しました。男は私に向かって手の甲を向け、私を退けるような仕草をしましたから、私の部屋に入ってきた余所者はお前だと、大きな声で吠えてやったのです。それを見た貴方は狼狽することなく、しっかと私の顔を見て、男を部屋から追い出してくれたのです。
「アンタが私にしたことを、私は絶対許さない!」あなたを部屋から出した後、外からそんな悲鳴が聞こえた。そのすぐ後に、あなたの叫び声が聞こえてきたけれど、わたしはしっかりと鍵を閉め、部屋の奥に駆け戻った。わたしは君を抱き寄せて「大丈夫だよ、怖くないよ」と言ったけど、君の方が身体を柔らかくして、私のことを包み込んでくれたね。やっぱり私は君なしでは生きていられないな。
アナタはアタシの先輩で、この部屋の主あるじのように振る舞っているけれど、アタシはちゃあんと知っています。あの人の姿を追うアナタの目は尊敬に満ちていて、アタシが入り込めないくらい深い絆で結ばれているんだってこと。でもアタシだってあの人には大きな恩があるんだから。前のご主人様がいなくなって、捨てられそうだったアタシをあの人は拾ってここに住まわせてくれた。だからアタシもアナタと一緒になって、あの人を喜ばせてあげるんだから。
「来たぞー!降ってきたぁ!」
男衆が声を上げる。
「バケツだ!バケツ持ってこい!なんでもいい、カンカンでも巾着でも大丈夫だ!」
村のみんなは急いで外に出て、空から降るものをそれぞれの家から持ち出したバケツや箱や袋で受け止めようとした。
みんなが待ち望んだ、恵みの雨、柔らかい雨だ——
この村に“柔らかい雨”が降るようになったのは数ヶ月前のことだった。初めのうちは誰も気づかなかった。柔らかい雨は地面に落ちれば普通の雨と変わらず土に浸透していく。
ある日その雨が長く降り続いたとき、農作業で使っていたトラックの荷台に雨が溜まっていることに弥助が気づいた。そんなに強い雨ではないように思ったが、荷台には薄らと膜のように水が張っている。水が凍るほど寒い日ではない。弥助がその膜に触れてみると、柔らかかった。
それから村の方々で報告が上がってきた。外に置いていたバケツに溜まった雨が柔らかい、ビニールシートの上に柔らかい水が溜まって崩れそうだ。
そこで寄り合いを開いてみんなが採集した雨を集めることになった。
触ってみると確かに柔らかい。ゼリーのような感触で、しかし掬おうとすれば水のように流れていく。口に含んでみる命知らずもいたが、害はなさそうだ。舌に触れたときに一瞬だけ質感があるものの喉につく頃には液体になっていて無味無臭、水のようだった。
田畑にも被害は出ていない。もともと土には浸透するから地面から溢れることはないし、成分が水なら問題はない。
村の者たちは不思議なオモチャと思って採集したり、興味本位で研究したりとあまり深く考えずに新しい物質と接し始めた。
しかしひと月と経たないうちに、悲劇は起こった。
「痛っ、なんだ?石ころか?誰だオレの頭に石ころ投げたんは!」
農作業をしていた文六が憤慨する。
「石ころ?んなもん投げねーよ。痛っ!ん?」
反論した太兵衛も頭に痛みを感じて空を見上げる。
「雨…か?」
その日降った雨は砂利程度の大きさの粒でも人に痛みを与えるほどの強さがあった。
“硬い雨”が降ってきた。
夜に向けて激しさを増した雨は村の家屋を貫き、茅葺きの屋根は跡形も残らなかった。瓦屋根は貫かれることはなかったが、瓦が割れる被害は続出した。負傷者も多数。トラックや農機具にも被害が出た。
被害の状況から硬い雨の特徴も見えてきた。柔らかい雨と同じく地面に落ちれば浸透する。農作物にも害はない。しかしとても重量があり、物に落ちれば貫通するほどの威力がある。そしてもう一つ。
「あの日、痛い雨から逃げようとして、とっさに川に入ったんです。そしたら雨に打たれてる感覚がなくなって…」
調査チームが村の近くの池や川を調べてみると、魚たちが死んでいる様子はなかった。
詳しく調べると、水に落ちてもすぐに勢いと硬度を失い、普通の水と同化するようだった。
そして村の調査団はこう結論づけた。“柔らかい雨”が“硬い雨”の盾になる。
その日から村のみんなにとって、次に降る雨が“柔らかい雨”か“硬い雨”かは死活問題となった。みんな祈りながら次の雨を待った。そして柔らかい雨が降ると一斉に外に出て、バケツやお盆、お椀、グラス、ボウル、巾着、エコバッグ、ナップザック…雨を受け止められるありとあらゆるものを総動員して柔らかい雨を収穫するのだった。
集めた柔らかい雨で大切なものをコーティングするのが次の仕事となる。雨でハケを濡らして、家の屋根から農機具、ビニールシートなどに塗っていく。日除けのための笠もコーティングすれば硬い雨から身を守る鋼鉄の兜に様変わりだ。
柔らかい雨を帯びた村の家々は、朝日を浴びると虹色の輝きを放ち、幻想的な光景を生み出した。
『虹色の村』
旅の写真家がこのタイトルを付けてSNSで発表した一枚の画像が、全世界を駆け抜けた。写真家はさらにこうコメントを付けている。「生きるために懸命に努力する人のエネルギーは奇跡の光景を生み出す。私はその人々のエネルギーを写真に収めたに過ぎません」。
その後、この村には命懸けで訪れる観光客が世界中から山のように訪れ、みなが柔らかい雨でコーティングした防護服(笠と蓑)を買い求めた。
村のみんなは、今日も恵みの雨を待ち望んでいる。