疲れたから、ドライヤーもせずに寝てしまおう。めんどくさがり屋の君と一緒に。同じ濡れた髪ならば、風邪をひいてもいいような気がする。気のせいだろうけれど。
霜降る朝。
一件の店の前に行列ができていた。
大人気店だ。
「朝早くからWEB予約したんじゃないの?」
後部座席から、娘の気だるい声が聞こえる。曇天の空の下で、私の気持ちも沈む。
「予約開始とともにログインしたわよ。でも、30番。ここで待ってないと抜かされるし、仕方ないの」
「ライブチケットの争奪戦かよ……頭痛い」
これで「じゃあ、帰ろう」と言えたら、どんなに楽だろう。でも、私たちは何としても並ばないと。あの香りを吸い込んだ瞬間の達成感と安心感は、他のものには代えられない。
「30番の方、お入りください」
白いエプロンを付けた恰幅の良い女性が、手を口に添えて叫んでいる。私は車の窓から身を乗り出す。
「はい! 30番です。お願いします」
やっときた。
娘はトロンとした目に涙を浮かべながら、重そうな身体を動かす。私は娘の脇を支えながら、一緒に店の扉をくぐった。
「インフルエンザの疑いです。高熱で、吸入を希望します」
マスクを付けた看護師が体温計を振りかざして、微笑む。奥の診察室では点滴につながれてぐったりしているおじさんの姿が見えて、「ギャー」と泣きわめく子供の声が病院内に響き渡っている。
冬がやってきた。
インフルエンザの大流行とともに。
歳をとると、動けなくなる。
40歳を過ぎて、明らかに出かけるのが億劫になった。家でスマホをいじりながら、こたつに入って、みかんを食べる。私はもう、こたつ虫から孵化できないかもしれない。
「忘年会、参加されます?」
キーボードから顔を上げると、バインダーメモを持った青年が白い歯を見せて笑っていた。
行きたくねえ。
忘年会には、知らないオッサン、ウザ絡みのオッサン、嫌なオッサンが混じっている。むさくるしいオッサンとともに封じ込められた空間に、鍋の湯気が上がる。私は蒸れてしまって、呼吸できない気がする。
「あ……どうしようかな……」
「今回は蟹のフルコースですよ。行きましょうよ!」
「いや……」
そのとき、スマホの通知が鳴った。「ちょっと、ごめん」と断って、スマホをポケットから取り出す。この隙に冷静になって考えよう。
こたつか、忘年会か。
虫か、孵化か。
『お姉ちゃん、赤ちゃん産まれたよ!』
メッセージとともに、ふかふかのタオルに包まれた小さな赤ちゃんがあくびをした写真が付いていた。超かわいい。今すぐ会いたい!
『おめでとう! すぐ行く!』
私は親指をスマホ画面に高速連打した。そして、ゆっくりと青年の方を向き直す。
「ごめん、妹に赤ちゃんが産まれたみたい。これから帰るから、忘年会は行けないや」
「えっ!? おめでとうございます! いやいや、忘年会なんか全然お気になさらず」
「ありがとう。今から沖縄まで帰らなきゃだから」
本当は電車で二時間。
「沖縄……これからですか?」
窓の外を見ると、月明かりに海が照らされていた。私の心は踊っているけれど、田舎の夜は静かだ。
「だって早く会いたいもん」
「アグレッシブっすね……」
「そんなことないよ」
そう言って、大きく息を吸った。
なんだ、全然飛べるじゃんと。
「行くぞ! 課長のフルネームは!?」
「えっ? 山田…やま……」
戸惑いながら卓球台に出したラケットの上にボールが浅く当たって、一条さんのコートにふわりと落ちた。
一条さんは左足を思い切り踏み込んで、スマッシュ。私の横を黄色いボールがかすめていった。
「デュース! 次は三日月さんのサーブで!」
私はスリッパをパタパタさせて、床に転がるボールを追いかける。
こんなに手こずるなんて。たるんだ浴衣を帯にキュッと入れて、卓球台の前に立ち直した。
「三日月、負けねえよ。たとえ実力差があったとしても、最後は俺が勝つ!」
両手を腰に当てた一条さんがニヤリと笑う。
ギャラリーからは「一条、盤外戦術なんて卑怯だぞ!」、「正々堂々とやれ!」などという声が上がった。
A崎文具株式会社 営業部の温泉卓球大会決勝――全国大会出場経験のある私、三日月あかりが圧倒的有利と思われたが、一条さんの終わらない問いに翻弄されているうちに、デュースに持ち込まれてしまった。
「盤外戦術じゃねえよ」
ギャラリーに一条さんがゆっくりとした口調で言い返す。
「俺は三日月に『質問に答えろ』なんて言ってない。勝手に三日月が混乱してるだけだぜ」
「屁理屈だ! 三日月さん、新人だからってこんな奴に遠慮せずに、バシッと決めてやれ!」
ラガーマンみたいな角刈りの先輩に白い歯を見せられて、私は曖昧に笑った。
そう、確かに私は質問に答える義務はない。
なのに、反射的に口が動く。頭の中も動く。
そのちょっとしたノイズが、私の動きを遅らせる。だって、私は先輩について回っているだけの新人営業マンだから。
でも、一条さんのサーブをミスってばかりじゃ、いつまで経っても終わらない。
その瞬間、ふと過去の光景が頭をよぎった。
パンフレットばかり必死に見て、お客様に説明していたあの雨の日。
もちろん商談はうまくいかず、傘をだらりと肩にかけて帰る私に、ホットコーヒーを渡してくれた一条さんが呟いた。
「三日月、営業の基本は相手の観察。それと、ちょっとした踏み込む勇気だ」
――今、この瞬間も同じじゃない?
