ボクは猫。部屋の片隅で、今、ご主人さまを見ている。
さいきん、年下の恋人を連れてくるようになった、タエちゃんを。きれいになったタエちゃん。もちろんもともときれいだったけどさ。
「多恵子さん、ねこ、ーーピアノくんがじっと俺を見てるんですけど」
タエちゃんの恋人。とのやまとかいう若造は、ご主人様を抱き締めつつボクをおずおず盗み見る。
どうやら猫が苦手らしい。タエちゃんのところに泊まりに来ると、どこかしら緊張している。
「それは、あなたが珍しいのよ。今までここに男の人、来たことなんてないから」
「なんで名前が【ピアノ】なんですか?」
「ん、実家でね、ピアノの上で丸くなるのが好きだったの。だからピアノくん」
私はピアノ、弾けないんだけどね。とタエちゃんは照れくさそうに笑う。
「へえ……」
それよりも、ととのやまとかいう若造が、タエちゃんの耳にそっと口を寄せた。
「いつになったら俺のこと、下の名前で呼んでくれるんですか?」
「そ、それは……」
いい雰囲気。カップルのイチャイチャが始まる気配。ボクは自慢じゃないが、そういうのに敏感なんだ。
だから腰を上げ、しゅっと二人の足もとに纏わりついた。
「うをっ」
頓狂な声を上げる。ボクはわざとがじがじとやつの足に歯を立てた。
「いて、てっーーピ、ピアノ、かじってる。齧ってますよ」
とのやまはボクが甘噛みしても、タエちゃんを抱く腕を離さなかった。
む。あんがい見上げた根性だ。ボクは、「こらやめなさい、ピアノったら」としきりにボクを引っぺがそうとするタエちゃんを見て、なんだか切なくなってより一層歯に力を込めてしまうのだ。
#部屋の片隅で
「紅茶の香り8」
「どうかしました? ちらちら見て」
冷蔵庫の中からミネラルウォーターを取り出した殿山くんが振り向く。
「あ、ううんっ何でもない」
私は手にしていた雑誌を広げて読むふり。彼の視線を感じたが、文字を追ってそれを避ける。
殿山くんは首をわずかに傾げてボトルの封を切った。湯上り、Tシャツにスウェットというラフな格好にまだ慣れない。
自分の部屋の中に「彼氏」としているという事実にも。
「佐久さん、好きです。上司としてではなく、一人の女性として好意を持っています」
そんなストレートな愛の告白を、30を超えてから8つも年下の男の子にされるとは思ってもいなかった。
まっすぐに迫ってくる彼を見た時、とっさに頭に思い浮かんだのは「しまった」だった。
職場恋愛。直属の部下にこんな言葉を言わせるなんて、私の指導に隙があったのかと。だいいち同じ職場での恋愛には懲りている。うまくいっても気はそぞろで仕事は手がつかなくなるし、うまくいかなくなったらもちろん気まずいからだ。
なのに、そんな私の心の内を見透かしたように、殿山くんはふっと片笑んだ。
「やば、って顔してる。しまった、って」
「……」
「それは俺が部下だからですか。それとも8つも年下だからですか。それともどっちもですか」
「そ、それは」
怯む私を壁際に追い詰めて、殿山くんは言った。
「あなたが過去に誰とお付き合いして、どんな経験値を得たのかは俺には関係ないです。俺は俺です。お試しでいいです。一週間まず付き合ってくれませんか」
ずい、と迫られると顔の前が彼の胸だ。背が高い。
「ちょ、ちょっと殿山くん」
近い近い近い。心臓の音、聴こえちゃう。
手で必死に押しとどめる私に、彼は告げた。「万一ダメになっても気まずい雰囲気出さないって誓いますから。ね?」
「~~~」
営業はまずこまめに通うこと。笑顔。そして粘り。私の教えを忠実に守って殿山くんは仕事で頭角を現していた。
そのスキルを、こんな風に使うのって、反則だよ……。
--とは言いながらあれよあれよとお試し期間はすぎ、いまもこんな風に互いのアパートを行き来するお付き合いを続けている。
部屋着で寛ぐ彼を見て思う。若いなあと。立っているだけで、目を引く。身体つきがシュっとしていて、確かな存在感がある。これが、二十代……。
ふと、そこで彼と目が合った。まずい。また、見惚れて……。
「佐久さん……いえ、多恵子さん」
殿山くんは、私の下の名を呼んだ。はいっ、と思わず背がしゃんとなる。
彼は私が顔半分覆うようにして読んでいた(ふりの)雑誌を取り上げて、こう言った。
「さっきから気になっていたんですけど。この雑誌、逆さまです」
#逆さま
「紅茶の香り7」
真夜中に携帯が鳴った。
だれ? 知らない番号。恐る恐るタップして「・・・・・・はい?」と出た私の耳に、「あ、姫子。俺俺、天野」と明るい声が飛び込んでくる。
天野くん? 天野星彦くん。え、え? なんで?
