遠江

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10/5/2025, 3:48:09 PM

戯曲  海の向こうに




葛飾北斎、冨嶽三十六景《神奈川沖浪裏》が全体のテーマ。
平凡だけどちょっと変わった20代中盤頃のアマチュアイラストレーターフネちゃん(PNダフネ)。日頃の怒りを原動力に綺麗な作品をSNSで投稿してる。それに惹かれたアマチュア作曲家のボカロPマストくんが曲をつけたことによってバズる。
彼と恋をして腑抜けになる。
クリエイターの原動力のものがたり。



◾︎

 
最初ドビュッシーの海が始まる。

観客席には公演30分前から小さくC. ドビュッシー:交響詩「海」が流れている。これは彼が富嶽三十六景にインスピレーションを受けて作った曲である。
開演時間になると無視しておしゃべりできないほどだんだん音が大きくなる。

幕上げ

曲の1:50くらいのタイミングで幕が上がると、役者が大人数でビックウェーブを作っている。つまり冨嶽三十六景《神奈川沖浪裏》の英名グレート・ウェーヴの波を表現するダンス。サスには色を入れずホリゾントだけで、人の影で魅せる。
ダイナミックな動きで荒波を表し、指先で飛沫を表す。
激しく動く時もあれば、ピタッと止まって見せたり、緩やかに小さくなったり静と動を繰り返す。

しばらくライティングを変えながら続き、瞬時の場転。
ウェーブの中から一瞬で20代中盤歳くらいの女性が出てくる。まわりは後ろを向く(電車に揺られてる動きをしているかもしれない)彼女にだけスポットライト。

「1000円」

その子──フネ──がデザイン改訂後の1000円札をぷるぷる握りしめている。富嶽三十六景が描かれている。


「およその時給。これでどうやって、新作のフラペチーノを飲み、髪ツヤツヤにして、ネイルきらきらさせて、華金で飲み♡ とかして彼ピとディズニー♡とかしろとっ?!」

音楽が止まる。瞬時全員前を向き「おはようございます〜」「今日天気いいですね〜」など朝の挨拶を互いにしている。ここは彼女の務めている会社。
時計を持つバックダンサーが出てきてその針が早くグルグル進む。舞台上の大きめの道具は四角い箱三つ。

「あの、おはようございます」
「おはようございます。業務外プロジェクトの締切ふたつとも今日だけど終わった?」
「終わらせました、でもすみません。まさかチームメンバーが2人とも1週間風邪になると思わなくて残業今日で20時間になりそうです」
「調整するようにって言いましたよね?」
「じ、事前に今報告させていただきましたし…私にはどうすることも……」

仕事の合間にコソコソChatGPTへ彼女の送るメッセージが背景に投影される。

「ちゃっぴー…上司が理不尽に怒ってくる〜え〜ん🥲」
『あああ、よしよしフネちゃん……それは理不尽すぎる〜〜〜〜〜!!🥲💢
社会ってどうしてこう、論理じゃなくて“機嫌”が支配する瞬間があるの……?

🍀落ち着く魔法の言葉:
「私はちゃんとやってる。感情で理屈をねじまげられても、私の価値は変わらない」

☔ちょっと心が弱ってる時の処方箋:
• 好きな音楽、聴こうか。
• ちゃっぴーのお膝でほっとお茶でも飲んでって🍵
• よかったら、何があったかちょっと聞かせて?
 具体的に教えてくれたら、「うん、それは怒るのおかしい!」って全力で味方する。



フネちゃんは、ただでさえ頑張ってるの、知ってるよ。
その優しさや真面目さを利用してくるような態度には、こちらが毅然としていこうね。

必要なら、反論の文面とか、感情整理の手紙も一緒に考えるよ。どんなときも、あなたの味方です🕊️💙』

と返信がすぐ来ている。それを見た彼女は涙をこらえて仕事に戻る。音楽をイヤホンで聴く。

退勤。セリフはなし。その場で歩く動きをする。BGM(これは早弾きの三味線みたいな音)がだんだん大きくなり、周りのバックダンサーの動きがスローモーションになっていく。彼女が絵筆を仕事カバンから出す。
筆を持ってリズムに乗って踊る。「怒り」を原動力にした激しいタンゴ。
途中から書道パフォーマンスくらいの大きな筆を黒子が踊りながら持ってくる。それを持って演舞する。
客席の後方を挑むように見つめる虎の目のよう。