ラケットを握り直して、観察する。
コートの向こう側の一条さんは涼しい顔をしているけれど、ラケットで顔を仰ぎ、頬に汗がつたっている。鋭いコースのスマッシュを受け切れる体力は、ない。
決めた。
私はラケットをかまえて、中腰になる。一条さんはボールを高く宙に放り投げた。
「三日月! 令和なのに何で温泉卓球大会なんかやってると思……」
「一条さんを打ちのめすためです!」
サーブが真っすぐ私の体に向かってきた。咄嗟に横へステップを踏み、ラケットを整える。ボールが弾む瞬間、体が自然に動いてくれた。位置は理想通り。
踏み込んで、思い切り振ったラケットとともに、ボールは一条さんのコートに突き刺さった。
「ゲームセット! 三日月さんの勝ち!」
周りから、わあっと歓声が上がる。
私はほっと息を吐いた。一条さんは頭をかきながら、こちらに向かってきて、手を差し出した。
「ありがとうございました」
私も手を出して握手する。一条さんはふーっとため息をついた。
「あの、何か?」
「何かじゃねえよ。俺を打ちのめすって?」
「あ、あれは……」
あれは決め打ちだった。どんな質問が来ても一条さんの名前を出せば違和感ないと思って、叫んだ。でも、やっぱり失礼だったか。握手の中にじんわりと冷や汗が混じる。
「すみませ……」
「いい踏み込みだったよ」
「え?」
一条さんはそう言って目を逸らした。
そして、タオルを首からかけたまま、浴衣を翻して去っていく。少し顔が赤かったような気がするのは、私の思い上がりだろうか。
夏帆ちゃんの指先は、まるで揺れる羽根みたい。キーボードを叩く手は、鳥が今にも飛び立ちそうな勢いだ。
「ぐうっ……また、負けた」
ノートパソコンの前で突っ伏した私を見た夏帆ちゃんは、あははと笑った。
画面に映っているのは『寿司打』というタイピングゲーム。回転寿司のお皿が行ってしまう前に文字を打ち込み、速さを競うゲームである。
「ねえ、何でそんなに速いの?」
「練習したからだよ。小学校のときから、結構やってたもん」
「ふーん」
私は椅子の背もたれに寄りかかって、ポケットからスマホを出した。RPGのゲームでもしようかと親指をスマホに滑らせかけて、ふと気付く。
「ねえ。夏帆ちゃんは何で、スマホ持ち歩いてないの?」
夏帆ちゃんがスマホをいじっているところを見たことがない。LINEは返ってくる。けれど、すごく時間が経ってから。なのに、夏帆ちゃんは怪訝な表情でカバンの底をゴソゴソ掻き回して、スマホを取り出した。
「持ち歩いてるよ、ほら」
「そんなところにあったんだ。全然使ってないじゃん」
「使ってるもん。LINEとか」
LINEだけだろう。
夏帆ちゃんのかすれた傷だらけのスマホは、もはや、飽きて置き去りにされた玩具に見える。
「ゲームとかやってないの?」
「やってるよ、パソコンで」
「えー、スマホでやる方が便利じゃない?」
「やだー、スマホなんてまどろっこしいもん」
そのとき、スマホに置いた親指が少し重くなった。スマホは、小さい画面と親指だけのプライベート空間。確かに、ここからじゃどこにも飛び立てない気がする。
「もうすぐ受験だね」
頬に肘をついた夏帆ちゃんが呟く。
夏帆ちゃんはゲームクリエイターになりたいと言っていた。私にはまだ何の展望もない。窓から電車のガタンゴトンという音が聞こえる。
夏帆ちゃんの視線の方向を追う。もしかしたら、夏帆ちゃんの行き先が見えるかもしれない。
そう思ったけれど、赤く染まった夕焼け空には薄っすらとした雲が流れているだけで、その先には何があるかわかるはずもない。
私はスマホをポケットにしまって、雲と電車が進むのをぼんやりと眺めた。