かたいなか

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5/14/2024, 3:58:33 AM

「失われた30年、失われた時を求めて、失われた……聖櫃は『時間』じゃねぇわな」
去年までの数年は、完全に感染症のせいで「失われた時間」だったか。某所在住物書きは「失われた」を検索語句に、ネタを求めてスマホをスワイプ。
たとえば「失われた○月○日」とすれば、少しはエモい物語が書けるだろう――執筆スキルが伴えば。

「失われたバレンタインとかは?」
ふと、物書きがひとつ閃いた。
「……ただのぼっちの俺だわ」
投稿には結びつかなかったらしい。

――――――

最近最近の都内某所、某アパートの一室、早朝。
部屋の主を藤森というが、その日は室内に藤森の友人も1名居て、クマのエプロンに三角巾など付けて生クリームをガシャガシャ!手動でホイッパー片手に全力で泡立てている。
パティシエモドキは名前を付烏月、ツウキという。

「ナンデ?!」
「『なんで』とは、付烏月さん?」
「だってお前、オーブンとかせっかく俺の部屋より良いの揃ってるのに、泡だて器もブレンダーもミキサーも、ことごとく手動じゃん!」

「手作業にすれば運動不足が少し解消できる」
「その手作業中に失われた時間と気力で、他の作業がいっぱいできるっつってんの!手伝って!」

諸事情により、3月から勤務している支店で小さな講義をすることになった付烏月。
議題は「脳の発達過程から見るお客様〜誰が怖そうで危なそうか少し予想をつけるハウトゥ〜」。
前日の朝、付烏月の支店に悪質でモラル無き客がやって来て、新卒者をいじめたのが発端。
付烏月お手製の絶品キューブケーキ4種類3個ずつ計12個を囲み、茶を飲みながら、
支店長の体験と経験と、いくつかの反論や追加情報も交えて、開催される運びとなった。

「丁度良いじゃないか、付烏月さん。脳科学はあなたの得意分野だし、『こういうカンジの人はこう』の目印があれば、その新卒も事前に身構えられる」
「そりゃそうだけど、そうだけどね?」
「何か問題が?」
「大アリだよ!かくかくシカジカ、四角いキューブケーキ!ルイボスティーと紅茶付き!」
「すまない。よく分からない」

付烏月の属する支店は、都内にありながら、1日に約10人も来れば「今日は忙しかったね」の判定となる静かな店。来客数が片手で足りることも多い。
今回のプチ講義は、そんな支店の状況ゆえに実現した新卒者へのメンタルケアと言えた。

講義発案者からキューブケーキの発注を受けた付烏月は、すぐさま藤森に連絡。
自分のアパートより高性能の調理器具が揃い、支店に相対的に少し近い藤森の部屋を緊急訪問。
『これで朝余裕をもって、良い機械と良い材料を使い、良い味のケーキを作ることができる』。
菓子作りを趣味とする付烏月は馴染みの果物屋等々で入念に材料を選び――そこまでは良かった。

「イチバン労力使うクリームの泡立てが手動とか!俺聞いてません!ホント手伝って附子山!」
「今は藤森だ。付烏月さん」
「つべこべ言わないで!一緒に泡立てて!俺と一緒に睡眠で失われた『余裕で間に合う筈だった時間』を取り戻して!ガチで間に合わないから!」

「宇曽野が『俺の嫁と娘にも1個ずつ寄越せ』の交換条件で、既にこの部屋に向かっている」
「あざぁす!!」

ガシャガシャガシャ、カチャカチャカチャ。
早朝の藤森の室内に、ボウルとホイッパー、金属と金属の接触音が断続的に、かつ怒涛の速度で響く。
「附子山、状況!」
「藤森だ。付烏月さん」
「じょーぅきょー!!」
「スポンジが良い具合に冷めた。ジャムは、私には煮詰まっているように見えるが、よく分からない」
「コンコンコンで切って味見して砂糖!」
「……ケーキスポンジを5cmの立方体で切ってジャム味見して私の甘さの感覚次第で砂糖追加了解」

あぁ、ああ、嗚呼。
ホイッパーもブレンダーも、ミキサーも手動だと知っていれば、自分の部屋から事前に持ってきたのに、あるいはもっと早めに起きていたのに。
己自身の睡眠によって失われた時間を悔やみながら、付烏月は渾身の残力で腕を動かす。
付烏月が受けたケーキの発注は、結果として出勤ギリギリの時間に完成し、文字通り「できたて」の状態で保冷バッグに入れられ支店で供された。
ケーキは好評。講演の第二弾も打診されたものの、
翌日、酷い筋肉痛でダウンだったとさ。

5/13/2024, 3:46:22 AM

「子供のお題は、去年の10月と6月にも書いた」
某所在住物書きは呟き、頭を掻く。お題について考えたいのに頭が働かないのだ――寝不足のせいで。
「『子供のように』と『子供の頃は』だったな」
双方ネタが思い浮かばなくて、当時は大人がギャグマンガばりにポコポコ大喧嘩してるハナシであった。
ならば今年は?

