「ううむ……」
悩む、ガチで悩む。
コンビニのレジ脇ていうのは、なぜこんなにも悩ましい物品が置かれているのか。
ジムで鍛えたばかりだからサラダチキンの摂取が今はベストの選択だ。でも、保温機の中にあるホカホカあんまんも魅惑的。
ああ……ちょこまんが今年も出ているとな。甘いものを噛みしめ、疲れた体と脳がじんわり癒されるあの瞬間も捨てがたい……
ジム帰りのコンビニというのは、俺を誘惑するものと、それを抑圧しようとする心と、理性と感情のせめぎ合いだ。
「って、なに固まってるの」
背後から彼女がひょいと覗き込む。俺はうろたえた。
「あ、え」
「どーせちょこまん食べたいとか思ってたんでしょう。だめよ、糖質禁止!」
「う」
俺の脇をすり抜けて彼女はセルフレジに向かう。そのかごにはプロテインバーや、エナジー系ドリンク、低糖質おにぎりなどが入っているのが見えた。
俺と彼女はジムで知り合った。ジムともから、彼氏彼女に発展したのだ。
彼女はしなやかな筋肉美の持ち主。スタッフからはボデイビルのコンテストへの出場も勧められているという。ストイックで美しい。
豹のようなしなやかさでぴぴぴ、とレジを進めながら「君はわかりやすすぎるんだなー。後ろからでもぐらぐらなの一目でわかったもん。甘いもの食べたい、でも糖質が、って」
頭の中に天秤があって、天使と悪魔がのっかって揺れるイラストみたいだったよ、と笑う。
図星で俺は黙った。すみません……。
「ま。頑張ったからねー、今夜はいいんじゃない?」
レジの店員さんに「ちょこまん一つください」とオーダーする。
「いいの?」
嬉しくて俺は訊いてしまう。彼女はぷっと吹き出した。
「ワンコみたい。尻尾振ってる?」
でも嬉しいものは嬉しい。ありがとう~、と俺は彼女をバックハグした。
「うぐ、っいたた」
「あ、ごめん」
「もー、毎日鍛えてて筋肉ついて、力強いんだから、気を付けなね」
肩越しに叱られる。けど、ちゃんと俺が頑張ってることを認めてくれてるのがわかって、嬉しくなった。
「ねね、ちょこまん、半分こしようか」
と俺が彼女に囁くと、「だめー。甘い言葉でそそのかさないで」とプロテインバーでブロックされた。
ちえ。
#光と闇の狭間で
「え? 今なんて、新田さん……」
俺は狼狽した。一緒に帰っていた新田さんが、生真面目な顔で言った。
「うちに寄っていきませんか。今、ちょうど母親も仕事で居なくて」
「え、どうして」
ちょうどって。母親も居ないって、え?え? 胸の動悸が激しくなる。
無意識に左胸を手で押さえた俺に向かって、
「間宮くんの手袋編みたいの。だからゲージ、測らせてほしくて」
と言った。おねがい、と顔の前で手を合わせる。
ゲージ……、手袋。ああ……。
「編み物ね、ナルホド」
あーびっくりした。ゲージなるものが何かわからなかったけど、サイズを測るんだってことは何となく理解できた。
「学校じゃダメなの?」
「うん。みんなの前だと、ちょっと」
口ごもる。俺はそんな新田さんを見て、俺とうわさになるの、やなのかなと胸にぴりっと痛みが走った。
それをはぐらかすため、いいよ、と言ってしまった。それまでもうちの前まで送っていたけど、中に招かれたのは初めてだった。
「どうぞ」
新田さんは玄関のドアのかぎを開け、俺を中に通した。俺はおじゃましますと言って中に入る。
「今、毛糸と編針持ってくるから、ちょっとリビングで待っててくれる? あ、スリッパ、これ。お茶、何がいい? 甘いのと、
甘くないの」
ぱたぱたしている。きっと男友達を招いたのなんて初めてなんだろう。ひょっとしたら、女友だちも今までなかったかもしれない。
高校の委員長は、なんていうか、孤高のひとだ。勉強もできるし、美人で有名。教師からの信望も厚い。でもその分、他の人を寄せ付けないところがある。
「……」
シューズを脱いで出されたスリッパに足を通そうとした俺は、動きを止めた。三和土に立ったまま、あのさ、と切り出す。
「え?」
「やっぱ今日はやめる。ごめん、ゲージとかよくわかんないけど、日を改めていい? お母さんがいないときとか、よくないよ。うん」
