いつものバスを降りると、家までの道を少し逸れて公園へ向かう。
星空の下で、君と待ち合わせ。
誰もいない公園のベンチに腰掛けていれば、今来たのか待っていたのか分からない君がひょっこり現れる。
しなやかで温かい身体を抱きしめると、思わず口元が綻んでしまった。
可愛い君との、秘密の逢瀬。
星々だけが知っている癒しの時間だ。
大胆にもほっぺたにキスをしてくれるその顔をなぞって、頭を撫でる。
満足気に目を細めて、君は一声「ニャア」と鳴いた。
エドワード・ゴーリーの作品を読んでみた。
『うろんな客』
『不幸な子ども』
『ずぶ濡れの木曜日』
どれも多少なり「子ども」の要素が含まれている。
それもよくある「無垢で守るべき良い子」というイメージではない。世界に対して理不尽に振る舞うし、逆に自然や大人に翻弄されて淘汰されることもある。
時に残酷な描写もされていて、私の母親は嫌悪感を示しそうだ。
だけど、大事な考え方でもあるなと思った。
子どもが悪いことをしたっていい。
大人と同じように、試練だって与えられていい。
別に、我が子を放置すべきとは言わないけれど。
それでいいと思えるくらいになれば、もっと素直に子どもが欲しいと願えるのかもしれない。
小さいころ、買い物に行ってお菓子やおもちゃをねだると大人は口を揃えてこう言った。
「1つだけね」
私は、この言葉が嫌いだった。
お菓子1つじゃ満足できないし、おもちゃだって1つではすぐに飽きてしまう。「1つだけ」じゃ、つまらないのだ。
年を重ねても考えは変わらない。
部活に恋人、バイトや進路ーー私の人生そのものすらも。1つだけじゃ、足りない。
だから私はいろんな「私」を生み出して、いくつもの人生を謳歌する。
短い髪とパーカーをトレードマークに、たくさんの部活を渡り歩く溌剌とした高校生。
重たいボブヘアに眼鏡をかけた、物静かな大学生。その下には無数のピアスが空いていて、夜はそれらをギラギラした照明に当てながらクラブで踊り明かす。
ポニーテールにスーツで営業をする日もあれば、派手なドレスを着てグラスを煽る日もある。
恋人たちは一様に「俺にだけは外と違う顔を見せてくれる」と嬉しそうだ。
なんでも選べる。どの私も楽しくて仕方がない。
けれど時々、どこかで会った誰かに聞かれたことを不意に思い出す。
「本当の君は、どこにいるの?」
私はその問いにどう答えたのか、分からない。
季節は春。
暖かく晴れた気持ちのいい日で、窓の外には桜が舞う。
デートとまではいかないけれど、一緒に散歩でもーーなんて。
休日のスタメンであるスウェットを手放して、ふんわりしたワンピースを着てみる。
薄くメイクをしたあと髪を巻こうとして、そこまで気合を入れるのはなんだか恥ずかしくてやめた。
少し浮ついた気持ちでリビングの扉を開ければ、彼はソファでゲームをしていた。
「ねぇ」
「んー?」
「今日、いい天気だね」
「ああ、そうだね。洗濯しないとなぁ」
そうだけど。そうじゃなくて。
話しかけても、一向に画面から目を離さない彼に苛立ってしまう。別に趣味に口を出したくはないけれど。
「……ゲームじゃなくて、私のこと見てよ」
ぽろり、出すつもりのなかった心の内をこぼしてしまった。え、と呆けたような声を出して、ようやく彼がこちらを見る。
恥ずかしい。柄じゃない。こんなバカみたいな我儘を言うなんて。
ポカンと私を見つめる彼にこっち見んなと思っては、さっきと真逆じゃないかと自分にツッコミを入れて、もう何が何だか分からない。
「それってどういう、」
「バカ、エイプリルフールだよ。本気にしちゃった?」
狼狽を悟られないように笑って見せれば「うそぉ……」と、困惑とも落胆ともつかない彼の声。それを振り切るようにして、リビングから逃げ出した。
自室の扉を閉めて寄りかかり、溜息をひとつ。
「……嘘だよ」
ほんとはいつも思ってる。
ゲームばっかりじゃなくて、たまには私のこと見てよって。
幸せに暮らしたい。
誰もがそう願うはず。
だけど、幸せなだけじゃ文章は書けない。
幸せに酔ってしまったら、言葉を探して連ねて伝える作業ができなくなってしまう。
焦燥に憤怒、無力感に劣等感。
そんな負の感情こそが、意欲を掻き立てては私を創作に向かわせる。
誰かと会いたくてたまらないとき、その誰かと過ごす時間がかけがえのないものとして表現できる。
劣等感で潰れそうなとき、誰かの素晴らしいところや自分の内面をどこまでも見つめられる。
それができなくなったとき、私はきっと幸せだと思えない。
幸せに暮らしたい。
そのためには、少しの不幸せも欠かせないのだと思う。