# バカみたい
「バカみたい」
どこかから聞こえてきたその声に、ぴくりと瞼が痙攣した。遠巻きにさざめく人の群れ。こちらを見ているのが如実にわかる、その気味の悪い視線。
誰のことを言っているのか。そんなのはわかりきっていた。明らかに、目の前の彼女のことを言っている。
彼女は、先程からショーウィンドウに齧り付いて歓声を上げていた。ガラスの中で繊細なデザインのドレスが煌びやかに輝いている。隣のアクセサリーにも目移りするようで、心底楽しそうに覗き込んでいた。無理もない。彼女にとっては初めての街だ。見たことのない品物を見て興奮するのは当たり前だろう。
そうとも知らずに、通行人は失笑を漏らす。大方、とんだ田舎者とでも思われているのだろう。それか“黒まがいの人間もどき”が騒いでいる、と鬱陶しがられているのだろうか。
あまり長居すると面倒なことになりそうだ、と他人事のように思った。ここは彼女の生まれ故郷よりは人種に寛容な街のようだが、それでも“黒まがい”への白眼視は変わらない。多少騒いだくらいで疎ましがられて、あらぬ罪で投獄されてもおかしくない。
それでも、僕は彼女から離れなかった。もう行こう、と言うこともせずに、ただはしゃぐ彼女の隣にいた。誰に何を言われようと、あともう少しだけ、彼女の邪魔はしないでおこうと思った。
# 二人ぼっち
深い森の奥の奥、僕らは二人で息をしていた。
翠緑の木々が葉を揺らす夏。森が赤く衣を変える秋。生命の気配が消え去る冬。雪解け、花萌ゆる春。その全てを二人で過ごした。牛を飼い、芋を育て、鹿を狩って生きた。お金なんてなかったから、何から何まで二人きりで賄った。それでも、案外豊かな生活を送れていた。
なぜこんな所で暮らしているのか、なぜ二人きりになったのか、もう覚えていない。覚えていたとしてもどうでもいい。そう思えるほどに、僕らは幸せだった。
晴れた日の昼下がりは、木陰に座って詩を書いた。傍らに彼女が寝転がって、何をするでもなくゆっくりと呼吸をしていた。がさりと音がしたから顔を向ければ、小さな兎がこちらを見ていた。僕はその風景を書いた。何より、何より綺麗な光景だった。
遠く、砲声が聞こえた。それで思い出した。
外は今も鉄が降っているらしい。まあ、どうでもいいか。どうせここには届かない。
そう思った所で、ふと自嘲する。そういえば、
ここには届かないどころか、心臓にまで届いたのだった。
# 夢が醒める前に
深く空気を吸った。雨上がりの匂いがする。百日紅の花と、湿った土と、雨独特の香り。そこに混じる微かな、貴方の匂い。
夏の匂いだ、と思う。あの夏の匂い。もう実現することのない夏の。
瞼を開ける。途端に強い光が眼球を刺す。その痛みさえ勿体無くて、我慢するという意識もないまま太陽を望んだ。遠い遠い青天井。真白の入道雲。
僕は錆びたベンチに座っていた。澄んだ空に青々とした百日紅が侵食して、影を落としていた。視界の端に掠った紅色に釣られて顔を動かす。傍らには貴方がいた。
惹かれるように見つめる。貴方の頬がきらきら光っていて、綺麗だ、とただ思った。
頭上の葉から雫が落ちる。ぽた、ぽた、と落ちる。妙にスローモーションに見えた。
貴方の手の甲をひとつ、小さな雫が打った。衝動的に、僕はそれを拭う。貴方の手がやけに白くて、古びたベンチによく合っていた。
貴方はようやく僕を見る。水滴の乗った睫毛が震えている。貴方は口を開く。僕はそれを見て思う。
夢が醒める前に、僕はこれを聞かなきゃ駄目だ。
そこで、目が覚めた。
# 胸が高鳴る
生まれて初めて、リュックを背負う。たくさんの荷物が詰められて重い。それは、何度も夢想した重みだった。
