「すまない、水無月さん、うちの娘はーー」
血相を変えて、俺は会社に駆け込んだ。
だいぶ、急いだ。でも、すっかり遅くなってしまった。
人気のない課に保育園の制服を着た深雪が、水無月といた。娘をデスクに着かせ、隣で相手をしていた水無月が振り向いた。
「柴田さん」
「あ、パパ、おかえり」
ぴょんと椅子から降りて、深雪が駆け寄り、俺の胸に飛び込んだ。
「深雪、ごめん。遅くなって」
俺は深雪をギュッと抱きしめた。どっと安堵が押し寄せる。そして、
「水無月、ありがとう本当に助かった。この通り」
深雪を抱きしめたまま深々と頭を下げる。
「いいんですよ、電話もらったときは驚きましたけど、柴田さんがあらかじめ保育園に連絡してくれていたお陰で、私が行っても引き渡してくれましたし」
ねー、深雪ちゃん、と水無月が笑う。
ねー、雫ちゃん。と深雪が笑顔で返す。
「雫?」
「おねーちゃんの名前だよ、パパ知らないの?お友達でしょう」
「あ、そうなのか」
初めて知った。目を見開いて水無月を見ると、ふふと、微笑んだ。
しずくーー。雫さんていうのか。
静岡に出張に出かけた。日帰りの予定が大幅に狂い、夜まで足止めを食らった。
保育園の閉園時間まで間に合わない。深雪を迎えに行けない。どうするーー、プチパニックになった俺の頭に咄嗟に浮かんだのが部下の水無月だった。
電話して泣きついた。すみません、どうしても頼る相手がいない。娘を保育園に迎えに行って、俺が戻るまで面倒を見てくれないか、頼みますと。
深雪はご飯も食べさせてもらっていた。うとうとし始めた深雪を抱き上げて、俺は会社を出た。もうとっぷり夜も暮れた。
「本当に助かったよ、今夜は。後できっちり礼はしますから」
「それは別にいいですよ。それより柴田さん、ご飯食べました?あんなに急いで、まだ食べてないんじゃないですか」
水無月はそう言って、コンビニの袋を差し出した。
「パパは、しゃけが好きなのって。お家でおにぎり作るとき、しゃけばっかなのって、深雪ちゃん言ってましたよ」
袋の中身はおにぎりだった。かさりと袋が鳴る。
「水無月」
「だから深雪ちゃんも、しゃけおにぎりが好きなのって教えてくれました。子ども心に、私に迷惑かけてるって気にしたんでしょうね。パパ、ほんとはいつもちゃんと保育園の終わる時間には迎えにくるんだよ。その後、晩ごはん作ってお風呂にいっしょに入るの。で寝る時絵本読んでくれる、いいパパなんだよって言ってました」
彼女の声音は優しく俺を包んだ。腕の中の深雪の重みが、体温が、俺を慰撫する。
水無月は俺の手が塞がっているので、袋を持ったまま歩き出した。
「読み聞かせはね、パパあんまし上手くないの。疲れてるのか、読んでる途中でパパ寝ちゃうのが多いんだって言ってました。だから深雪、終わりまで知らないお話多いんだって。でも、とってもいいパパなんだよって。おねえちゃん、パパ遅くなっても怒らないでくれる?って、何度も何度も」
それを聞くと、もうダメだった。俺の涙腺は決壊した。
夜道、会社の同僚ーー年下の部下の女の人の前で、声を殺して泣いた。生まれて初めて。
妻が浮気して離婚になって、うちを出て行った時も泣かなかったのになーー
深雪はスヤスヤ寝息を立てている。水無月はコンビニの袋を片手に、星を見上げ俺を直視しないようにしてくれた。
涙の理由も、訊ねることなく。
優しさが身に染みた。そう思うと、俺は更に泣けてしまうのだ。
#涙の理由
「通り雨3」
10/10/2024, 1:11:03 PM