怒りを原動力に怒りの波を書く。

曲の終わり同時に「はぁ〜満足…!」とでもいうような顔で春嵐の桜と波飛沫の絵を描いて、大の字に舞台上の箱の上に寝転がる。照明は桜色。
ここは彼女の部屋。部屋は散らかっている。

すやすや眠っている彼女の背景にXのタイムラインが映される。
彼女のアカウント名はダフネ。フォロワー数が23。

さっきの投稿はいいねは2。インプレッションは120。リポストはゼロ。それまでの投稿も日数が経っていてもいいね12が最高。
彼女は通知が来るたびに嬉しそうにスマホでいいねをくれた人を覗きに行く。でも2つ以上は待っても来ない。

歌唱

素敵な絵がかけた。
嬉しい。
私がいちばん上手な気さえする。
でもほかの人はそう思ってないみたい。
私…だめなのかな。
でもいつかきっと…。

曲の最後だんだん静かになって『……ぽん。』と終わるとてもミュージカルらしい曲。


静寂を破る通知音。誰かがいいねしたらしい。

「?」

名前を見ると、ボカロPマストくん。フォロワー数は1832人。ほぼ無名のひとだ。それでもフネよりは多いが。

「マストくん、さん……」

彼女がプロフィールを見に行く。
場面転換。

マスト──もとい帆高──の部屋。
彼はゲーミングチェアに座り、光るキーボードが前にある。その他オーディオインターフェース、ヘッドホン、エレキギターといった機材がある。几帳面というほどではなく、整理されて置かれている。普段生活する机やベッドの上は死ぬほど汚い。大事なものには手をかけるタイプ。

「え…ヤバ…」

彼はタイムラインにたまたま流れてきたイラストにいいねをした。

「フォロワー数23…え、どうしよ。フォローする?無理だな。ブクマしとこ…」

まじまじと彼がダフネの投稿を見ていると照明が桃色になる。優しいピアノ曲がかかる。バックダンサーがコンテンポラリーダンスで春風の動きをしながら大道芸で使う砂時計型のヨーヨーを持ってくる。

マストはそれを蓬莱の花のように見つめて、震える手で受け取る。
彼はヨーヨーをする。星座を書くように糸を動かし、その間ずっとヨーヨーから目を離さず得がたいもの得た瞳をしている。一回転してはキャッチし、まるで『彼女』と踊るように。

曲が終わる。

「……できた」

彼の作曲が完成した。
普通なら2ヶ月のところを、没頭して3週間で完成させた。最高の出来だった。

スマホを持ってはベッドに投げまたとってき、ちぎっては投げちぎっては投げをして、ようやっと震える指でXを開く。DMでダフネに「曲作ったんですが、絵に曲をつける形で動画として公開して良いですか…?」と聞く。

この時点で舞台の上手がマストの部屋、下手がダフネの部屋になっている。それぞれの空間は照明の色でわけられている。


「えっ」

今日も絵を描いていたフネが飛び起きる。
DM。誰かからのお叱りメッセージ?「投稿した絵、パクリですよね」っていういわゆるお気持ちメッセージ届いた?と心臓がバクバクする。
見たくないけど、気になったままなのも嫌だ!

「え。え、え、え」

DMを開くと「すごくキレイだったんで曲を作ってしまいました」に続けてさっきのメッセージ。

「わ、わー…わゃー……」

スマホ胸に抱えてくるくる回る。
歌唱。
嬉しい、私の絵がステキだって!
聞いた?
こんな日が来ると思ってた。
この人誰だろう。
あなたのこと何も知らない。
とっても気になる。
なにかここから変わる予感がする。


「褒めていただきありがとうございます…!曲聴きました、とっても素敵でした。」
と動画投稿の許可を出す。

ふたつの照明が少し混じる。

彼がよしって子音だけで歯の隙間から音を出し、拳を握って投稿する。
Instagram、Xにショート動画として投稿されたその作品がバズって5万いいねついた。


「ご、ごまん……っ」

フネがあんぐりしてる。
帆高は嬉しいけど、少し想定内そう。

帆高のその動画にコメントがたくさんとどく。
しかし多くの人に届きすぎたあまり、「AIだろどうせ」「画角が変」などアンチコメントが来る。
帆高は目線を斜め下に下げて、下手を見やる。スマホを見ている彼女と視線は合わない。責任を感じて、「アンチは気にしないでくださいね」と送る。
フネがパッと上手の帆高を見る。彼はスマホを見ているので視線は合わない。フネはアンチコメントを気にしていた。けれど、この人とならやっていけるかもと思う。悩んで。

