ー消えてしまうんだ。
彼はそう言って私を見て笑った。
ー何が消えてしまうの?
私は彼を見て問い掛ける。周りは驚くほど静かで、世界には私と彼の二人っきりなのではと錯覚するくらいだ。
狭い6畳の部屋には私と彼の息遣いが響く。軋むベッド、お互いの汗、お互いの体温が交わるこの部屋で貪るように身体を求める。タバコの匂いが彼の身体から立ち上る。事が終わると、彼は私の頭を撫でながら、
「好きだよ。」
と囁く。これが当たり前みたいに私は彼の胸元に顔を寄せる。この関係が続いてからもうどのくらい経っただろうか。緩やかに訪れる眠気に身をまかせながらぼんやりとそう思う。どうせ朝になれば彼はいなくなってしまうというのに。温もりが消えないようにしがみつく。いけない関係とわかりつつもズルズルとこの関係を続けている私はきっと世間様では最低な女なのだろう。左手の薬指に輝く銀色の指輪を見ながらそう思う。夫とは違う若い身体に溺れて、愛されている実感を持った私は夫には内緒で彼の家に通っている。薄々向こうも気がついているだろう。やたらと余計にスキンシップをとろうとして来る。正直夫はもう男としての魅力を感じなくなってしまった。結婚して10年。子供はいない。私の体質のせいで子供は諦める事にした。それでも私は夫を愛するように努力したし、寄り添おうとした。夫は私を責めるでもなく、子供は授かり物だからと言って私を慰めた。年齢が高くなるにつれ、夫の身体に触れる事が怖くなった。子供がいなくても私達夫婦は円満だと思っていた。
私が夫の携帯を見るまでは、順調に夫婦生活を送れていると思っていた。私にはけっして言った事がないような甘い台詞。それに答えるような「わたし」以外の女の文章。やり取りはだいぶ前からあったようで、私の知らない夫の姿がそこにはあった。見るんじゃなかったと後悔したがもう遅かった。
年下の彼とはパート先で知り合った。彼は社員で独身。まだ家庭を持ったことがないような若くて野心的で真面目な今時の男の子。そんな印象があった。そんな彼と話すきっかけになったのは、よくあるだろう些細な悩み事。夫の事や、仕事の事、本当に些細な悩み事を話した事が切っ掛けだった。こんなおばさんの愚痴を一生懸命聞いてくれる彼に、私はだんだんと「異性」として見るようになった。夫以外に抱いた、初めての感情。これが世間様でいう「不倫」の始まりだったかもしれない。頭では分かっていたけど、心は彼を求めていた。若く逞しい身体に触れるたびに夫への罪悪感と、求められる悦びの間に私はいた。遊びでもいい、また女として求められたいと思っていた私に天罰が下されたのは穏やかで雲一つない秋晴れのことだった。
「離婚しよう」
夫は別の女のところに転がり込むように私から逃げるように居なくなった。そのことを話すと、
「俺達も別れようか」
目の前が真っ暗になった。私の心の灯が消えた音がした。
<心の灯>