KAORU

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10/10/2024, 1:11:03 PM

「すまない、水無月さん、うちの娘はーー」
 血相を変えて、俺は会社に駆け込んだ。
 だいぶ、急いだ。でも、すっかり遅くなってしまった。
 人気のない課に保育園の制服を着た深雪が、水無月といた。娘をデスクに着かせ、隣で相手をしていた水無月が振り向いた。
「柴田さん」
「あ、パパ、おかえり」
 ぴょんと椅子から降りて、深雪が駆け寄り、俺の胸に飛び込んだ。
「深雪、ごめん。遅くなって」
 俺は深雪をギュッと抱きしめた。どっと安堵が押し寄せる。そして、
「水無月、ありがとう本当に助かった。この通り」
 深雪を抱きしめたまま深々と頭を下げる。
「いいんですよ、電話もらったときは驚きましたけど、柴田さんがあらかじめ保育園に連絡してくれていたお陰で、私が行っても引き渡してくれましたし」
 ねー、深雪ちゃん、と水無月が笑う。
 ねー、雫ちゃん。と深雪が笑顔で返す。
「雫?」
「おねーちゃんの名前だよ、パパ知らないの?お友達でしょう」
「あ、そうなのか」
 初めて知った。目を見開いて水無月を見ると、ふふと、微笑んだ。
 しずくーー。雫さんていうのか。

 静岡に出張に出かけた。日帰りの予定が大幅に狂い、夜まで足止めを食らった。
 保育園の閉園時間まで間に合わない。深雪を迎えに行けない。どうするーー、プチパニックになった俺の頭に咄嗟に浮かんだのが部下の水無月だった。
 電話して泣きついた。すみません、どうしても頼る相手がいない。娘を保育園に迎えに行って、俺が戻るまで面倒を見てくれないか、頼みますと。

 深雪はご飯も食べさせてもらっていた。うとうとし始めた深雪を抱き上げて、俺は会社を出た。もうとっぷり夜も暮れた。
「本当に助かったよ、今夜は。後できっちり礼はしますから」
「それは別にいいですよ。それより柴田さん、ご飯食べました?あんなに急いで、まだ食べてないんじゃないですか」
 水無月はそう言って、コンビニの袋を差し出した。
「パパは、しゃけが好きなのって。お家でおにぎり作るとき、しゃけばっかなのって、深雪ちゃん言ってましたよ」
 袋の中身はおにぎりだった。かさりと袋が鳴る。
「水無月」
「だから深雪ちゃんも、しゃけおにぎりが好きなのって教えてくれました。子ども心に、私に迷惑かけてるって気にしたんでしょうね。パパ、ほんとはいつもちゃんと保育園の終わる時間には迎えにくるんだよ。その後、晩ごはん作ってお風呂にいっしょに入るの。で寝る時絵本読んでくれる、いいパパなんだよって言ってました」
 彼女の声音は優しく俺を包んだ。腕の中の深雪の重みが、体温が、俺を慰撫する。
 水無月は俺の手が塞がっているので、袋を持ったまま歩き出した。
「読み聞かせはね、パパあんまし上手くないの。疲れてるのか、読んでる途中でパパ寝ちゃうのが多いんだって言ってました。だから深雪、終わりまで知らないお話多いんだって。でも、とってもいいパパなんだよって。おねえちゃん、パパ遅くなっても怒らないでくれる?って、何度も何度も」
 それを聞くと、もうダメだった。俺の涙腺は決壊した。
 夜道、会社の同僚ーー年下の部下の女の人の前で、声を殺して泣いた。生まれて初めて。
 妻が浮気して離婚になって、うちを出て行った時も泣かなかったのになーー
 深雪はスヤスヤ寝息を立てている。水無月はコンビニの袋を片手に、星を見上げ俺を直視しないようにしてくれた。
 涙の理由も、訊ねることなく。
 優しさが身に染みた。そう思うと、俺は更に泣けてしまうのだ。