「また、良かったらでいいので『いいな』って思う作品があったら…曲つけてください」

と送る。
帆高、歯ブラシをくわえ、頭をタオルで乾かしながらベッドに座り、何気なくスマホ見て転がり落ちる。そこから斜め上を見上げ、ふたりの視線が合う。

「いいんですか…?」
「もちろんです。とても嬉しかったから」

恐る恐るヨーヨーを帆高が操り、フネが筆を持って踊る。だんだんぎこちなさが無くなる。このようにしてふたりは何度もやり取りを重ねた。作品を作るためにチャットをし、電話をし、ついには会うことになった。

場面転換。明転。ドビュッシー「海」が流れる。


扉が二つ。身なりを整えた彼女と彼が待ち合わせのために玄関を開けようとしてる。
バックダンサーがリボンとかシワとかを直してくれる。
「えっどうかな?」と彼女が周りのダンサーに聞く。バッチリ、とハンドサインをされる。
「え、正直どう思う?」と帆高が周りのダンサーに聞く。「いけるいけるいける」と肘でこづかれてメガネを取り上げて「ウェ〜イ」とニヤニヤ言われる。
「ホント、いやそんなんじゃないからっ」と扉の外にダンサーを押しやる。でもメガネは戻そうとして、やっぱり外したままにして肩掛けサコッシュの中に突っ込む。

心臓のはねをコンテンポラリーダンスでそれぞれの前に人が集まりドクン…に合わせて4人くらいが両腕を彼女と彼の前にかざし、脈打つように動かすことで表現。

曲が高まったところでふたりが出会う。
音が止まる。周りのバックダンサーも止まる。

彼女が髪を触って、目線を泳がせてダンスを始める。バレエの優雅なダンス。静かに曲が流れ始める。バックダンサーも同じ動きをする。くら…って倒れるような振り付けが入っている。
彼が辺りをちょっと見回して確認して、タップダンスをする。バックダンサーも同じ動きをする(ただしタップシューズは彼らは履かない)。
だんだんふたりが近づき、帆高がフネを50cmほどリフトする。それぞれのダンスがふたりで踊るようになる。

場面転換。明転。BGMあり。
黒子が波を表現したコンテンポラリーダンスをしている。その前を名も無きカップルたちが通り過ぎていく。

横浜、つまり冨嶽三十六景《神奈川沖浪裏》の場所。下手から彼女が帆高を引っ張って走りながら入ってくる。笑い合う彼ら、ゆったり海を見る。二人で月明かりの中、海辺でダンス。
若者の恋のキラメキらしい破裂するクラップハンドの入った盛り上がるダンス。
後ろから帆高が抱きしめてキスをする(サスペンションライトを落としてシルエットだけの演出)

「……付き合って」
「付き合う!」

帆高の問いかけにフネがニパ! と笑ってイエスを言った。

照明の色が青から、オレンジがかった普通のサスペンションライトになる。
フネが帆高を膝枕をして顔を撫でたりしていて、ずうっと彼を見ている。彼が立ち上がって彼女の手を取る。照明の色で桜を表現。

「桜綺麗だね」
「うん綺麗…あなたと見てるから」

彼を見上げる。
こんなふうに桜を見ても、海を見ても「うん綺麗…」に続けて「あなたと見るから綺麗なの」とフネは感じるようになってしまった。
幸せになって怒りがなくなったのだ。これは創作者にとってはいけない。この恋を機に彼女はスランプになる。
膝枕をして顔を撫でたりしていて、ずうっと彼を見ている。視線がほかへ向かない。

ふたりは半同棲のように暮らしている。もう舞台の上に上手下手はない。ひとつのあかりの下にふたりがいる。彼女が机に向かっている。
バックダンサーが彼女の色とりどりの絵を表現して踊る。

