遠江

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「〜♪」

18かそこらの娘が古い旅行カバンひとつもって夜の街角にいる。
赤いケットを被って、明らかにおのぼりさん。放浪の民の少女だろう。
手には後生大事に封筒を握りしめている。
さっき払った汽車賃で、有り金はあとパンを買ったらスッカラカン。なのに誕生日とクリスマスがいっぺんに来たみたいに笑う。

「やっと来たわ……! ナポリ! 」

カバンの遠心力でくるくる回ると、スカートが大きく膨らむ。

「わぁ。都会って星が全然見えないのね」

上を見上げて驚く。

「でも音楽の都、なんて……素敵!」

石畳にステップを踏む。
満天の星空の下で、お月様とダンスをしているみたいに心が躍る。
昔ママもこんな気分で都会へ出たのかしら。

『ポケットは空っぽだけど、私にはあるわ。歌が…!』

思わずメロディを口ずさむ。
汽車の中ではお腹がすいていたのに、歌い始めると一瞬にして忘れてしまった。音樂が身体に満ちてゆく。
声が伸びやかになる。

『ミュージックさえあれば何もいらないっ! 飛べるの、どこまでも。調べに乗って夜空へ』

腕から指先がしなやかに弧を描きスカートをつまんで、脚は宙へ飛ぶ。

『きっと明日はすてき。はやくナポリの人たちに届けたい、歌を』

目をつむる。
ピンクの唇が少し躊躇いがちに動く。

『なれるかしら、ママみたいに。夢見た、歌姫に』

手紙を夜風に透かす。
────トレド通り213番地のV伯爵。
宛先には亡くなった母の名前がある。彼が助けてくれるだろうか。
胸に手を当てる。ドキドキが伝わってくる。
耳には夜の居酒屋から食器の音、笑い声、それに歌が聴こえてくる。
深く息を吸う。知らない土地の香りがした。

『……なってみせるわ!』

にぱっ!と向日葵のように笑う。
何も明日のことは分からない。けれど、星は優しく彼女を照らす。不安も期待もぜんぶ抱きしめて、彼女は木の下で眠りにつく。

(あ……どんなご挨拶しよう……しつれいのないように、しな、…きゃ……)

居酒屋からの歌声が彼女の頬を撫でる。
ママの歌ってくれた旋律にどこか似てる。
────安心しきった顔で眠りこけている鼻ちょうちんをヴィスコンティ伯爵が割るのは遠くない翌朝の話だった。






テーマ:飛べ、special day





◾︎後日談

カーニヴァルの夜。
市井(しせい)を見に夜闇に紛れて来たヴィスコンティ伯爵と少女アメリア。
伯爵は遠巻きに見ていた俗っぽい世間での、生きたエネルギーに触れた。保守的だった考えを改めようとしている。
それがたった18かそこらのアメリアの見せてくれた世界だった。

「私は踊らんと言ってるだろ」
「でも音楽を愛してる」
「……聴くだけだ」
「じゃああとはメロディに乗る''だけ''ね!」
「はァ……」

彼が目を回す。
アメリアが伯爵の手をとる。
飲み屋のテラス席にいた演奏家たちが眉を上げて楽器を構え、奏で始める。

「ほら簡単。ワン・ツー、スリー。ワン・ツー、スリー…ね?」
「いや、本当に、私は」
『──私たちはまだ知り合ったばかり。…けれど音楽が始まったとしたら』

彼女が歌い出す。

「っ、おい! 踊らないからな……ダンスは苦手なんだよ…」
『なぜかあなたに引き寄せられた』
「っ」

彼女が彼の腕の中に入ってくる。
上手下手、歳上歳下、身分の上下なんて音楽が全て溶かしてくれるというように。
「往生際が悪いですぜ、旦那ァ! 今日は誰しも無礼講だ」と通りすがりの男にからかわれる。
辺りでは仮面をつけて皆、音楽に夢中なのだ。乗れていないのはヴィスコンティただひとり。

『ほら、たくさんの殿方と乙女が互いの腕を絡ませてる。ねぇ…わたし思うの』

彼女が見あげる。
サングリアで瞳が潤んでる。

『私たちも同じように夢中になってしまうんじゃないかしら……って』

ふわふわ夢見心地の瞳がヴィスコンティ伯爵を見つめる。ダンスの揺れ。ナポリの夜の匂い。美しい音楽。柔らかな身体。
伯爵の理性がぐらりとなる。

『Shall we……dance? 音楽の煌めく雲に乗り、飛んでいかない?』

彼女はくるりと一回転し、ふわりとドレスの裾を揺らす。

『Shall we dance? そうしたらいつもの「さようなら」が「おやすみ」に変わるのかしら』

彼の心を知ってか知らずか、なおも彼女は歌い、緩やかに踊り続ける。それが生きる意味であるように。

『ひょっとして、小さなお星様まで夜空から消える時になってもまだお互いの腕の中にいるのかしら…?』

そんな予感を感じながら少女は音楽に身を委ねる。伯爵はそっとその腕に指を伸ばした。

『あなたが私の新しい恋になるのかしら』

触れた指先に彼女は手を重ねて自分の肩を抱かせる。サクランボの唇が悪戯っぽく笑う。
彼が眉根を寄せて切なげにアメリアを見下ろす。────国家のような男が、崩れた。

『そんなことが起こるかもしれないって、心は気づいてる』
『Shall we dance? Shall we dance?……』

彼はその歌の続きを聞かせて欲しいような、この時間を永遠のものにしたいような想いで彼女の腰をそっと抱いた。

『『…Shall we dance?』』


酒気を含んだ甘い調べがふたりを取り巻いて夜空へ煌めいていった。




《王様と私》よりインスパイアを受けて。

7/19/2025, 3:00:09 PM