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10/13/2025, 5:11:59 AM

「俺たちの冒険はどこまでも続くんだ!」
 手の中にある漫画では、主人公のケータは勇者の剣を振り上げた。ケータは魔法使いのリンと僧侶のチョーローとともに、崖の上から魔王城を見つめた。

 これは、まぎれもない打ち切りエンド。

 魔王は人間界を愛していて、それゆえに理想郷を作ろうと破壊を繰り返している。一方で、ケータは魔王と知らず何度も会って、友情を育んでいる最中なのに……キャラクターは魅力的だし、単純な勧善懲悪でもない人間讃歌。

 なんで、こんなおもしろい漫画が打ち切られるんだろう。私はどこまでも連載を追いかけるつもりだったのに――と、カフェの扉が開いて、平岡さんが入ってきた。私が手を振ると、平岡さんは笑顔で歩いてきて席についた。

「香川さん、久しぶり。元気だった?」
「はい。おかげさまで」
 平岡さんは目尻の皺が深くなったけれど、艶々のダークブラウンの髪と爽やかな笑顔は変わっていなかった。
「あ、香川さん、今も漫画好きなんだね。それおもしろい?」
「はい。でも、打ち切られちゃって」
「打ち切り?」
「雑誌連載の途中で、急に最終回になっちゃったんです。たぶん人気がないとかで」
「もう復活しないの?」
「はい、たぶん……」
 平岡さんはコーヒーを啜ってから、長く息を吐いた。言葉じゃなく息だけが出てくるのは、きっと私の返事をわかっているから。それでも彼はカップを両手で包みながら、ひと呼吸置いてこちらを見た。

「……香川さん、うちの美容室に戻ってこない? 2号店を出したし、今でも香川さんを指名したいっていうお客さんがいるんだ」
「でも……私は人間関係で辞めたので」
 三年前、私は平岡さんの美容室を辞めた。渚ちゃんという後輩と揉めて。つまらない小さな嫌味でも、疲れた体には堪えた。

「あれから人員を増やしたし、渚ちゃんとは別の店にする。というか、あのときは香川さんをうまく庇えなくて、申し訳ない」
「いえ」
「でも、渚ちゃんは実は……」
 平岡さんが背筋を伸ばしたそのとき、スマホの通知が鳴った。正直、もう過去には戻りたくない。私は今の穏やかで退屈な職場で働き続けたい。

「すみません、通知が」
 平岡さんから目を逸らして、スマホの画面を見る。と、そこには「アニメ化!」の文字が躍っていた。ケータと魔王が肩を組んだ絵とともに。私は目を見開いた。

「どうしたの? 急用?」
 平岡さんが心配そうにこちらを見ている。
「いえ、大丈夫です」
 私は慌ててスマホをひっくり返す。ケータと魔王が肩を組んでいた。それは、彼らの友情の証。あの最終回の続きがアニメで見られるのかもしれない。鼓動が速くなる。早く帰って、この情報を調べたい。
 ここで過去をこねくり回している暇はない。

「平岡さん。ありがたいお話なんですが、私は戻る気はありません。お声がけいただいて、申し訳ありません」
 頭を下げたけれど、平岡さんは「いやいや」と手を振りながら頭をかいた。
「いや、こっちの我儘だから。香川さんにはつい甘える癖がついちゃって、ごめん。渚ちゃんも甘えてたから」
「え?」
「渚ちゃん、香川さんに嫉妬っていうか、憧れてたんだよ」
 一瞬、渚ちゃんの鋭い視線が脳をかすめる。
「そんな訳ないですよ。すごく睨まれたし……」
 そう言いながら、脳裏にはケータと魔王の遭遇シーンが浮かんでいた。いかにも悪そうな魔王に斬りかかるケータ。戦いながらも、手負いのケータに事情を聞く魔王。
 だけど、私は渚ちゃんに斬りかかりも、対話もしなかった。このままじゃ、すっきりした気持ちでアニメを観られない気がする。

「渚ちゃんと会わせてもらえることは可能ですか?」
 言葉が口をついて出た。平岡さんの美容室に戻るかはわからない。でも、エンドロールはまだ終わっていない。そう思ってしまったから。

10/12/2025, 2:24:13 AM

「志村さん、付き合ってください!」
 放課後の校舎裏。
 頭を下げた男子のうなじの向こう側。そこに神代くんがいた。神代くんはゴミ袋を持って、目を見開いていた。
 ああ、神様。高校に入学して初めて、神代くんと目が合いました。吹き抜ける風は涼しくて、制服の半袖をパタパタと揺らしている。