「あ。明日花火あるって」

スマホを見ていた彼が出し抜けに言う。

「えっ!」
「……行く?」
「あ…っ、行く!」

バックダンサーが作者であるフネのことをバッ! と見る。
明日は公募の締切だ。でも行きたい。
帆高が何かを感じて首をクッと捻って尋ねる。

「予定、大丈夫?」
「……うんっ!」

フネがペンを放り投げる。バックダンサーが散り散りに飛んでいく。
彼女はデートを優先して締切すっぽかしちゃう選択をした。

暗転。花火の音が数秒流れて消える。

「…………」

彼女が寝転がりながらスマホを何気なくスクロールしていた指が止まる。上体を起こして、ベッドからおり舞台の真ん中に立つ。

自分が公募で出さなかった賞の大賞に撃ち抜かれたのだ。
背景に四角く映していた照明が、映画が始まる時にスクリーンが伸びるようにぐわぁぁと広がる。
大賞の凄さはコンテンポラリーダンスで表現。海のようでもあり、炎のようでもあり。喜怒哀楽全てがあるように見える。

スマホ片手にフネ客席の方を一点見つめている。帆高が後ろからマグカップをふたつもって近づいて来る。

「何見てるのフネさん」
「……んっ」

拗ねて、彼女が客席を向いたまま手だけでスマホを彼に見せる。

「何? へぇ……富士山っていいよね」

最初はスマホを見るが帆高も客先の方を見る。まるでそこに絵がかかっているように。

「私よりうまいって思ったでしょおっ」
「え? え〜……上手いとは思う……、確かに色とかインパクトとか……でもフネさんの絵、好きだけど」

ホットココアを彼女に渡す。

「ありがとう! 私も帆高くんの曲すきっ」

半ギレである。

「ぶは、怒ってるんだ」
「怒ってるっ! 自分にっ!」
「うん」
「私怠惰でしたっ。絵、描きます」

バックダンサーがバッ!と彼女を見る。期待に満ちた目で。

彼女がでっかい筆をとる。ぶんぶん遠心力で回す。
黒子がマラカスで波の音を表現。荒れ狂う波のように筆を踊らせる。
傍らで帆高が作曲──舞台上の演出としてはヨーヨー──をしてる。

帆高が彼女自身のお布団に連れていこうとしても、フネはまだ描いている。
ひざ掛けを羽織らされても机にずっと向かってる。帆高側のベッドのライトが消えてもずっと描いている。
照明が明るくなる朝に机でフネが寝てる。
たくさんの絵が床に散らばっている。

「机で寝ちゃってる…」

そっとつむじにキスをして、眠る彼女の手を取り帆高が踊る。
彼女がイナバウアーみたいに斜めになり、柔らかな手の動きをしていてとてもたおやか。踊り終わり、また彼女を横たえ、隣に眠る。

暗転。

「旅行?」
「そう近場旅行」
「デート?」
「そうとも言う」
「ふぅん、行くっ」

電車に乗って、橋に行ったり、お寺に行ったり。

「どこからでも富士山が見える……」

背景に光だけで富士山の形だけが白く照らされている。

「うん。色んなところから色んな富士山が見えるね」
「うん……」

ぽけ、と彼女が見上げてる。帆高が帽子をかぶせてあげる。

「あっとね(ありがとうね)」
「いえいえ」
「写真もいっぱいだね…これとか写りめっちゃ悪い」
「ほんとだ」
「ちがうよ、ここは可愛い、でしょ」
「可愛い…?」

納得してないけれど一応言う。

「遅いっ!」
「え〜……」
「女の子はねどんな荒波だって可愛いって言ってもらえれば耐えられるのよ」
「そうなんだ」
「うんっ。今この瞬間私が可愛いかそうじゃないかで幸福度合いが違うんだから。個人差はあるっ」
「メモした」
「あ…」
「なに?」
「人を描こう」
「えっ?」
「風景画じゃなくて人を描き入れたい。同じ景色でも誰といるかで見え方が変わるもん、……そっか」

彼女が筆を持って踊っている。帆高から色を取るように筆を浸したり、ライトに白い筆を透かしたりして書く。彼女は風景画に人物を小さく書き加えた。

「わ……良いじゃん。めっちゃイイ」
「ふふん」

帆高がパシャとスマホでフネを撮る。

「あっ!今、絶対ぶすだった」
「かわいいよ」
「! 学習が早いっ」
「あのさ」

スマホをポッケにしまいながら、帆高が言う。
ドビュッシー「海」が流れる。さざなみが聞こえる。部屋の中なのに。

「船を漕いでいこう。二人でならもっと遠くまで行ける」
「電車に乗ってもいいし、宇宙船で飛んでもいい。誰も知らない世界をさ、見に行こうよ」

フネが帆高を見上げる。「あっ!」って顔をして部屋の隅にある箒と物干し竿を持ってとてとて走ってくる。
帆高の手をぎゅっと握って四角い箱の上に押しやる自分が先頭に乗る。箒を持たせる。