#涙の理由

「通り雨3」

10/9/2024, 10:34:31 AM

 夜に急に降り出した雨は、降りやむどころか、雨脚を強めていったーー
「止みませんね」
「止まないな」
 晩御飯を頂きに藪さんのマンションに立ち寄った日だった。
 今夜はアンコウ鍋と肉じゃが、アジフライというごった煮メニュー。あたしは遠慮も忘れてありついた。
 なんでこんなにこの人の作るご飯は美味しいんだ? うちの母親より、料理上手な上司っていったい。。。。
 と思っていた矢先の雨だった。
 藪さんは携帯で天気ニュースをチェックして、「これは止みそうにないな、朝まで」と言った。
「傘、貸してもらえれば、歩いて帰りますけど」
「いやそれが、線状降水帯が急発達して、ゲリラ豪雨並みの被害が出る区域があるらしい。電車、止まるかも」
 しかめ面で画面を見たまま言う。
 えー……それは、困る。
 あたしは黙った。窓の外からざあざあとバケツをひっくり返したような音がしている。
 藪さんは何かを吹っ切るみたいに携帯から顔を上げた。あたしを見、
「泊まっていくか、花畑さえよかったら」
そう言った。
 泊まり。さすがに、ぎくっと反応してしまう。
「いや、気持ちはわかるが、部下を危険な状態で帰すのも気が引けるんでな」
 困った様子で頭の後ろに手をやる。
「有難いお申し出、ですが、藪さんこそいいんですか、あたしなんか泊めて。彼女さんとか、……」
「お前さあ、何度もうちに来てて分かってンだろ。いねえよ、そんなの。ここ数年ご無沙汰だ」
 かぶりを振ってため息を吐く。
「はあ」
「お前こそ、彼氏とか、気い悪くしないか。こんな誘いしといてなんだけど」
「? 彼氏なんていませんよ。それこそ、ここ数年」
「……そ、そうか」
「……」
 藪さんもあたしも無言。
 ああ……どうしよう。
 この人のうちに、泊まるーーそれって、ただ雨宿りっていう意味の「泊まる」なのか、それとももっと複雑な意味合いが込められているのか。恋愛から遠ざかって久しいから、もう全然わかんないよーー
 ただ一つ言えるのは。
 ぜんぜん、イヤじゃないってこと。一晩薮さんのうちにお世話になるってことを、あたし、全く嫌がってない。
 ううん。むしろ、ーー
 雨音がざああっと更に強まる。誰かにとっては不穏な音なのかもしれない。でも、今の私にとってそれは、心躍る何かの前触れのようなドキドキを引き連れて心臓のある方の胸を叩いた。

#ココロオドル

「やぶと花畑5」

10/8/2024, 11:59:55 AM

「……ん、俺、寝てた?」
 目が覚めると、彼女の顔があった。
 優しい目をして俺を見下ろしている。膝枕で寝ていたみたいだ。いつのまに。
 俺は身を起こした。衣服の乱れを整えてベッドから腰を上げる。
「疲れてるわ、忙しいの?」
「うん、選挙がもう少しであるから、準備に追われてる。ーーしまった、会議があったんだ」
 忘れてた。他の連中が探しているに違いない。
「無理しないでね、倒れたら元も子もないわ」
「倒れたらここに運ばれるだろ?そうすれば君に会える」
「ま」
 嬉しそうに頬を染める彼女の頬に手を添えて、俺はキスを刻んだ。長めのキスになる。
 清潔な白いカーテンに視界は遮られている。
「しばらく会えないわね、つまらないわ」
 少し拗ねた風に彼女は呟く。
「ここに来ればいつでも会える、またベッドで横になりたい時に借りに来るよ」
 束の間の休息が得られるのは、校内でここだけ。
「ん、」
 もう一度キスを交わしてから。俺はカーテンを開けて部屋を出ていく。
 彼女が心配そうに「無理しないでね」と囁いた。


「ーーあー! どこ行ってたんですか会長!探しましたよ、会議始まります、早く早く!」
 保健室を出たところですぐ、執行部の後輩に捕まる。
「って、会長どこか身体の具合、悪いんですか」
 保健室と書かれたプレートを見上げながら尋ねる。
「ああ、いや、ちょっと絆創膏貰いに来ただけ
だよ、悪かった、すぐ行くよ」
「あ、服部くんこれ忘れてるわよ」
 行きかけたところを呼び止められる。見ると中居先生が戸口で絆創膏をひらひら振っていた。
「ありがとうございます」
 何食わぬ顔でそれを受け取り、俺は生徒会室に向かう。
 後輩は、チラチラ背後に目をやりながらついてきた。
「養教の中居先生、きっれーだなア相変わらず。30前でしたっけ?彼氏とかいるんすかね」
「さぁな」
 俺はそらとぼける。
「珍しく白衣の前、はだけてましたねえ。白衣の下、ワンピでしたね、エロいっすね、ワンピに白衣って」
 思春期爆発で後輩はぐふふと嗤う。
「何言ってんだバカ」
 彼氏はいるよと内心言ってやる。
 中居先生の膝枕を独占できるのは生徒会長の俺だけだ。
 
