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 応援席から「がんばれー」という声援が聞こえる。
 スタートラインから振り返って見ると、クラスのみんなが立ち上がって、手を口に当てて叫んでいて――その背後に、日に焼けた先生が見える。陸上の本を片手に、俺たちとバトン練習をした先生が。

 先生は古典担当で演劇部の顧問。
 陸上とはもちろん無縁。だけど「三年間の集大成だ」と言って、この一週間毎日練習した。俺たちは受験生なのに。

「バトンパスのときに減速しないのがいいんだよ」
 他のクラスはトラックで練習していたのに、俺たちだけグラウンドの隅っこで、ひたすらバトンを繋ぎ続けた。おかげで、大きく開かれた手のひらには、バトンが吸い込まれるように入るようになった。

「先生、何でうちだけバトンパスばっかやってるんだよ?」
「何でって、リレーの肝だぞ。バトンは」
「……先生、素人だろ?」
「まあな。でも、次に繋ぐ大切さは演劇と一緒だからな」
「どういうこと?」
「セリフもバトンも、自分の意図を正確に次に渡すために工夫するのが大切……ってことだ」
 先生は腕を組んで、白い歯を見せた。



 号砲が鳴り、俺はバトンを握りしめて勢いよく飛び出した。けれど、周りはもっと速い。コーナーを曲がると、第二走者が手を振っている。
 いいから走り出せ。俺はトップスピードのままバトンを繋いだ。
 棒になった足に手をつき、深呼吸して顔を上げる。バトンはアンカーに渡るところだった。集団の中から一番に抜け出したのは、うちのクラスだった。

「行け!」

 アンカーが走り抜けた後で、先生が腕を振り上げたのが見えた。俺たちが練習を続けられたのは、先生のおかげだ。先生が一生懸命リレーを勉強していたから。先生がずっと熱い声援を送ってくれたから。

「僕と一緒に、体育祭を盛り上げよう」
 先生の言葉を俺たちはバトンに込めた。

 アンカーが一着でゴールテープを切る。

9/23/2025, 11:34:24 AM