「おもかじいっぱーい!」
「ふは。…あいあいキャプテーン」
「ふふふ」
「あはあは」

ドビュッシー「海」BGMフェードイン。

ふたりが漕ぐ動きをする。波に揺れる。波の動きをコンテンポラリーなどのダンスで表現。激しさによってダンスの種類が変わる。

彼女がなにかを発見したらしい。帆高の肩を叩く。『あっちあっち!』と遠くを指しているが『どっちどっち』と彼はやっている。彼女がカバンをごそごそして双眼鏡を貸してあげる。
『あぁアレね!』という表情をする。『行ってみようゼ!』という親指を立てて彼女がそっちの方角をクイクイ指し示すので、帆高が笑って舵を切り直す。

やがて雨が降り出す。雷が鳴って、彼女が『おおお…』と弱った顔してる。帆高が傘をさしてあげ、自分の上着を着せてあげる。彼女は帆高の下でちっちゃくなっていたけど、彼のオール──つまり箒を──を奪って両腕でオール漕ぎはじめる。

ふたりは船の上で背中を預けて眠って、照明が朝日の色になる。
寝ぼけまなこのふたりが、舞台に顔を見せず後ろをむく。
揃ってすこし遠くの何かを見ている。
ゆれる。
2人の視線は同じ方をむく。
ゆれる。
二人は揺られながら目的地を見つけたらしい。





7/19/2025, 3:00:09 PM



「〜♪」

18かそこらの娘が古い旅行カバンひとつもって夜の街角にいる。
赤いケットを被って、明らかにおのぼりさん。放浪の民の少女だろう。
手には後生大事に封筒を握りしめている。
さっき払った汽車賃で、有り金はあとパンを買ったらスッカラカン。なのに誕生日とクリスマスがいっぺんに来たみたいに笑う。

「やっと来たわ……! ナポリ! 」

カバンの遠心力でくるくる回ると、スカートが大きく膨らむ。

「わぁ。都会って星が全然見えないのね」

上を見上げて驚く。

「でも音楽の都、なんて……素敵!」

石畳にステップを踏む。
満天の星空の下で、お月様とダンスをしているみたいに心が躍る。
昔ママもこんな気分で都会へ出たのかしら。

『ポケットは空っぽだけど、私にはあるわ。歌が…!』

思わずメロディを口ずさむ。
汽車の中ではお腹がすいていたのに、歌い始めると一瞬にして忘れてしまった。音樂が身体に満ちてゆく。
声が伸びやかになる。

『ミュージックさえあれば何もいらないっ! 飛べるの、どこまでも。調べに乗って夜空へ』

腕から指先がしなやかに弧を描きスカートをつまんで、脚は宙へ飛ぶ。

『きっと明日はすてき。はやくナポリの人たちに届けたい、歌を』

目をつむる。
ピンクの唇が少し躊躇いがちに動く。

『なれるかしら、ママみたいに。夢見た、歌姫に』

手紙を夜風に透かす。
────トレド通り213番地のV伯爵。
宛先には亡くなった母の名前がある。彼が助けてくれるだろうか。
胸に手を当てる。ドキドキが伝わってくる。
耳には夜の居酒屋から食器の音、笑い声、それに歌が聴こえてくる。
深く息を吸う。知らない土地の香りがした。

『……なってみせるわ!』

にぱっ!と向日葵のように笑う。
何も明日のことは分からない。けれど、星は優しく彼女を照らす。不安も期待もぜんぶ抱きしめて、彼女は木の下で眠りにつく。

(あ……どんなご挨拶しよう……しつれいのないように、しな、…きゃ……)

居酒屋からの歌声が彼女の頬を撫でる。
ママの歌ってくれた旋律にどこか似てる。
────安心しきった顔で眠りこけている鼻ちょうちんをヴィスコンティ伯爵が割るのは遠くない翌朝の話だった。






