「行くぞ! 課長のフルネームは!?」
「えっ? 山田…やま……」
戸惑いながら卓球台に出したラケットの上にボールが浅く当たって、一条さんのコートにふわりと落ちた。
一条さんは左足を思い切り踏み込んで、スマッシュ。私の横を黄色いボールがかすめていった。
「デュース! 次は三日月さんのサーブで!」
私はスリッパをパタパタさせて、床に転がるボールを追いかける。
こんなに手こずるなんて。たるんだ浴衣を帯にキュッと入れて、卓球台の前に立ち直した。
「三日月、負けねえよ。たとえ実力差があったとしても、最後は俺が勝つ!」
両手を腰に当てた一条さんがニヤリと笑う。
ギャラリーからは「一条、盤外戦術なんて卑怯だぞ!」、「正々堂々とやれ!」などという声が上がった。
A崎文具株式会社 営業部の温泉卓球大会決勝――全国大会出場経験のある私、三日月あかりが圧倒的有利と思われたが、一条さんの終わらない問いに翻弄されているうちに、デュースに持ち込まれてしまった。
「盤外戦術じゃねえよ」
ギャラリーに一条さんがゆっくりとした口調で言い返す。
「俺は三日月に『質問に答えろ』なんて言ってない。勝手に三日月が混乱してるだけだぜ」
「屁理屈だ! 三日月さん、新人だからってこんな奴に遠慮せずに、バシッと決めてやれ!」
ラガーマンみたいな角刈りの先輩に白い歯を見せられて、私は曖昧に笑った。
そう、確かに私は質問に答える義務はない。
なのに、反射的に口が動く。頭の中も動く。
そのちょっとしたノイズが、私の動きを遅らせる。だって、私は先輩について回っているだけの新人営業マンだから。
でも、一条さんのサーブをミスってばかりじゃ、いつまで経っても終わらない。
その瞬間、ふと過去の光景が頭をよぎった。
パンフレットばかり必死に見て、お客様に説明していたあの雨の日。
もちろん商談はうまくいかず、傘をだらりと肩にかけて帰る私に、ホットコーヒーを渡してくれた一条さんが呟いた。
「三日月、営業の基本は相手の観察。それと、ちょっとした踏み込む勇気だ」
――今、この瞬間も同じじゃない?
ラケットを握り直して、観察する。
コートの向こう側の一条さんは涼しい顔をしているけれど、ラケットで顔を仰ぎ、頬に汗がつたっている。鋭いコースのスマッシュを受け切れる体力は、ない。
決めた。
私はラケットをかまえて、中腰になる。一条さんはボールを高く宙に放り投げた。
「三日月! 令和なのに何で温泉卓球大会なんかやってると思……」
「一条さんを打ちのめすためです!」
サーブが真っすぐ私の体に向かってきた。咄嗟に横へステップを踏み、ラケットを整える。ボールが弾む瞬間、体が自然に動いてくれた。位置は理想通り。
踏み込んで、思い切り振ったラケットとともに、ボールは一条さんのコートに突き刺さった。
「ゲームセット! 三日月さんの勝ち!」
周りから、わあっと歓声が上がる。
私はほっと息を吐いた。一条さんは頭をかきながら、こちらに向かってきて、手を差し出した。
「ありがとうございました」
私も手を出して握手する。一条さんはふーっとため息をついた。
「あの、何か?」
「何かじゃねえよ。俺を打ちのめすって?」
「あ、あれは……」
あれは決め打ちだった。どんな質問が来ても一条さんの名前を出せば違和感ないと思って、叫んだ。でも、やっぱり失礼だったか。握手の中にじんわりと冷や汗が混じる。
「すみませ……」
「いい踏み込みだったよ」
「え?」
一条さんはそう言って目を逸らした。
そして、タオルを首からかけたまま、浴衣を翻して去っていく。少し顔が赤かったような気がするのは、私の思い上がりだろうか。
10/26/2025, 11:54:58 AM