自室のドアを開ける。廊下を歩く。玄関までの道のりは見慣れたもののはずなのにひどく新鮮で、まるで生まれ変わったかのような心地がした。
玄関には彼がいる。私を試すように見つめてくる。
ここから先は地獄だ。
知っていた。私が世間から疎まれる見た目をしていることも、一歩家から出ればたちまち捕まって牢屋に入れられてしまうことも、それを阻止するためにお母様は私を家から出そうとしなかったことも。それでも、それでも私は外に出たかった。リュックの重みを知りたかった。この手でドアノブを握って、ドアを開けて、広い空を見上げて。ずっとずっと夢見ていた。
それが今、目の前にある。
深呼吸した。息が震えた。生唾を飲み込んで、彼を見る。彼の視線はドアへ向かった。開けろ、と言われたような気がした。
ドアノブへ手を伸ばす。これを捻ったら、私はどうなってしまうのだろう。すぐに捕まってしまうだろうか。彼と逃避行を続ける羽目になるのだろうか。ネガティブな未来が次々と浮かんでは消える。それはお風呂に浮かぶ泡ぶくのように儚くて、この胸の高鳴りに簡単にかき消されてしまった。
ドアを強く押す。冷たい風が吹き込んできて、反射的に目を瞑った。顔に雪が当たる。恐る恐る目を開ければ、真っ白な世界が広がっていた。
抜け出してこっそり遊んだ庭なんかとはとても比べ物にならないほど、広い世界がそこにあった。見渡す限りの雪、羽ばたく鳥、雪しずる枯れ木。
今なら、死んでもいいかも。
そんなくだらないことを呟いたら、彼が苦笑した。
「まだこれからだよ」
これからもっと、綺麗な景色が目の前に現れるのだ。そう考えたら、今までの苦しみなんて軽く吹っ飛んでしまいそうなほど、私は幸福だった。
# 不条理
彼は、正義を愛し、整合を求め、平等を謳い、公正を掲げ、条理に従う。博愛に満ち溢れ、良心の赴くまま人を助ける。勇猛果敢に、不条理に立ち向かう。
まるで映画の主人公のように。ヒーローのように。
私はそんな彼が好きだった。
ずっと隣で彼を見ていた。
電車で席を譲る。道端のゴミを拾う。いじめ現場を写真に撮っていじめっ子と先生に突きつける。集団にうまく馴染めない人がいれば真っ先に話しかける。朗らかで寛大で、何かを頼まれれば二つ返事で快諾する。誰とも話すし誰とも付き合う。
彼を嫌う人なんて、一人たりとも見たことがなかった。
私は、そんな彼の正しい有り様が好きだった。同時に、目眩がするほど嫌いでもあった。
彼が人を助ける度、胸がぎゅっと締め付けられた。ときめき? そうとも言える。確かに、四割程度は彼への恋慕と言ってもいい。ただ、後の六割は違う。彼への、どうしようもない劣等感だ。
私は彼ほど正義に満ち溢れていない。不整合や非合理的な行いばかりだし、誰にでも公正を求められるほど勇気のある人間でもない。良心は人並みにはあるけれど、土壇場で保身に走らない自信はない。いつも、彼が眩しかった。彼を見ていると、焼けて死んでしまいそうな気がした。
そんな私の本性が彼に知られれば、彼は私の元から去っていくだろう。それは理にかなったことだ。
彼が私と一緒にいるのは、私が立派な人間を演じているからだ。できる限り、彼の真似事をした。彼が私から離れて行かないように、自分の感情とは異なる美しい行いをし続けた。
けれどそれこそが、彼の大嫌いな不条理の最たるものなのだと、彼は一体いつ気がつくのだろう。
何食わぬ顔で隣に居座る私こそが、彼の愛する条理を一番犯している人間なのだ。
彼が気付くその時まで、彼の正しさを否定し続けよう。