「あなたがいたから」が今日のテーマだ。自分は中学生や高校生の頃、「彼氏が欲しい」とか「将来は結婚をしたい」と思ったことはなかった。なんとなく「自分は一生独身で自由に生きていくんだろうな」と思っていたし、それがいいと思っていた。もともと、寂しさを感じるセンサーが壊れているような人間で、ひとりでいるのが自分にとって自然な状態だったからだ。それがなぜか、高校2年の冬に同級生に告白し、そのまま大学時代も付き合い続け、社会人になって結婚し、1児の母になっている。まさか自分に、トイレトレーニング中の2歳児がトイレでウンチするのを「がんばれがんばれ」と応援する日が来ようとは思わなかった。もしも高校生のときに彼に出逢わなければ、きっと今頃の自分は、マイペースで悠々自適な独身生活を送っていたに違いない。
「相合傘」が今日のテーマだ。相合傘というと、なんとなく恋人どうしがするイメージがある。なぜだろう、「あいあいがさ」の「あいあい」の音が愛を連想させるのだろうか。自分の人生経験では、相合傘の相手は家族であることがほとんどで、あまりロマンチックな記憶がないので、ここでは現実的な相合傘の注意点を3つほど書いておこう。
ひとつ。本来の傘の所有権に関わらず、背が高い方が傘を持て。背が低い方が傘を持つと、背の高い方に合わせて傘を高く掲げなければならず、とても腕が疲れる。
ふたつ。2人が平等に濡れるように持て。よっぽど巨大な傘でないかぎり、2人がすっぽり収まるのは無理だ。傘を持っている方が自身の頭上に傘をさせば、当然もうひとりの肩が濡れるし、かと言ってもうひとりを濡らすまいとして自分がずぶ濡れになるのも愛が重すぎる。なるべく平等に濡れるように調整すべし。
みっつ。そもそも相合傘なんかしなくていいようにしろ。相合傘は、2人の人間に対して傘が1個しかない場合の苦肉の策である。そうならないように、天気予報を見るなり、折りたたみ傘を持つなり、ちゃんしろ。以上!
落下、が今日のテーマだ。子供の頃、高いところから飛び降りるのが好きだった。これくらいならなんとか着地できるかな、というぎりぎりの高さから、思い切ってピョンっと跳ぶと、一瞬ふわっと無重力になって、それからズンッと着地の衝撃がくる。うまく着地できると、自分の体が強くなったように感じた。子供がこういうスリルを好むのは、自分の運動能力を鍛えるための本能的な行動なのかもしれない。今では私は、踏み台や階段から跳びたがる2歳児に「ピョンしない! そーっとおりる!」と叫ぶ親の立場になっているけれど、跳びたい気持ちはよく分かる。
1年前なんて大昔で、よく思い出せない。年の瀬になるとテレビの司会者が口をそろえて「1年はあっという間ですね! 」なんて言ったりするけど、自分にとって1年前は幻のようにおぼろげで、全然「あっという間」ではない。何をしていたっけ、1年前。1年前の自分は、働き方が時短勤務から通常勤務に戻ったばかりの頃だ。1年前は息子が1歳だったから、まだほとんど喋らなかったはずだ。2歳になった途端に喋りだして、今ではうるさいほどだ。1年前と今では、職場のメンバーも2人違う。あとは、去年の暮れから突然に香水集めが趣味になったが、1年前は香水のコの字も知らなかった。それから、そうだ、1年前はまだ母が生きていたではないか。どうして最初に思い出さなかったのだろう。去年のゴールデンウィークに帰省したときが、元気な母を見た最後だった。やはり1年前は大昔だ。来年の今頃も、今とはだいぶ違う状況を生きているだろう。
好きな本と言われて真っ先に思いつくのは、「精霊の守り人」だ。初めて読んだのは、小学校高学年だったか、中学生だったか。ハードカバーで、表紙には巻き絵か壁画のような味のあるタッチで、神話のような絵が描かれていた(最近売っている文庫版は、もっと爽やかで洗練されたイラストになっている)。「精霊の守り人」は長く続く「守り人シリーズ」の第一作で、ジャンルとしてはおそらく和風(?)ファンタジー小説ということになる。初めて読んだときは本当に衝撃的だった。本のなかに、これまで全く見たことも聞いたこともない新しい世界が、とんでもないリアリティをもって存在している。本のなかにまるまるひとつ世界が入ってる、しかもそれが、すでになんとなく知れ渡っている「中世ヨーロッパっぽい剣と魔法の世界」とか「平安時代の日本っぽい和風の世界」とかではなく、まったく新しく全てをイチから築き上げたオリジナルの世界だ。作者は文化人類学の専門家で、オーストラリアの先住民族であるアボリジニを研究していたらしい。文化人類学の視点から現実世界を深く観察した後に、そこに見出したものをファンタジー世界に再現し、物語の形でしか伝えられないものを伝えようとしてくれているのだと思う。