「子供、こども……」
ふわあ、ふわわ。
物書きは何度もあくびで口を開き、息を吐く。
「子供のままで」。子供のまま「で良い」のか、子供のまま「ではいけない」のか。はたまた「自分は/彼は/彼女は」子供のまま「です」なのか。
考えれば色々、幅の広がりそうなお題だが……?

――――――

来客数が少なくて、客層もほとんど常連さんばっかりで、バチクソにチルい私の勤務先に、
バチクソ久しぶりにモンカスが現れて、
今週から正式にウチの支店の勤務になった新卒ちゃんが朝っぱらから標的にされて、
それを見た元モンカスの現モンカスホイホイな常連さん、ゲンさん(70代男性)が、
支店長と結託してものの10分でモンカスを撃退して警察に引き渡しちゃった。

『嬢ちゃん災難だったね』
頭が子供のままでっかくなっちゃったモンカスが、雨降りしきる中連行されてくのを見送って、
ゲンさんは新卒ちゃんにアメを3個、ポイポイ差し入れてくれた。
『気にしちゃいけないよ。2〜3突っ込んだ三連単を外したくらいに考えときゃ良いさ。今日は美味いモン食って美味い酒飲んで、すぐ忘れな』

難癖つけられて、暴言吐かれて、心ポッキリ折れかけてた新卒ちゃんは、
支店長が庇ってくれたおかげで暴力的被害は無く、
ゲンさんが割って入ってくれたおかげで既に精神的にも落ち着くことができてて、
なんなら、モンカスを制裁して自分を助けてくれた二人に、尊敬すら感じてるようだった。

まぁ分かる(自分の新人時代の本店)
わかる(先輩と隣部署の主任による連携プレー)

で、時は進んでお昼休憩。
「ああいう人って、頭の中どうなってんだろ」
付烏月さん、ツウキさんが作ってきてくれてた自家製ホイップマカロンを囲んで、私と新卒ちゃんと、それから付烏月さんとでお茶会。
「付烏月さん脳科学詳しいよね。何か知らない?」

「俺附子山だよ、後輩ちゃん」
ぽいぽいぽい。小さなマカロンを遠慮無く口に放り込んで、付烏月さんが言った。
「ああいうタイプのモンカスの頭の中〜?説明メンドいから、知らないことにしとくよん」

「つまり知ってるんだ。いろいろ子供のままでっかくなっちゃった大人の頭の中」
「『子供のまま』、こどものまま……うーん。やっぱり知らないことにしとくよん」

「3種類のキューブケーキ計6個とプラスアルファの大口発注いかがですか付烏月さん」
「ごめん俺パティシエじゃないよ後輩ちゃん。
でも食べたいならウケタマワるよ。期日と大きさと、味の希望と届け先、一応伺うよ」
「違う。そーじゃない」

モンカスさんの頭の中は、私も気になります。
ちょっと元気になってきた新卒ちゃん、勉強の気配にポケットからメモ帳とペンを取り出して、なんか真面目な視線でもって付烏月さんを見てる。
「で?」
私も付烏月さんに視線を投げたら、
「……参っちゃうなぁ」
説明する側としては相当面倒らしく、キュッと唇を結んで、付烏月さんが首筋をカリカリ掻いた。
「うーんとね。ああいうひとの頭は、子供のままっぽいけど子供のままではなくて、……んんー……。
うん、やっぱダメだ!知らないことにしとく!」

「大口発注の量少なかったの付烏月さん?」
「だから、俺パティシエじゃないって後輩ちゃん」
「ウラガネ?わいろ?」
「説明がバチクソ難しいしデリケートなんだって。そんなに知りたいなら、俺じゃなくて藤森に、教えるのが上手い後輩ちゃんの先輩に聞いてよ」

「アクセスキーかパスコード?合言葉?」
「だーかーらぁー……」

5/12/2024, 1:47:24 AM

「このアプリ、恋ネタ愛ネタは比較的多いんだわ」
先々月の「愛と平和」、去年12月の「愛を注いで」に11月の愛情、それから10月の「愛言葉」。
これに類義語の「恋」も含めれば、直近でも、もう少し増えるだろう。
某所在住物書きは過去投稿したお題を辿りながら、大きなアクビをひとつ、ふたつ。
各地で観測されたオーロラが居住地でも見えやしないかと、妙な時間に散歩に出たのだ――40分歩いて早々に挫折したが。

