一緒にいるだけで安心する。柔らかくてモチモチしていて温かくていい香りがする。私よりも年上でおじさんだけど、シフトが被る度に私は年甲斐もなくただあなたと一緒に仕事をしている、という事実に胸が歳を重ねる毎に高鳴り、もっとあなたの声を聞きたくなります。怒られてばかりで呆れている部分もあるかもしれないけれどね。それでも私は何年経ってもずっとあなたの事が好きです。
<胸の鼓動>
文章を考えるのが好きだ。私が考えた言葉が、表現が、登場人物が私が書いた言葉で踊っている。一人でいることが多かったから、余計に本の世界にのめり込んだ。思えば、空想する事が日常的だったかもしれない。人を観察したり、読み終えた本の続きを考えたりする事が好きだった。周りからは、
「変わっている。」
とか、
「もっと皆と遊ぼうよ。」
とか声をかけられたりもしたが、私には本があった。たくさんの登場人物が友達だった。だから私は小説家になった。私が生み出した私だけの言葉で私にしか出来ない表現で、私を著した。本が大好きで、お話を考えるのが好きで、一人でその世界に浸れる瞬間が堪らなく愛おしい。
だから私は今日も大好きな時間に浸るために、画面の上を踊るように文章を書き込んでいる。
柱時計が嫌いだ。時を告げる規則的で偉そうな音と、文字盤を駆ける小さくも耳障りなチクタク音。だから、柱時計が置いてある祖母の家が苦手だった。定期的にまき直さなければいけない時計。時を告げる大きな音。泊まりに行くと必ず時計のある廊下を通らないように遠回りでトイレに行っていた覚えがある。自分の身長よりも大きな柱時計。見上げる度に目眩を起こしそうになる。祖母の話によると、この柱時計は亡くなった祖父が結婚記念日に買ってくれた大切な物なのだとか。
「時間の音が鳴るとね、おじいちゃんがいつでもそばにいてくれるって思えるのよ。」
なんて祖母は言って笑っていたが、私は柱時計が怖いと泣きながら訴えた事がある。幼い私は祖母にあやされながら、顔を知らない祖父の話を聞かされた。私が産まれる前に亡くなった事、若い頃の祖父はとてもかっこよかった事、力持ちで柱時計を一人で運んだ事等、たくさんの話を聞かせてくれた。そんな祖母が亡くなったのは私が中学生の頃だった。幼い頃よりも身長が伸び、柱時計に手が届くようになった私は、時計の上に手紙があることを見つけた。両親にそれを見せると、居間で箱を開けた。中身は今まで祖父が送っていたであろうラブレターがたくさん入っていた。日付は70年も前だった。祖母が亡くなってから、家族はあの廊下にある柱時計をどうするか話し合っていた。処分するにも重たく、かといって譲るにしても置くスペースが無い。迷った挙げ句、結局私の家で引き取る事にした。
苦手な柱時計は私が大人になった今も新しい時を告げながら大きな出で立ちで生活を見守っている。
昔よりは平気になったが、やっぱり私は柱時計が苦手である。
<時を告げる>
人と話すのが苦手だった。この声のせいで、よく馬鹿にされていたから。
ー男なのに声は女みたいなんだな。
そういわれたから僕は口を開かない貝殻のようにつぐむしかなかった。マスクをして、誰とも話さないようにしていたら周りから人が消えた。誰とも話さない、誰にも心を開かない。いつの間にか人との付き合い方を忘れたまま大人になった。声変わりの時期になっても僕の声は女のように高いままであった。家族はこんな声でも素敵だといってはくれたが、内心気持ち悪いと思っているに違いない。僕の目を見ないで話すからだ。唯一こんな声を褒めてくれた友達がいた。
ー安心する優しい声だね。
その友達とだけはよく話すようになったが、今は何をしているんだろう。僕の嫌いな僕の声。貝殻のように閉じた心と口をゆっくりと開かせてくれた僕の唯一の友達。
<貝殻>
雨の騒がしい音で目を覚ました。薄暗く、雨音しか響かない部屋で俺は低気圧の頭痛を抱えながらベッドから起き上がった。タバコを口にくわえ、ライターで火をつける。吐き出す煙と共に、自分の中から何かが消えていくような感覚を覚える。
ー何年吸っても慣れないな。
そんなことを思いながらテレビをつけた。天気予報によれば今週はずっと雨が続くみたいだ。憂鬱な天気とは裏腹に、テレビの中の天気予報士は雲一つもない晴天のような笑顔を見せていた。コーヒーとトーストだけの簡単な朝食を取り外に行く用事もないのに身嗜みを整えた。鏡を見ると重ねた年齢が顔に滲み出ている。目の下にクマが浮かび、口元にはほうれい線が浮かんでいる。顔を洗い、歯を磨くと頭がだんだん冴えて来る。寝室兼仕事部屋に戻ると、出版社から執筆の進捗はどうか、次回の打合せの内容などのメールが届いていた。コーヒーを飲みながらメールに返事を送る。俺は書きかけの文章のデータを引っ張り出すと、思いつく言葉で無彩色の空間を文字で埋め尽くしていく。仕事は作家で、たまたま出した俺の小説が当たり一躍時の人となった。ただそれだけだった。重版の声もかからず、初めて書いた小説も今や古本屋で見掛けるようになった。悔しい、という感情は不思議と湧かなかった。こんなもんか、そう思った。
「先生、今書いているページだけでも見せていただけませんか?」
俺の担当編集がいつだかそんなことを言っていた。書いているも何も、続きが思いつかなくなった物書きなど誰が必要とするだろう。そういうと、
「少なくとも僕は先生の続きを待ってますよ。」
と言われた。
「まぁ、そのうち書くからもう少し待っててくれないか夏樹君」
夏樹萩斗は俺の小説を読んで出版社に就職したという変わり者の青年だ。若くて眩しい笑顔を見せる。テレビの天気予報士と同じように雲一つないような晴れやかな笑顔。もう何年笑っていないだろう。文章を打ち込みながらそんなことを思った。ある日、自分の部屋で打ち合わせをしていると、夏樹君がこんなことを言い出した。
「先生、僕来週で先生の担当を辞める事になったんです。」
俺の中で何かが崩れた音がした。
「って言ったってただの部署内異動なんですけどね。別の作家先生を担当してみろみたいなことを編集長に言われまして。」
ニコニコと眩しいきらめくような笑顔で彼はそういった。なんとなくそんな気がしていた。ソワソワと落ち着かない目線と仕種。すっかり冷めきったコーヒーを飲む。温もりも何もなく、そこにあるのは汚れたコーヒーカップの底だった。
「先生、僕は担当を外れても先生の作品を楽しみにしていますから、続きのページ待ってます。」
編集夏樹萩斗としてではなく、ただの俺のファンである夏樹萩斗が笑っいた。
「まぁこんなおっさんに付き合ってくれてありがとうな。」
来月から新しい担当編集が来る、そう言い残して彼は部屋を出た。
「待ってます、かぁ…。」
待っているなら俺は書くしかないだろう。新しくコーヒーを煎れるとパソコンに向かった。
外はすっかり雨があがり、水溜まりがきらめく空を写していた。
<きらめき>