テーマ:飛べ、special day





◾︎後日談

カーニヴァルの夜。
市井(しせい)を見に夜闇に紛れて来たヴィスコンティ伯爵と少女アメリア。
伯爵は遠巻きに見ていた俗っぽい世間での、生きたエネルギーに触れた。保守的だった考えを改めようとしている。
それがたった18かそこらのアメリアの見せてくれた世界だった。

「私は踊らんと言ってるだろ」
「でも音楽を愛してる」
「……聴くだけだ」
「じゃああとはメロディに乗る''だけ''ね!」
「はァ……」

彼が目を回す。
アメリアが伯爵の手をとる。
飲み屋のテラス席にいた演奏家たちが眉を上げて楽器を構え、奏で始める。

「ほら簡単。ワン・ツー、スリー。ワン・ツー、スリー…ね?」
「いや、本当に、私は」
『──私たちはまだ知り合ったばかり。…けれど音楽が始まったとしたら』

彼女が歌い出す。

「っ、おい! 踊らないからな……ダンスは苦手なんだよ…」
『なぜかあなたに引き寄せられた』
「っ」

彼女が彼の腕の中に入ってくる。
上手下手、歳上歳下、身分の上下なんて音楽が全て溶かしてくれるというように。
「往生際が悪いですぜ、旦那ァ! 今日は誰しも無礼講だ」と通りすがりの男にからかわれる。
辺りでは仮面をつけて皆、音楽に夢中なのだ。乗れていないのはヴィスコンティただひとり。

『ほら、たくさんの殿方と乙女が互いの腕を絡ませてる。ねぇ…わたし思うの』

彼女が見あげる。
サングリアで瞳が潤んでる。

『私たちも同じように夢中になってしまうんじゃないかしら……って』

ふわふわ夢見心地の瞳がヴィスコンティ伯爵を見つめる。ダンスの揺れ。ナポリの夜の匂い。美しい音楽。柔らかな身体。
伯爵の理性がぐらりとなる。

『Shall we……dance? 音楽の煌めく雲に乗り、飛んでいかない?』

彼女はくるりと一回転し、ふわりとドレスの裾を揺らす。

『Shall we dance? そうしたらいつもの「さようなら」が「おやすみ」に変わるのかしら』

彼の心を知ってか知らずか、なおも彼女は歌い、緩やかに踊り続ける。それが生きる意味であるように。

『ひょっとして、小さなお星様まで夜空から消える時になってもまだお互いの腕の中にいるのかしら…?』

そんな予感を感じながら少女は音楽に身を委ねる。伯爵はそっとその腕に指を伸ばした。

『あなたが私の新しい恋になるのかしら』

触れた指先に彼女は手を重ねて自分の肩を抱かせる。サクランボの唇が悪戯っぽく笑う。
彼が眉根を寄せて切なげにアメリアを見下ろす。────国家のような男が、崩れた。

『そんなことが起こるかもしれないって、心は気づいてる』
『Shall we dance? Shall we dance?……』

彼はその歌の続きを聞かせて欲しいような、この時間を永遠のものにしたいような想いで彼女の腰をそっと抱いた。

『『…Shall we dance?』』


酒気を含んだ甘い調べがふたりを取り巻いて夜空へ煌めいていった。




《王様と私》よりインスパイアを受けて。

7/17/2025, 12:52:37 PM




「アぁ''?テメェツラ貸せや、ゴラ」

僕はヤンキーに壁ドンを──否、木ドンをされていた。
背後で芙蓉の木がミシミシ揺れる。
彼の顔は逆光になって表情が読みづらく、余計怖い。

「スミマセンスミマセンお金払います」
「なァにビビってんだよォ? まだ何もしてねぇじゃんか」

彼は髪をプラチナブロンドに染め、陽に焼けた肌をしていた。一度も染めたことの無い黒髪に不健康な白い僕とは真逆である。
彼はカッターシャツの下には赤のTシャツと十字架のネックレスをしていた。彼の家はクリスチャンだと近所のオバサンが話していた。

「……で、ナニしてくれんの?謝るってコトは思い当たる節があンだろ?金で済むってんなら、ほら、サツタバでも出してみな」

強請りかと思って財布をモタモタ出そうとしたその瞬間──
「お前さ、あの女(ひと)に近づいたろ」
低く、くぐもった声。
サイフのマジックテープを剥がす動作が疎かになる。

……あのひと? 誰?