新田さんの顔が曇った。俺はなぜか罪悪感に駆られる。
「でも」
「なんで、ちょうど? なんで親がいない時だといいの。俺と二人きりになって心配じゃない? 俺、密室で新田さんと一緒だと何するかわかんないよ」
言ったら傷つけるかもしれない。そう分かってて俺は口にした。
だって、手を出して傷つけたくないから。ーーいや、それを拒まれて、傷つきたくないのは俺の方だ。
俺はずるい。でも……
新田さんを直視できずにいると、彼女が俺に歩み寄るのがわかった。ソックス履きのつま先が俺に向いた。
「わかんなくて、いいよ……。間宮くんなら、いいって思ったから、私」
だから、今日呼んだの。と消え入るような声でそう言う。
俺は顔を上げた。ばちっと新田さんと目が合う。至近距離で。
ーーやべえ。
瞬きを、目が忘れる。こんなきれいな目をしている女の子がいるなんて、俺、知らなかった。
心臓の鼓動が胸からせり上がってきて、喉を口を通り越して脳に到達する。バックバクと、耳の後ろがうるさいほどだ。
俺たちは玄関で向き合ったまま、ただ見つめ合う。手を伸ばせば、触れられる距離で。
#距離
「セーター4」
上司の佐久さんが、やらかした。
できる女の佐久さんも、マシンじゃない。やらかす時はやらかす。受注ミスだった。納期スレスレで何とか納品したが、先方はおかんむりだった。菓子折りを持って出向いて謝罪して、小一時間担当者に嫌味を言われてようやく放免となった。
同行した俺でさえ、疲弊した。ましてや佐久さんはをや、ってやつだ。
「殿山くん、ごめんね。付き合わせちゃったね」
「いや、俺は構わないですけど……。大丈夫ですか、佐久さん」
「何が?」
「何がって……」
自覚がないのか。酷い顔をしている。
「うちまで送ります。それより飲みに行きますか。どっちでも」
俺は言った。佐久さんはかぶりを振る。
「そんな、いいのよ。気を遣わせてゴメン」
「いや。そういうんじゃなくて」
普段、優しくしてもらってる分、こういう時こそ力になりたかった。ぼろぼろの彼女を一人で帰したくない。俺は引かなかった。
「とにかく送ります。タクシー拾いましょう」
「大丈夫だってば、心配性だなあ。じゃあお言葉に甘えて、電車でね」
困ったように笑い、佐久さんは折れた。
電車は混んでいて座れない。やはりタクシーにすれば良かったと後悔していると、ドア口の手摺りに持たれていた佐久さんがポツリと呟いた。
「ほんとだ、酷い顔してるね、私」
電車のドアの窓に姿が映っている。俺はかける言葉に迷う。
「カッコ悪いね、いつも殿山くんにはしゃんとしなさいって口を酸っぱくして言ってるのにねー」
泣き笑い。
「……そんなことは、ないです」
俺は俯いた。佐久さんの細い肩が見える。
そこで駅に電車が滑り込み、乗客を吐き出し、より多くの人が車内になだれ込んできた。俺は背を押され、佐久さんとの距離を詰める。
懐に彼女の身体を包み込む形になった。密着する。
俺は動揺した。佐久さんの柔らかい身体が押し当てられる。なんていい匂いーー。いきなりのことで、動悸が……
「……」
佐久さんが息を詰める気配がした。俺の肩に額を押し当てる。
俺はわざと電子広告を見上げた。そして彼女にしか聞こえない声量で
「泣かないで……」
と言った。
佐久さんはぴくっと身を硬くして、黙った。ぐす、と湿った音が胸の辺りから聞こえた。
泣かないでください。佐久さんにそう囁きながら俺は、心の中で「泣いてもいいよ、泣いていいんだよ」と繰り返していた。
佐久さんの背をさすりながら、俺は電車のかすかな振動を感じつつ夜を征く。
俺がこの人を大事にしたい。守りたいと心から思った瞬間だった。
#泣かないで
お付き合いの前の二人です
「紅茶の香り6」
「新田さんは、何で冬のはじまりを感じるタイプ?」
高校からの帰り道、俺が訊くと、
「え、と。私は……」
真剣に考える。うーんと、悩んでいるから、