「オーロラ見ながら愛を、『叫ぶ』のは……」
ちょっと違うかな。物書きは首を傾ける。
いけない。頭が働かない。 寝不足 猛暑 ネタ枯渇も 太陽フレアのせいだろう。

――――――

二次創作、クソデカボイスで推しカプ推しシチュへの愛を叫ぶと、同程度のクソデカボイスで解釈違いだの地雷だののアレルギー報告が返ってくる説。
それはその辺に置いといて、昔々のおはなしです。完全に非現実的なおはなしです。
◯◯年前の都内某所、某稲荷神社敷地内の一軒家に、人に化ける妙技を持つ化け狐の末裔が、一家で仲良く暮らしておりまして、
そのうち末っ子の若狐が、前回投稿分に登場した子狐のお父さん。お嫁さんを探す時期になりました。
祭神のウカノミタマのオオカミ様が、「北に良き相手あり」とお告げをくださったので、
後のコンコン父狐、お告げに従い北上の旅です。
当時のコンコン若狐、お嫁さん探して北上の旅です。

「東京の狐のお嫁さん?私が?」
まずは近場を尋ねましょう。
緑茶の若芽がエメラルドに輝く埼玉県、狭山の静かな茶畑で、コンコン若狐、美しい瞳の狐に会いました。
このひとこそ、私のお嫁さんに違いない!若狐は力いっぱい大きな声で、愛を叫びました。
美しいあなた、私のお嫁さんになってください!

すると美しい瞳の狐、困った顔して言いました。
「私、優しい方より、広い茶畑を駆け回って悪いネズミを全部退治するような、持久力ある方が好きなの」
都内の病院で漢方内科の研修医をしている若狐、広い広い茶畑を見渡して、しょんぼり。
無理です。若狐、そこまで体力無いのです。
失意の中、コンコン若狐、また北上の旅なのです。

「私を、あなたの嫁にしたい?」
東京の真北といえばここでしょう。
風に稲穂そよぐ新潟県、庄内の一面金箔金糸な田んぼで、コンコン若狐、美しい声の狐に会いました。
このひとこそ、私のお嫁さんに違いない!若狐は頑張って綺麗そうな声で、愛を叫びました。
美しいあなた、私のお嫁さんになってください!

すると美しい声の狐、困った顔して言いました。
「私、静かな方より、ドッサリ積もる雪を軽々片付けられるような、寒さにも雪にも強い方が好きなの」
都内の神社、雪ほぼ積もらぬ地域に住む若狐、新潟の豪雪を思い浮かべて、しょんぼり。
無理です。若狐、それほど力持ちじゃありません。
意気消沈の中、コンコン若狐、更に北上の旅です。

山形のアメジストなブドウ畑を通り、秋田の真珠みたいな手延うどんを横目に白神山地に入り、サファイアの池で喉を潤して、とってって、とってって。
コンコン若狐、北上と失恋を重ねに重ねて、とうとう本州最北の県までやって来ました。
ここまで55連敗。そろそろ気持ちがキツいです。

「東京のあなたが、北国の私を、ですか」
雪降り積もる小さな霊場の山の中で、コンコン若狐、美しい毛並みの狐に会いました。
父親は、北海道と本州繋ぐトンネル伝って、長い旅してきた黒狐。母親は、小さな霊場を根城にする白狐。
親のどちらにも似てないけれど、その美しい毛並みは、雪氷まとってキラキラ光り輝いておりました。
このひとこそ、私のお嫁さんに違いない!若狐はこれを最後と、一生懸命愛を叫びました。
美しいあなた、私のお嫁さんになってください!

すると美しい毛並みの狐、困った顔せず言いました。
「東京からここまで来るあたり、随分辛抱強い方ですね。私は心の強さを好みます。 いいでしょう。あなたのお嫁さんになってあげましょう」
都内某所の稲荷神社在住な若狐、ここにきてようやくニッコリ。55連敗のその先で、ついに、美しいお嫁さんと巡り合ったのです!
幸福と感謝でビタンビタン。尻尾をバチクソ振って、若狐、お嫁さんと一緒に東京へ帰ってゆきました。
それから都内の若狐は某病院の漢方医として、北国の嫁狐は稲荷神社近くに茶葉屋を開いて、
酷い喧嘩も無く、双方浮気もせず、
いつまでも愛を叫んでささやき返して、穏やかに、幸せに、平和に暮らしましたとさ。

