アレスは湖に張り出した白い東屋から、遠い水面を何とはなしに見つめていた。
顎に手をついてゆぅるり湖畔を見る。
スワンボートが一艘ちゃぷちゃぷ泳いでいる。
ボートに乗った少女がこちらに気づいて手を振る。
『センセ〜ッ! お隣いらしてくださいよぅ』
呆れ顔で手を上げようとして、その娘が「ねぇ〜!これめっちゃ揺れるんだけど〜ッ!」とアレスの後ろにいた女友達に手を振っていたのだと気づく。
……先ほどの呼びかけは幻聴だ。
それはそうだ。
彼女はもうここには、いない。
アレスの手の届くところには、いないのだ。
ふと異界からやって来た少女は来た時と同様に突然帰っていった。
こんなことならもっと菓子を与えてやるんだった。
彼女の微笑みにもっと真摯に返してやるべきだった。
いつも僕は誤った道ばかり選んでしまう。
さざ波が日差しをキラキラ弾き、光が踊る。
……昨年の今頃彼女とこの公園へ来た。
彼女はスワンボートにはしゃいで無理にアレスを乗せようとした。
彼が『僕はもう若くないんだから』と断るとブスくれて、『後で一緒に乗りたくなっても知りませんからね〜っ』とツッタカタッタター♪ と一人で船着場へ走っていったのだった。その様子にアレスは疲れたみたいに優しい息を漏らしたっけ。
「……急なんだよキミは」
誰にも聞こえぬ声でつぶやく。
そうしてまた、遠い水面の向こうに姿を探す。
隣にフワ、と温かさを感じてアレスはバッ!と斜め下を見た。
けれどそこには誰もいない。
風がひと吹き、アレスの袖をゆらして過ぎていくだけ。
「……はは」
あまりに滑稽だった。記憶は像を持ってアレスの指の先に『触れて』と言わんばかり。心の目を閉じれば閉じるほどに鮮やかになる。だのに触れようとすればするりと、遠ざかる。
彼女の声が風にまぎれて届く。
『センセ。大好き、ずっと一緒よ。嘘ついたら針千本なんだから』
「……君のが余程…」
光のなかで微笑む幻に、アレスは届かぬ腕を伸ばす。
けれどその姿は、ゆっくりと、光の粒に溶けていった。
昼下がりの湖はきっと賑やかなはずだが、アレスの耳は音を拾わない。ゆっくり瞼を閉じる。彼女のいない世界で彼の耳も目も不要だった。
世界はもう夢から覚めてしまっているというのに、
アレスの心だけが、まだ夢の続きから覚めないでいた。
「代わりに針でもなんでも飲んでやるから……戻ってきて。どうか僕を叱って」
テーマ:真昼の夢
7/17/2025, 3:41:44 AM