「俺はね、コンビニの井村●の肉まん機のメニューが増えるのと、おでんが出ると冬だなアって思う。コロナで、おでん置いてるの減っちゃったけど」
そう言うと、あ、そうだねと微笑む。
「昔はレジ脇にあったね。ちょっと食べたいとき、買うの。好きだった」
「タネはなにが好き?」
「たまご」
可愛い。もー何を言っても可愛いぞ。委員長は。
「俺はこんにゃく」
「ふふ。美味しいよね」
放課後セーター事件で、俺たちはお近づきになった。告白はしていないけれど、休み時間とか何となく話すようになって、帰りも一緒にと俺が誘っている。新田さんは断らない。家が同じ方向なのをいいことに、うちまで送っている。
新田さんは、気取ってると思わないでねと慎重に前置きをしてから、
「空が澄んで星がきれいに見えだすと、冬が来たなって感じる」
暮れなずむ夕空を見上げて言った。横顔が薄紫の西日に照らされて、きれいだなと思う。
「そうだね」
あ、一番星、と俺が指差すと、自分の息が白いことに改めて気づいた。
「間宮くん、あの」
ややあって、新田さんが切り出した。おそるおそる。
「あの、いつも送ってくれてありがとう。……あのね、お礼したいんだけど、今度手袋とか編んだらもらってくれる……?」
「手袋」
手編み? ってことは、手作り?
「そんな、お礼とか気にしないでいいけど。でも、いいの?」
「手編みとか重いかなって思うんだけど、私、それぐらいしか特技なくて。しかも五本指のじゃなくてミトンだけど」
あわあわと、早口になる。ミトンってなんだ? 新田さんは宙に指でシルエットをなぞった。
「こういう、なべつかみみたいな」
「あー、あれか。もちろん、嬉しい。すげえ嬉しいよ。新田さんからもらえるなら」
「ほんと……よかった。引かれたらどうしよって思ってずっと訊けなかったの。じゃあできたら渡すね」
ほっとした様子で歩く足取りも軽くなる。俺はそんな彼女を見て「楽しみだな」と言った。
「あまり期待しないでね。編み目とかがたがたかも」
「うん」
「間宮くん、何色が好き?」
「うーん、青か紺かな」
今年の冬は、彼女の手編みの手袋ではじまり。そう思うと今から子どもみたいにわくわくした。
#冬のはじまり
「セーター3」
「だめ、殿山くん、終わらせないで」
「え? え?」
受話器を置こうとしていた俺は、フリーズした。上司の佐久さんが待って待って待って待って、と鬼気迫る顔でストップをかけている。
「その電話、終わらせちゃダメ。〇〇商事さんの前山課長でしょう?ごめん、ちよっと代わってくれる? 急ぎなの」
「あ、はい」
慌てて俺は手にしていた受話器を差し出す。佐久さんは目顔でごめんと謝って、俺からそれを受け取り「もしもし、前山さんですか、急に申し訳ありません。佐久ですが」と流れるように仕事内容を切り出す。
仕事ができる人だ。なのに、全然偉ぶらないし、たおやかさも失わない。男性社員の中、絶大の人気を誇る。
自慢の上司。そして同時にーー
「なぁに? どうかした?」
電話を終えてホッとした様子の佐久さんが、俺を見て表情を変えた。
「いえ、別に。ちよっと……」
俺は言い淀む。ダメだ、口が緩む。自然、手で押さえた。
佐久さんは怪訝そうに俺を見上げた。
「何なの? ちゃんと言って。電話途中で奪っちゃったから気を悪くした?」
「まさか、そんなんじゃないですよ。ーーそのう、色っぽかったな、と思って。さっき」
「色っぽい……?」
目をぱちくりさせる。美しくカールさせてマスカラが塗られたまつ毛。
見惚れながら俺は言った。
「終わらせないで、ってやつ。終わらせちゃダメって、ーーあれちよっと、キました」
「〜〜、な何言って……!」
ようやく理解が追いついたか、ドカンと佐久さんの頬が火を噴く。真っ赤になって棒立ちのまま、口だけパクパクと動かし、声にならない。
そして、ハッと我に返り「あなたはもう〜! ちゃんと仕事しなさい」と捲し立てて部屋から出ていった。
俺と佐久さんが付き合い出したことは、会社ではまだ秘密だ。
俺が口説き落としたことも、まだ。今はナイショ。
#終わらせないで
「紅茶の香り5」