5/11/2024, 4:14:51 AM

「生物植物系少なめなこのアプリとしては、蝶のお題は珍しい気がするんよ」
去年の3月からアプリ入れてるが、今まで生物植物ネタは4月17日付近の「桜散る」とか2月2日の「勿忘草(わすれなぐさ)」、動物では去年11月の「子猫」くらいだし。
某所在住物書きはスマホの画面を指で流しながら、過去出題分の題目を確認している。

「どうハナシに組み込もうかねぇ」
物書きはネタ保管庫たるメモ帳アプリを開いた。
「第一印象としては無難に『あっ、蝶々』だろうが、他は蝶柄の小物とか、『バタフライ』エフェクト?」
去年は丁度東京で地震があって、モンシロチョウにプチ防災講座をさせた。
今年は同じ手は使えない。では何が良いだろう。

――――――

最近最近の東京、最高気温26℃予報の午前。
正午前の時点で既に20℃を超え、着実に夏日の気温へ向かっているものの、
都内某所の某稲荷神社は、深めの森の中に位置しており、かつ小川も泉もあるためか、
比較的ひっそりとしていて、わずかに涼しい。

くっくぅくぅ、くっくぅく〜くぅ。
木漏れ日落ちる敷地内の自然庭を、そこに整備された散歩道を、子狐が幸福に歌いながら歩いている。
首から「エキノコックス・狂犬病対策済」の木札を下げたモフモフは、この神社の在住。
敷地内に馴染みの優しい参拝客が居ることを、自慢の鼻でもって感知したのだ。
「あれ」は、己の腹を背中を頭を、心地よく撫でてくれる参拝者の匂いだ。体を優しく抱きかかえてくれる善良者の匂いであり、毎度10円以上501円未満の範囲でお賽銭してくれるお得意様の匂いだ。

果たしてコンコン子狐は、稲荷神社の森の中で片膝ついてしゃがみ込み、穏やかな表情で花にスマホを向ける雪国出身者を見つけると、
くわぁ!カカカッ、くぁ〜!
よりいっそう元気な声で鳴きながら、加速し、背中めがけて全力で突撃していく。

「わっ?!」
背後から飛び掛かられ、よじ登られ、右肩に前足をかけられた雪国出身者。バランスを崩しかけ倒れるところであった「お得意様」は、名前を藤森といった。
「なんだ、子狐、お前か」
尻尾ビタンビタン髪の毛カジカジの子狐の横を、藤森が被写体としていたモンシロチョウが、ヒラヒラ。飛んで離れていく。

「お前の母さんの茶葉屋の、テイクアウトの匂いでも嗅ぎつけてきたのか」
知らない。遊んで。コンコン。
「それとも、お前も撮ってやろうか、白いモンシロチョウや白いオダマキと一緒に?」
撮らない。お賽銭ちょーだい。コンコン。
「そうか。写真より、お前の母さんの茶か」
ちがう!遊んで!オカネ落として!ぎゃんっ!

「ノンカフェイン。麦茶だ。お前でも飲める」
子狐の要求と主張は「諸事情」によって理解しているくせに、藤森はホオガシワの葉を1枚摘んで、即席の水容器を折る。
「美味いぞ」
トプトプトプ。葉を琥珀色の氷抜きで満たし、子狐の口元に近づけると、ヒラヒラ、ひらひら。
先程離れたモンシロチョウが、葉製の水容器を羽休め場所と認識したらしく、葉先にとまり、羽を閉じた。

わん。 子狐が噛む真似をすると、蝶が飛んで、離れて、また戻ってきて羽を閉じる。
わんっ。子狐が再度噛み真似すると、また蝶が飛んで離れて、戻ってきて羽を閉じる。
段々面白くなってきたらしい。コンコン子狐は更に蝶に噛み真似して、前足でちょっかいを出し、
身を乗り出してバランス崩してポテリ。足場たる右肩から転げ落ちかけて、藤森の手に救出された。

「モンシロチョウで遊んでたつもりが、逆にモンシロチョウに遊ばれていたようだな。子狐」
救出動作の過程で完全にこぼれてしまった麦茶によって、自慢のフサフサ尻尾がビッショリの子狐を、ぎこちなくも穏やかに笑いながら、拭いてやる藤森。
「もう少しだけ、お前の神社に居させてくれ。白オダマキとガマズミと、シャクヤクを撮りたいんだ」
地面に下ろされた子狐は、ここんコンコン、ここコンコンコン!吠えて走って藤森のあとを追いかけ、
延々と、賽銭と油揚げと撫で撫でを要求しておったとさ。 おしまい、おしまい。

