転職は投機。いや、ギャンブルに近い。
もう辞めたはずのあの会社を思い出すだけで、胃から酸っぱいものが込み上げてくる。
忘れた方がいい。私は洗面所で髪をキュッと一つに結び、コンパクトを開けた。
「うん。まだ使える」
四隅に残ったファンデーションをスポンジでつついて鏡を見た。すると、鏡面がさざ波みたいにざあざあと揺れている。思わず目を閉じてから、そおっと開けると、鏡にはセミロングのウェーブ姿の私が写っていた。
「私? 何そのひっつめ髪」
鏡の中の私は、目をまんまるに開けている。よく見ると、頬がふっくらしていて何だか若々しい。丁寧なピンク色のチークと、幾重にも重なったアイシャドウのせいかもしれない。
「そっちこそ二重顎になってる」
せめて言い返す。
「だって、働いてるんだもん。おいしいもの食べてもいいじゃない」
「何の仕事?」
「え? 食品会社の事務よ。新卒からずっとやってるでしょう?」
やっぱり。
ぽっちゃりウェーブは、転職しなかった私だ。毎日、大量のルーチン作業をする工場事務に勤め続けた私。
つまり、鏡の向こうはパラレルワールド。
「……私は転職したの。営業にね」
「え?」
「でも、向いてなかった。営業って、研究と顧客の橋渡しなの。板挟みになっちゃってね。胃潰瘍で辞めたわ」
何が正しいのか、どこに進めばいいかわからなくなった。でも、広い世界に出たいと営業に転職したからには、簡単には手放したくなかった。なのに、胃が痛くてしゃがみ込むと、震えが止まらず、立ち上がれなかった。
「そう……じゃあ、転職しなかったのが正解か。私も迷ったんだけど……」
ぽっちゃりウェーブは手を口に当てて、長い息を吐いた。気の毒そうな表情で見つめられると、悲しくなる。パラレルワールドなんて見たくなかった。と、廊下からパタパタと走ってくる音がする。
「ママー? 誰と喋ってるの?」
娘が扉からひょっこりと顔を出した。振り返る直前――ぽっちゃりウェーブは隠しきれない寂しさがにじみ出るような、泣き笑いの表情をしていた。
「なんでもないよ。ひとり言」
娘を抱き上げて、もう一度鏡を見る。写ったのはひっつめ髪の私と、笑顔でバイバイしている娘。
営業を辞める直前、夫からプロポーズされた。周囲には「結婚のため」と説明できて、有り難かった。
もちろんキャリアは諦めた。けれど、それが失敗とは全く思っていない。
抱いた2歳の娘は、温かくて春の匂いがした。
9/25/2025, 12:42:54 PM