あたしには、カップルのあいだにある、赤い糸が見える。左手の薬指と左手に薬指に糸がつながっているか、心と心がつながっているかどうか、小さい頃から見えていた。
他の人には見えないのだ、自分だけの能力なのだと知ってから、口に出さないように気を付けて生きてきた。
あたしの目に赤い糸が映るカップルは、どんなに遠距離になっても、困難が訪れても結局むすばれるし、どれだけ仲良さげなカップルも、それがつながっていなければ最終的に破局した。
怖い力だ。知らなくていいことだって、この世にはあるしね。
でも、いまのところこの能力は消えそうにないし、つきあっていくしかない。
問題は、……
「ん? どうかした? 茜ちゃん」
隣を歩く彼を見上げていたあたしは、はっと我に返る。いつの間にかぼうっと見とれていたらしい。
彼は不思議そうにあたしを見ている。
「ううん、何でもない」
そう言うと、彼はそう?と微笑む。優しい彼。出会った時からずっと。
問題は、自分の左の薬指に、この人とつながる糸が見えないことなんだよねえ。
これが、自分のことは見えない特殊能力「あるある」なのか、それとも、運命のひとではないからなのかーー。見極められないのが目下の悩み。
#心と心
「多恵子さん、何かあった?」
殿山くんが言う。シンク前で並んで食器を洗いながら。
食洗機はあるけれど、二人分のワンプレートぐらいなら、手洗いでササッと洗ってしまいたい。
「え、なんで? 何ともないよ」
水で洗剤を洗い落としながら言うと、「そう?」と深追いはしてこない。
「……」
「……」
微妙に気まずい。私はきのう掛かってきた父親からの電話を思い出していた。
いなかの父が、上京してくるという。久しぶりに顔が見たいと。
大学に進学して、こちらで就職してから、実家にはお正月とお盆に帰省するぐらいだ。母が他界してからは、あまり足が向かない。
父はホテルと取ると言っていたけれど、やはり私のマンションに誘った方がよいのではないか。田舎暮らしのひとだし、東京を一人で歩くのも老齢で、たいへんなんじゃ。せめて私のうちに泊めてあげたい気もする。
でも……。
「あのさ、多恵子さん、何でもないフリしなくていいんだよ。何かあったら、俺、聞くから」
遠慮がちに、でもしっかりした口調で殿山くんは切り出す。いろいろ考えた末ということがわかる、声音で。
「何ができる訳じゃないけど、聞くだけならできるから」
「うん。ありがとう」
好きだなあと思う。こういうとき。
8つも年下の、部下のこの男の人が、私は好きだ。まっすぐに私を愛してくれる。
私はぴとっと彼にくっついた。彼はお皿拭きをしていた手を止めて、私を見た。うっすら赤くなっている。
可愛い。
私から背伸びして殿山くんにキスをしながら、私は「問題は、彼と同棲をし始めたことなんだよねえ……」と内心思った。
#何でもないフリ
「紅茶の香り9」
「仲間っていいよなあ」
なんて言うやつを信じちゃいけないよ?
仲間だと思ってたら、そんなことは面と向かって口にしないものだからさ。
#仲間
「おうい、姫子!」
朝。登校中、交差点のところでびっくりするぐらいの大声で呼ばれた。
「天野くん」
見ると、横断歩道の向こうで、彼がぶんぶん手を振っている。
私はおたついた。あ、朝から、あんなおっきな声で。みんな見てるし・・・・・・・んもおおお~
「おはよ、会えたな、ぐうぜん」
駆け足でこっちに渡ってくる。私は、「声、大きいよ。恥ずかしいじゃない」と抗議。
でも、天野くんはにこにこして「なんで?呼んだだけだよ」と私の手を取った。さりげなく。
「え……」
出会った時から天野くんはとても強引な人。でも、私に触れたことはなかった。なのに今朝は、普通に手を握って私の前を往く。
横断歩道を渡り終えたあたりで、私は我に返った。
「天野くん、--手、手!」
振りほどこうとして、できない。天野くんは私に指摘されやっと気づいたみたいに「あ、ああ」と握っている手を見やる。
つないだ手。
「俺たち、天の川の向こうとこっちとに離れてたじゃん? 前世で。だから、弱いんだ、道とか横断歩道とか歩道橋とかに遮られるの。お前が向こう側にいると、いるのを見ると、居ても立ってもいられなくなる」
びっくりすぐほど心許ない目をして、彼は言った。私は彼が私の方に向かって、歩道を駆けてくる様子を思い出す。
「……天野くん」
「ん?」
「私、憶えてないから。っていうか、まだ信じてないし、私たちが前世で織姫彦星だったって。ただ、名前が似ているだけでしょ」