「どうして私の番号知ってるの?」
「んー。まあそこはいいじゃん。今何してたの」
ちっともよくない。んも~。誰から聞き出したんだろう。私は机に肘をついて「勉強」とぶっきらぼうに答えた。
「まじめ。えらいなー姫子は」
ちく。天野くんの声が心に棘を指す。昔から、生真面目と呼ばれてきた。そんなに頑張らなくても。てきとうに手を抜きなよと。
でも、性分だからどうしようもない。テスト前には勉強をするし、門限の時間までにはウチに帰る。
「からかってるの?」
「なんで? 褒めてんだよ」
夜だからか、天野くんの声がいっそうくっきり際立つ。
「……天野くんは、何してたの」
「切らないんだ。話してくれるの、このまま」
「……!それは、」
「散歩。眠れないとき、ふらっと街に出るんだ。夜」
じゃあ今も外から?と思って部屋のカーテンを開けた。今夜は晴れている。明るい月が出ているから、星はあまり見えない。知らず、天野くんの姿を窓下に探してしまう。
「あぶなくない? 夜に散歩なんて」
と私が言うと、「夜のほうが自由な感じがする。息をするのが楽だ」と天野くんが答える。
私は軽い足取りで、夏の渚を歩くように、甘く夜をさすらう天野くんを思い浮かべる。
「いいな、天野くんは」
思わず言葉がこぼれてしまった。広げていた科学のノートの上に、それは滑り落ちる。
「……なんで?」
「ん。するっと携帯番号手に入れて、掛けたいときに電話して、気が向いたときに散歩に出て……。断られたらどうしようとか、誰かに咎められたらとか、考えないで行動できるところが」
「姫子も連れ出してやろうか。夜の散歩に」
すっと言葉を差し込まれて私はどきっとした。
「え」
「眠れない夜に、電話しな。俺がつきあってやるから、怖くないし危なくないよ」
「……」
何だろう。今夜の天野くんの声はとっても優しい。学校だともっと尖っているというか、イケ散らかしているというか、強引な感じなのに。
「ねえ、本当は何で今夜私に電話してきたの」
勝手に口が動いて訊いていた。天野くんは押し黙った。濃厚な沈黙が闇に漂う。
ややあって、天野くんは言った。
「声、聴きたかったんだよ。姫子の……眠れないくらい、どうしてもいま聴きたいって思ったんだ」
月まで届きそうな澄んだ声で、彼は言った。私は身体の芯がぐらッと揺れるような感覚に襲われる。
ずるいよ、天野くん。そういうの急にぶっこんでくるの。
だめだよ……。
ーー織姫、そなたの声が聴きたい。姿は大河に阻まれたとしても、せめて、声だけでもーー
月光に隠された星の向こうから、誰かの声が、聴こえた気がした。
#眠れないほど
「ディズニーランドって、不思議だよねえ」
「不思議? どんなとこが?」
「入場ゲートを通ると、そこから突然夢の世界が始まって、日常から切り離されるじゃない? で、ワクワクの時間が怒涛のように押し寄せるの」
「ああ……そういうこと」
「で、パレード見終わって、ゲートを出ると、途端に現実に戻るっていう。ほんと、魔法の国だね」
「……帰りたくない?」
俺は駅に向かう彼女に聞いた。パレードを見た余韻を引いて、まだ頬が紅潮している。
君の横顔。
「ううん。帰ろ」
彼女は笑って俺の手を握った。ぎゅっと。
そして、
「君と暮らすおうちの時間も、いつもワクワクだよ」
「……うん」
俺は彼女の手を握り返す。寒かったけど、手袋嵌めてなくてよかったと思いつつ、俺たちは夢の国に背を向けて現実の世界に足を踏み出した。
#夢と現実
もっとよみたい1000♡ 本当にありがとうございます。励みになります。
さよならって言うよりも、またね、って言って別れる方が好き。
そう言った君は、事故で二度と還らぬ人になった。
葬儀で僕は、少し時間が経ったらまたそっちで会おうと弔辞を述べた。
君のいる天国で、またね。
遺影の中から君は微笑み返した。
こういう時はさよならって言ってもいいんだよと、ちよっぴり苦く笑ってるみたいに見えた。
#さよならは言わないで