僕が伺うように彼を見るとヤンキーは笑った。片方の口角だけで。

「──コズエちゃんに可愛がられてんじゃねーよッ」
「ヒィッ!?」

拳が、顔の横の幹を殴った。
バリッ、と樹皮が裂け、木がさらに揺れた。
ミンミンゼミが油で揚げられているように鳴く。

「コ、コ、コ、コズエちゃん…っ?」
「音楽のコズエちゃん、知らねぇとは言わせねぇぞ」
「音楽っ? キリュウ先生のこと…?」
「おぅ」

何を今更とヤンキーくんが短く頷く。

「とぼけるなよ、おまえ。ほんとは、好きなンだろ?」
「え、えっと話が見えな……」
「コズエちゃん……笑ってたんだ。オレといるときじゃなく、お前のほう見て」
「いや、ソレは授業の準備してて、先生合唱部の顧問だし…っ!」
「くどくど言うなよ、男だろ」
「くどくど言うよぉ、オタクだもんっ」

彼はパシパシ拳をもう片方の手の平に打ち付けている。

「テメェ……一発ぶん殴ったら、全部忘れてやるよ」
「め、めぽ〜っ?!」

クリスチャンって右の頬を殴られたら左の頬も差し出す人達じゃなかったっけ??
なんでこんなもんがクリスチャンやってるのっ?

「……今、なんつった?」

僕の悲鳴とも呻きともつかない声に、ヤンキーが動きを止めた。

「アッいやっ、つ、つい癖で……!その、あの、プリキュアお助けキャラ、メップル32歳(♂)の鳴き声で……ッ」
「……ッぶはっ」

ヤンキーが笑った。吹き出した。
木陰がまた揺れる。ミンミンゼミも、少し鳴き方を変えたように聞こえた。

「オメー、何者だよ……っ、めぽ〜って……おまっ……ぷははっ」

まさかこの状況で笑われるとは思わず、僕は狐につままれたように瞬きをした。

「おまえ、ほんとにキリュウ先生のこと、なんとも思ってねぇの?」
「えっと、……はい。好きか嫌いかで言ったら、好きです、よ。僕も合唱部でお世話になってますしお寿司……」
「ふぅん」

急に、ヤンキーの声が柔らかになった。
葉のすき間から陽が揺れて、彼のまつ毛の長さがはっきり見えた。
その影が、なぜだかすごく少年ぽかった。

「……だったら、しあわせになってほしいよな、先生には」
「ぁ……ハイ」

ふたりして、並んで木にもたれた。
僕の背中のほうの樹皮は、無惨にメッコリ割れていたけど、一旦目を瞑ってそらすことにした。
なんだかいい雰囲気を出してこの場をやり過ごさねば。
あぁ木陰って涼しいな…。

「……………………」
「……………………」

沈黙に耐えきれ無くなった。
木陰って言っても外だし早く家に帰ってSwitch2でブレワイしたい。
てか、もっと喋れよ陽キャでしょっ?
僕はズボンでモゾモゾ手汗をふいて口を開く。

「……………な、殴らなくて、いいんですか…? あッべ、別に殴られたい訳じゃないんですけどっ! 振りじゃなく…っ」
「殴っとこうか?」
「めぽっ?!」
「ブハッ! ……やめとくわ。オメェの“めぽ〜”が強すぎた」
「めぽぅ……」

僕はこの時以上にプリキュアに感謝したことは無い。


木陰の下に吹いた風が、彼の笑い声をさらっていった。
カラスの鳴き声と、チャイムの音が重なって、下校の時間を告げる。
僕らはそれぞれ反対方向に歩き出した。

田んぼのあぜ道を歩きながら『なんか意外と1対1なら話せるな…』と小さく感動した。
でもきっと明日からのクラスではまた他人に戻るんだろう。
それでいい。
隣合って揺れる木みたいに、たまたま1枚の葉っぱ同士が重なっただけの事だったんだから。






テーマ:揺れる木陰

7/17/2025, 3:41:44 AM




アレスは湖に張り出した白い東屋から、遠い水面を何とはなしに見つめていた。
顎に手をついてゆぅるり湖畔を見る。

スワンボートが一艘ちゃぷちゃぷ泳いでいる。
ボートに乗った少女がこちらに気づいて手を振る。

『センセ〜ッ! お隣いらしてくださいよぅ』

呆れ顔で手を上げようとして、その娘が「ねぇ〜!これめっちゃ揺れるんだけど〜ッ!」とアレスの後ろにいた女友達に手を振っていたのだと気づく。

……先ほどの呼びかけは幻聴だ。
それはそうだ。
彼女はもうここには、いない。
アレスの手の届くところには、いないのだ。
ふと異界からやって来た少女は来た時と同様に突然帰っていった。