#束の間の休息

10/7/2024, 10:59:05 AM

 会社のエレベーターに、薮さんとふたりきり閉じ込められ、すでに25分経過している。
「花畑、お前が変なボタン押したからじゃないのか?停止なんて」
 うんざりした様子で薮さんが言う。圧迫感があるのか、ネクタイを緩めながら。
「ただフロアのボタンしか押してませんよー。言いがかりです」
「じゃあ力入れ過ぎだ。お前けっこう馬鹿力だからなあ」
「ひっど」
 ……と言いつつ、あたしは結構いまのシチュエーションをラッキーと思っている。
 薮さんと密室に閉じ込められるなんて、なんだか出来過ぎじゃないか? 上司で、派遣の身に余るほどの質の仕事を与えてくれ、うちに招いて手料理まで振舞ってくれる、この人と、いま、ふたりきりーー
 自分の気持ちを見極めるチャンスかもしれない。
 あたしは薮さんのことが好きなのかな。面倒見が良くて、ルックスもいい。もちろん仕事ができる、しかも料理までなんて、まるでマンガだ。
 薮さんはどうなんだろう。あたしのこと、好きなのかな。他の人に比べて、目をかけてもらっているのは明らかだけれど、それは男女のそういう好意ではない気がする。どっちかっていうと、ペットを可愛がるような、そっちに近いのかも。
「……何考えてる? 黙るなよ」
 薮さんが外部とやりとりしたインターフォンを見ながら言った。
「別に何もーーこの高さから落ちたら即死かな、とか」
「止めろよそーゆーこと冗談でも言うのは」
 心底嫌そうに彼は顔を顰めた。
「あはは」
 ねえ薮さん、あたしのこと好き?
 さっきみたいに、警備会社を呼び出して助けてって言って、わかった、あと30分で着きますっていう返事をもらえる、そんな分かりやすいボタンがあればいいのにね。薮さんにも。
 それがあったらあたしは押すかな、それとも押さないかな。どっちだろう。
 そんなことをつらつら思っていたら、「……おい、なんの真似だ?」と聞かれた。
 あ、と思わず手元を見る。あたしはいつのまにか、緊急呼び出しボタンを人差し指で押していた。ギュッギュッとわりと力を込めて。
 ーーお し え て ほ し い。あ な た のき も ちーー

#力を込めて

「やぶと花畑4」

10/6/2024, 11:13:25 AM

「美味しいですねえ、薮さんこれ、この栗の炊き込みご飯、絶品〜」
 そうだろうそうだろう。
「ナラタケのお味噌汁も、ご飯に合う!ほっぺた、落ちます!美味しい〜」
 当然だ、俺の料理の腕をもってすれば。これぐらいどうってことない。
「天才ですねえ、秋の季節の食材の良さをふんだんに引き出せますね、薮さんなら」
 まーな! と内心では鼻たかだかだが、俺は平静を装って「いいから黙って食べなさい」とクールにあしらう。
 部下の花畑に、ひょんなことから手弁当を食わせたことで、懐かれてしまった。お給料日前はカップ麺ばかりですと打ち明けられ、勢いで「そんな食生活はダメだ。うちに飯を食いに来るか?」と言ってしまった。
 やばい、パワハラ兼セクハラで訴えられる!と思いきや、「良いんですか?薮さん、神!救世主!」と崇め奉られる始末。
 そんなわけで、花畑を家に呼んで手料理でもてなすのが月末の習慣になってしまった。
「今日も大変ご馳走さまでした。美味しゅうございました」
 手を合わせて花畑は頭を下げる。
「お粗末さま。たくさん食ってくれて、ありがとうな、作り甲斐あるよ」
「食べ甲斐があるお味だからですよー。ほんと、薮さんの料理、私いくらでも入りますもん」
 なんでだろー、あ、私食器洗いますねーとシンクに立つ。俺はその姿をしげしげと見つめ、こいつ変わったなと思う。こんなに笑うやつじゃなかった。いつも面白くなさそうに仕事をこなしてた。そつなく立ち回り、周りの正社員のプライドに触らない程度に手を抜いて、ほどほどの仕事量を捌いていた。
 もっとできるやつなのに、勿体ねえな。俺はそう思っていた。
 料理を食わせてやる代わりと言ってはなんだが、花畑に俺の直属で働いてみろと水を向けた。コピー取りとかじゃない、創造性のある仕事を任せてみたくなった。
 今、花畑はおはなばたけとは呼ばれなくなってきた。職場で。
 しめしめ。
 ……でもまぁ、ふにゃふにゃと適当に手を抜いて、学生バイトみたいにサボることを考えてる頃のこいつも懐かしい気もするな。
 俺の視線に気づいたか、花畑は「なんです?」と聞いた。
「いやーー、冷やしておいたプリン、食べるか?」
「手作りの?食べますっ」
 諸手をあげてはいはいっと花畑は飛び上がった。
 俺は笑って一個だけだぞと釘を刺した。

「やぶと花畑3」

#過ぎた日を思う

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