そう言うと、にかっと笑った。
「相変わらずつれないなー。まあ、いいや、行こうぜ。遅刻しちまう」
全然意に介した風もなく天野くんは歩き出す。私の手を握ったまま。
「~~んもう、強引だよ」
困った振りをして私も歩き出す。つないだ手は離さず、私もそっと握り返した。
#手を繋いで
「ちょ、なに、してるんですかっ。痴漢ーーこのひと、ちかんですっ」
車内に、女の子の声が響いた。朝の満員電車。僕の隣にいた子が、顔を真っ赤にさせて眉を吊り上げて。
ギクッと、僕の呪縛がそれで解ける。今まで、見えない力で雁字搦めにされたみたいに、身動きできないし息もできない状態だった。
「な、何をお前ばかなことを、」
背後にいたスーツのおじさんが、うろたえた。女の子は「あたし、み、見ました。あなたが、このーーこの人のお尻、ずっと触っていたの、」とそいつを睨みつける。「ですよね?」と僕をひたと見据える。
勢いに呑まれて、僕はこくこくと顎を引くしかない。でも、情けないことに声は出ない。喉の奥に舌が絡まって張り付いてしまったかのように。
同時にえええええという衝撃が車内に走る。爆心地は僕たち。
そっちかよーという、ずっこけと意外性と。ちらちらと好奇の視線がまとわりつく。
痴漢に遭っていたのが男の僕で、それを告発したのが女の子という構図にいたたまれなくなる。朝っぱらから満員電車に騒動を引き起こしたことが申し訳なくなってきて、胃がしくしくしてきた。
おじさんは、じりじりとドア口に移動しながら「何を、証拠もなしに、お前……訴えるぞ」とまくしたてていく。女の子は「待って。逃げないでください、ちゃんと謝って。この人に」とそいつに縋った。
そこで停車駅に着いて、ドアが開く。人を掻き分けて、おじさんがあたふたと降りていく。
「誰かつかまえて! お願い、逃がさないで」
後追いする女の子。乗客も何人か取り押さえようとするけれど、電車を降りてまでそいつを追っかけてつかまえようとする人はいない。
「あなたも!追っかけますよ、逃がしちゃだめ」
「あ?え?」
ぐいぐいっと袖を控えて、僕はホームに連れ出された。女の子は左右を見回して「あ、あっち! すいません!その人、スーツの人、ちかんですっ。捕まえてください!」と叫ぶ。
しかし虚しく、おじさんの姿は朝の通勤時のラッシュの構内に紛れてしまうのだったーー
「すいません。ごめんなさい」
「……何で謝るんです?」
「いやだって、僕のせいで、電車降りてるし、学校遅れるし……」
駅のホームでベンチに腰を下ろした女の子は、はあああと深い深い息を吐きだした。そして、
「あの、私が言うのもなんですけど。あなた、もっと怒ったほうがよくないですか? 被害者なんですよ?なんでそんなに弱腰なの」
いら立ったように僕を見る。う……。
「男の僕が、痴漢被害に遭ってるなんて、なんか恥ずかしくて。男なのに」
消え入りそうな声しか出ない。情けない。恥ずかしくて死んでしまいたい。
割と昔から、痴漢に狙われるタチだった。気弱な性格を見透かされてしまうのだろうか、それとも、痴漢を引き寄せる何かがあるのか。
慣れていた、とは言わないけれども。
「男とか女とか関係なくないですか。されて嫌なことされたら、すぐに自分で自分を守ってあげないとーーうやむやしにしたら、自分が、かわいそうです」
きっぱりと強い目で言う。僕はまっすぐに言える女の子が羨ましかった。
僕より小さい、彼女の手はよく見ると震えているのだった。膝の上で握られた、細い手。
「……ごめんね、ありがとう。僕のために」
勇気を振り絞ってくれたんだろう。こんなに小さいのに……。
「緊張、したけど。見過ごせなかったの」
やだった、と女の子は噛みしめるように言った。俯いたままで。
「あなたに、誰かがべたべた触るなんて……絶対やだ」
卑怯よ、許せない。そう言う女の子の耳たぶが、真っ赤に染まっていく。
「え……?」
この子、僕のこと、知ってる?
改めてまじまじと彼女を見た。女の子はそこで顔を上げた。目が合う。
女の子は顔を紅潮させたまま、「痴漢、とか許しちゃだめです。だめですよ」と自分に言い聞かせるように繰り返した。
僕は、僕の代わりに怒ってくれる、許さないと言ってくれる彼女がまぶしかった。
「ありがとう……。あの、君の名前、訊いてもいいですか」
そんな言葉を、女の子に差し出したのは、それが生まれて初めてのことだった。
#ありがとう、ごめんね