5/10/2024, 3:35:39 AM

「去年の10月17日が、たしか『忘れたくても忘れられない』だったわ」
去年は「忘れる頃に『それ』が再度出てくるから、結果としていつまでも忘れられない」みたいなハナシを書いたな。某所在住物書きはスマホの画面を見ながら、忘れられぬ過去を振り返った。
表示されているのは○年前の△月の課金額。
爆死であった。人権武器であった。
サ終して久しい、□□▲円であった。

「『忘れる』ことができない特性持ちの人が、実際に居るってハナシは、どっかで聞いた気がする」
物書きは更に課金の履歴を辿り、ため息。
いつまでも忘れられない記憶力が有れば、この総額【編集済】はもう少し少なかったのだろうか。

――――――

年号がまだ、平成だった頃の都内某所。14年ほど前の春から始まるおはなしです。
このおはなしの主人公、宇曽野という名前ですが、某バスターミナルのあたりを散歩していたところ、高速バスから、自分より少し若いくらいの20代が降りてくるのを見かけました。
「来た、東京だ!暖かいなぁ!」
大きなキャリーケースと、小さな地図を片手に、少々残念な曇り空を見上げて、それはそれは澄んだ瞳を、綺麗な瞳を輝かせていました。

地方出身者だ。宇曽野はすぐ気が付きました。
「すいません!物を知らないので、聞くのですが、」
地図を見せて、宇曽野に道を聞く言い回しが、抑揚が、東京のそれと違ったからです。
なにより人を疑う視線を、これっぽっちも持っていなかったからです。
「この地図の、ここに、行きたいんです。どこのどれに乗れば良いか、サッパリ分からなくて」

まるで、明るい木陰で風に揺れる花だ。山野草だ。
宇曽野はこの花の人に、澄んだ瞳の輝きに、
少しだけ、興味を持ちました。

東京に出てきたばかりの、都会の人とシステムを知らぬ花の人は、どうやら自分の新居たるアパートへの行き方と乗り方が分からない様子。
興味半分親切四半分、残りは愛する嫁への土産話程度の本心で宇曽野が案内してやると、そのひとは礼儀正しく丁寧にお辞儀して、お礼を言いました。

数ヶ月後の晩夏、宇曽野は自分の職場の窓口で、再度花の人と出会いました。
「あなたは、あのときの」
花の人は、ブシヤマ、「附子山」と名乗りました。
「騎士道」のトリカブトだな。宇曽野は納得しました。やはり花の人は、「花の人」だったようです――有害無害、生薬利用はさておいて。

春に輝き澄んでいた瞳は、早速「東京」と「田舎」の違いに揉まれ、擦られ、疲れてしまったようで、ほんの少し、くすみ曇って見えました。
「ここに勤めていらしたんですね。あのときは、お世話になりました」
用事を済ませて帰ろうとする附子山に、宇曽野は「まぁ元気出せ」の意味で、ノベルティを2個ほどくれてやりました。

二度あることは三度ある、とはよく言ったもので、
数ヶ月後の冬の頃、宇曽野は自宅近くの喫茶店で花の人を、附子山を見つけました。
「宇曽野さん……?」
テーブルの上には転職雑誌。附子山の瞳は最初に比べて、ずっと、ずっとくすんで曇ってしまって、光は僅かに残るばかり。
あぁ。「染まってきた」な。宇曽野は悟りました。
そして少し話を聞いてやり、ついでにほんのちょっとだけ、附子山を気にかけてやることにしました。

連絡先を交換して、無理矢理その日のうちに昼メシの約束を取り付けて。これが宇曽野と附子山の、親友としての最初の日となりました。
宇曽野はその日を、一緒に飲んだコーヒーの味を、
いつまでも。いつまでも忘れられませんでした。

都民と地方民が出会ってからの、都民がいつまでも忘れられない日のおはなしでした。
附子山はそれから前回投稿分の経緯で初恋して、失恋して、諸事情で「藤森」と名字を変え、なんやかんやで宇曽野の職場に転職し、
宇曽野はそんな「藤森」と、時に語り合い、時に笑い合い、時にたかが冷蔵庫のプリンひとつでポコポコ大喧嘩をしたりしました。
おかげで藤森、東京の歩き方を学習し、「人間嫌い」もちょっと治って、曇った瞳がだいぶ輝きを取り戻してきておりまして、
現在は昨今の高温でデロンデロンに溶けたり、行きつけの店の看板子狐に髪の毛をカジカジされたり、
そこそこ幸福に毎日を、多分楽しんでるとか、意外とドタバタも多いとか。 おしまい、おしまい。

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