 神代くんは陸上部のエース。図書室からグラウンドを見下ろすと、いつも風みたいに速く走る神代くんがいた。神代くんは、集会で表彰されて照れ笑いして、部活で友達と話すときは口を大きく開けていた。

 本当はもっと近くで、神代くんの長い睫毛や目尻の皺を見たい。話したい。笑いあいたい。
 けれど、何だか住む世界が違う気がして――私が神代くんと交差することはないと思う。
 ずっと遠くから見つめているだけ。そう思っていたのに、こんなところで交わるなんて。

 チャンスだ。
 神代くんに私のことを覚えてほしい。
 目の前の男子にどう対応したら、神代くんに好印象を与えるだろう。告白されるなんて、初めてだ。手を口に添えて、未知の交差点で私は迷う。

「ありがとう。付き合おう」
 私は鼻にかかった声を出して、穏やかに微笑んだ。
「えっ、まじで?」
 男子は顔を上げた。頬を真っ赤に染めて。
「うん。こんな勇気を出して告白してくれたんだもの。今、好きになったよ」
「やった。めっちゃ嬉しいんだけど」
 私は笑顔で目を細めて、視線をそっとゴミ捨て場に寄せた。神代くんはゴミ袋を片付けて、早足で去っていく。

 これでいい。
 優しい神代くんには、告白成功シーンが深く記憶に残るはず。私は神代くんの脳にインプットされた。
 頬が熱を持っているのがわかる。

9/25/2025, 12:42:54 PM

 転職は投機。いや、ギャンブルに近い。
 もう辞めたはずのあの会社を思い出すだけで、胃から酸っぱいものが込み上げてくる。
 忘れた方がいい。私は洗面所で髪をキュッと一つに結び、コンパクトを開けた。

「うん。まだ使える」
 四隅に残ったファンデーションをスポンジでつついて鏡を見た。すると、鏡面がさざ波みたいにざあざあと揺れている。思わず目を閉じてから、そおっと開けると、鏡にはセミロングのウェーブ姿の私が写っていた。

「私? 何そのひっつめ髪」
 鏡の中の私は、目をまんまるに開けている。よく見ると、頬がふっくらしていて何だか若々しい。丁寧なピンク色のチークと、幾重にも重なったアイシャドウのせいかもしれない。

「そっちこそ二重顎になってる」
 せめて言い返す。
「だって、働いてるんだもん。おいしいもの食べてもいいじゃない」
「何の仕事?」
「え? 食品会社の事務よ。新卒からずっとやってるでしょう?」
 やっぱり。
 ぽっちゃりウェーブは、転職しなかった私だ。毎日、大量のルーチン作業をする工場事務に勤め続けた私。
 つまり、鏡の向こうはパラレルワールド。

「……私は転職したの。営業にね」
「え?」
「でも、向いてなかった。営業って、研究と顧客の橋渡しなの。板挟みになっちゃってね。胃潰瘍で辞めたわ」
 何が正しいのか、どこに進めばいいかわからなくなった。でも、広い世界に出たいと営業に転職したからには、簡単には手放したくなかった。なのに、胃が痛くてしゃがみ込むと、震えが止まらず、立ち上がれなかった。

「そう……じゃあ、転職しなかったのが正解か。私も迷ったんだけど……」
 ぽっちゃりウェーブは手を口に当てて、長い息を吐いた。気の毒そうな表情で見つめられると、悲しくなる。パラレルワールドなんて見たくなかった。と、廊下からパタパタと走ってくる音がする。

「ママー? 誰と喋ってるの?」
 娘が扉からひょっこりと顔を出した。振り返る直前――ぽっちゃりウェーブは隠しきれない寂しさがにじみ出るような、泣き笑いの表情をしていた。

「なんでもないよ。ひとり言」
 娘を抱き上げて、もう一度鏡を見る。写ったのはひっつめ髪の私と、笑顔でバイバイしている娘。

 営業を辞める直前、夫からプロポーズされた。周囲には「結婚のため」と説明できて、有り難かった。
 もちろんキャリアは諦めた。けれど、それが失敗とは全く思っていない。
 抱いた2歳の娘は、温かくて春の匂いがした。

9/24/2025, 1:27:56 PM

「えっ? 今、何時?」
 リビングの机に突っ伏して、寝てしまっていた。よだれの洪水を手で拭いながら、薄暗い部屋で時計を探す。
 と、壁時計の針が一本になっていて、ぎょっとした。