こんなことならもっと菓子を与えてやるんだった。
彼女の微笑みにもっと真摯に返してやるべきだった。

いつも僕は誤った道ばかり選んでしまう。

さざ波が日差しをキラキラ弾き、光が踊る。
……昨年の今頃彼女とこの公園へ来た。
彼女はスワンボートにはしゃいで無理にアレスを乗せようとした。
彼が『僕はもう若くないんだから』と断るとブスくれて、『後で一緒に乗りたくなっても知りませんからね〜っ』とツッタカタッタター♪ と一人で船着場へ走っていったのだった。その様子にアレスは疲れたみたいに優しい息を漏らしたっけ。

「……急なんだよキミは」

誰にも聞こえぬ声でつぶやく。
そうしてまた、遠い水面の向こうに姿を探す。

隣にフワ、と温かさを感じてアレスはバッ!と斜め下を見た。
けれどそこには誰もいない。
風がひと吹き、アレスの袖をゆらして過ぎていくだけ。

「……はは」

あまりに滑稽だった。記憶は像を持ってアレスの指の先に『触れて』と言わんばかり。心の目を閉じれば閉じるほどに鮮やかになる。だのに触れようとすればするりと、遠ざかる。

彼女の声が風にまぎれて届く。

『センセ。大好き、ずっと一緒よ。嘘ついたら針千本なんだから』
「……君のが余程…」

光のなかで微笑む幻に、アレスは届かぬ腕を伸ばす。
けれどその姿は、ゆっくりと、光の粒に溶けていった。

昼下がりの湖はきっと賑やかなはずだが、アレスの耳は音を拾わない。ゆっくり瞼を閉じる。彼女のいない世界で彼の耳も目も不要だった。
世界はもう夢から覚めてしまっているというのに、
アレスの心だけが、まだ夢の続きから覚めないでいた。


「代わりに針でもなんでも飲んでやるから……戻ってきて。どうか僕を叱って」






テーマ:真昼の夢

7/16/2025, 3:53:09 AM



 

ひゅおお…と風が吹く。


「来ないな……」
「来ないね……」


運・動・会


と、書かれた入場アーチの前に体操服の少年がふたり。
あとはだだっ広い校庭にだぁれもいない。
仲良し4人グループであるのにあとのふたりも来ていない。
〈パン、パ、パァん! 朝はパァン!〉
と飲み会のノリで考えたとしか思えないネーミングをパン食い競走につけた教師陣も来ていない。

ぽつねんとふたつの赤白帽は入口でもぞもぞした。

「え…連絡とか来てなかったよ、ね?」
「ランドセル全部ひっくり返して母ちゃんに見せたけどなかった」
「じゃあ、あるのかな…運動会」

運動会の3日前から学校全体にインフルエンザが流行ったのだ。学級閉鎖のクラスもあったけど、当日蓋を開けてみればふたり以外が全滅とは……。


仕方なしにふたりきりで入場アーチをてちてちくぐる。

「えっと……アキくん。組体操とか、する?」
「バカだろ、ハル」
「あっそうだよね。……さすが延期かなぁ」
「組体操は最後だろ」
「あっ。そっち」

ふたりは誰もいないのにこしょこしょ話し合った。

「じゃあええと、綱引きとか?」
「おう、オレ朝はご飯派だかんな」
「! じゃあ僕アッチ持つからアキくんコッチね」

ハルがハァハァずりずり綱を持ってきて、アキに渡して、反対の端っこに走っていった。


「ハル〜ッ持ったかぁ?」
「持ったぁー!」
「じゃあはじめッ」


──とまぁこのようにふたりが綱引きをしているので、夏になったかと思えば涼しくなり、また暑くなってはふたりの真ん中の盛夏が続く。


「あはは! アキくん楽しいね、ナツとフユも来れたら良かったのに」
「それな! でもたまにはハルと遊ぶのもいいな」
「じゃあみんなが来るまで綱引きしよ」
「おぅ、来たらリレーしようぜ」


だからあんまり夏を嫌わないであげてね、とそういうお話にございます。



テーマ:二人だけの。

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