「まさか、怪盗サイレントムーンが時間を奪った?」
 妙なことを口走った瞬間、深夜1時5分の短針がひょっこり顔を出した。時計の針が重なっていただけか。
 そして、またリアタイできなかった。

 私はノロノロと席を立ち、テレビのリモコンボタンを押す。チャンネルの数字が青白く浮かび、画面が切り替わった。現れたのは、中学生の勉強合宿。
「夏を制する者は受験を制す」と書かれた鉢巻を締めた中学生たちが、夜中にも関わらずガリガリと鉛筆を動かしている。
 
 カメラがぐっと寄って、窓の外に怪盗サイレントムーンが映し出された。シルクハットを目深にかぶった彼は、木の上から建物の中をじっと覗いていて――いったい、ここから何を盗むんだろう。

「私なら合宿ごと盗んでほしいな……」
 勉強なんて大嫌いだった。なのに、親に言われて塾に通わされた日々。そんな態度だから何も血肉にならなかった。
 そのとき、画面から叫び声が鳴り響いた。

「塾長、テストの答案が盗まれています!」
「何っ、まだ採点途中じゃないのか?」
「はい。どうしましょう……あっ!」
 ピンクのカーディガンを着た女性が、机の上を指差した。そこにはシルクハットが書かれたカード。

「これは怪盗サイレントムーン!」
「ああ、盗まれたものは二度と戻って来ないという……」
「くそっ、警察に連絡してくれ。答案は諦めるしかないのか!」
「……もう、今日はお開きにしては?」
「不本意だが、仕方ない」
 塾長が部屋からドスドスと音を立てて出ていく。女性はカーディガンの裾をキュッと掴んで呟いた。

「ありがとう。怪盗サイレントムーン」
 マイクが拾った小声が、リビングの静けさに混じった。私は目を見開いた。女性の先生が依頼していたとは。
「これでやっと眠れるわ……ブラックな勉強合宿とは、もうさよならね」
 女性は椅子に座って船を漕ぎ出した。それを窓の外から眺める怪盗サイレントムーン。手には“何も採点されていない”答案の山。
 
 怪盗サイレントムーンは、女性の睡眠時間を守ったのか。

 私はふと頬に触れる。乾燥してカサカサした肌。やはり12時を過ぎて起きているのは良くない。最初に時計の針が重なったときに寝るべきなのだ。

9/23/2025, 11:34:24 AM

 応援席から「がんばれー」という声援が聞こえる。
 スタートラインから振り返って見ると、クラスのみんなが立ち上がって、手を口に当てて叫んでいて――その背後に、日に焼けた先生が見える。陸上の本を片手に、俺たちとバトン練習をした先生が。

 先生は古典担当で演劇部の顧問。
 陸上とはもちろん無縁。だけど「三年間の集大成だ」と言って、この一週間毎日練習した。俺たちは受験生なのに。

「バトンパスのときに減速しないのがいいんだよ」
 他のクラスはトラックで練習していたのに、俺たちだけグラウンドの隅っこで、ひたすらバトンを繋ぎ続けた。おかげで、大きく開かれた手のひらには、バトンが吸い込まれるように入るようになった。

「先生、何でうちだけバトンパスばっかやってるんだよ?」
「何でって、リレーの肝だぞ。バトンは」
「……先生、素人だろ?」
「まあな。でも、次に繋ぐ大切さは演劇と一緒だからな」
「どういうこと?」
「セリフもバトンも、自分の意図を正確に次に渡すために工夫するのが大切……ってことだ」
 先生は腕を組んで、白い歯を見せた。



 号砲が鳴り、俺はバトンを握りしめて勢いよく飛び出した。けれど、周りはもっと速い。コーナーを曲がると、第二走者が手を振っている。
 いいから走り出せ。俺はトップスピードのままバトンを繋いだ。
 棒になった足に手をつき、深呼吸して顔を上げる。バトンはアンカーに渡るところだった。集団の中から一番に抜け出したのは、うちのクラスだった。

「行け!」

 アンカーが走り抜けた後で、先生が腕を振り上げたのが見えた。俺たちが練習を続けられたのは、先生のおかげだ。先生が一生懸命リレーを勉強していたから。先生がずっと熱い声援を送ってくれたから。

「僕と一緒に、体育祭を盛り上げよう」
 先生の言葉を俺たちはバトンに込めた。

 アンカーが一着でゴールテープを切る。

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